永観堂
(えいかんどう)南禅寺のすぐ北、哲学の道の南端に永観堂が建っています。正式名は「禅林寺」。「永観堂」とは、禅林寺の中興の祖、永観律師の名にちなんだ通称で浄土宗の寺院です。また、「もみじの永観堂」といわれる通り、秋の紅葉は京都屈指の美しさを誇ります。
本坊
山号・寺号 | 聖衆来迎山 禅林寺(浄土宗西山禅林寺派 ) 通称:永観堂 |
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住所 | 京都市左京区永観堂町48 |
電話 | 075-761-0007 |
アクセス |
市バス 5系統「南禅寺・永観堂道」下車徒歩3分 93,203,204系統「東天王町」下車徒歩8分 地下鉄 東西線「蹴上」下車徒歩15分 |
拝観時間 | 9:00-17:00(受付16:00終了) |
拝観料 | 一般600円 小中高生400円 団体30名以上:一般500円 小中高生350円 障害者手帳の提示で割引あり 別途、秋の寺宝展、ライトアップ期間あり |
公式サイト | http://www.eikando.or.jp/index.htm |
念仏と弱者救済に生きた人、永観(えいかん・ようかん)
永観堂(えいかんどう)の通称で親しまれる禅林寺は、南禅寺の北、若王子山の麓に建っています。平安時代初期に真言密教の道場として開創された禅林寺は、平安中期になり、第7世の永観がその教えを密教から浄土教へと大きく転換させ、第12世の静遍(じょうへん)以降、浄土宗の寺院となりました。そのため永観(えいかん・ようかん)は禅林寺の中興の祖と呼ばれています。
平安時代初期、この地には藤原関雄(ふじわらのせきお)の山荘が建っていました。関雄は藤原北家の出身、藤原真夏の子で、若くして文章生(もんじょうしょう)の試験に合格しますが、すぐには宮廷に仕えず、ここ東山に隠遁したといわれています。林泉を愛した彼の風流な暮らしを当時の人々は羨ましがったとも。藤原関雄の有名な和歌が『古今和歌集』に選ばれています。
奥山の いはがきもみじ ちりぬべし
てる日の光 みる時なくて
歌の「岩垣もみじ」は山の斜面に林立する楓を詠んだもので、関雄が住んだ頃からすでに若王子山の麓はもみじの名所であったようです。現在の永観堂の境内も、堂塔や回廊を取り巻く山肌から楓の木立が伸びて「岩垣もみじ」の風情を楽しむことができます。関雄はのちに淳和上皇と仁明天皇に仕え、治部少輔(じぶしょうゆう)や斎院長官なども歴任し、仁寿3年(853)に49歳で亡くなりました。
河内の観心寺の住持であった真紹(しんしょう)は、関雄の土地を買い取って京都に密教道場を開こうとしました。真紹は空海・実慧の弟子で、東寺二長者の1人にもなった人です。しかし当時の平安京では僧侶が民間の屋敷を買うことや、私寺を建てることは許されていなかったので、真紹は、まず官寺扱いの定額寺を建てる手続きを取り、清和天皇から勅許を受けることで、貞観5年(863)に禅林寺を開くことに成功したと考えられています。「禅林寺」の寺号を授けたのも清和天皇でした。
真紹は観心寺から本尊の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と四方の仏像を禅林寺の境内に遷しました。また創建から5年後には15カ条からなる「禅林寺式」を制定し、禅林寺を真言密教の実践道場としてさらに発展させました。貞観15年(873)に真紹が77歳で遷化すると、甥の宗叡(そうえい)が第2世となり、陽成天皇から寺地を下賜され、拡張した境内に仏殿を建て、勅願寺として寺観を整えたといわれています。
しかしやがて禅林寺は衰微し、それを中興したのが第7世の永観でした。永観は、長元6年(1033)に文章生であった源国経(みなもとのくにつね)の子として生まれています。翌年には石清水八幡宮別当の元命法眼の家に養子に出され、8歳からは山崎の開成寺で過ごしました。開成寺の上人から不動明王呪を伝授された永観は、瞬時にこれを暗誦して上人を驚かせたといわれています。永観は11歳のとき禅林寺の深観(じんかん)に師事し、翌年東大寺戒壇院で具足戒を受け、三論宗を学びました。
三論宗には奈良時代の僧、智光が信仰した浄土教の思想がありました。智光が学友の頼光の死に接したとき、智光の夢に往生する頼光の姿が現れたので、その浄土往生の様子を曼荼羅に描かせて念仏を称えたのが三論宗浄土教の始まりといわれています。永観はこの阿弥陀の教えに感激し、18歳のとき、師の深観が亡くなったのを機に、1日一万遍の念仏を称えることを日課にしたと伝えられています。
東大寺東南院の学侶であった永観は、念仏に傾倒する一方、師の有慶(ゆうけい)のもとで仏教の研鑽を重ね、各種法会に参仕して「堅義(りゅうぎ)」を務め、質問者の論難に鋭く答えて俊才ぶりを認められていきました。天喜5年(1057)に平等院で行われた論義では源師房(みなもとのもろふさ)を感嘆させて、以後、永観は師房の身近に仕える僧となります。
ところが、30歳をすぎたころから永観は風痒(神経痛の一種)を患い、32歳で木津の光明山寺に籠って8年を過ごすことになります。病気の苦痛に悩まされた永観でしたが、この出来事は自らの仏道を深める転機となったようです。永観は「病はこれ真の善知識なり」といったと伝えられます。
病が癒えた永観は40歳で禅林寺に戻り、境内の片隅に草庵を結んで1日六万遍の念仏を称えはじめます。こうして浄土往生への確信を深め、47歳のときに『往生講式』を著しました。これは弟子たちに向け、どこでも念仏法会ができるよう往生講の儀式作法を書き記したものです。永観はこれを書き終えた夜、1人の僧がどこからともなく現れ、講式の一部を添削して忽然と立ち去っていったと伝えられています。あとには奇瑞を示す異香が漂い、永観は驚きつつも「弥陀の化現」と確信しています。
自らの念仏行と衆生のための往生講を推し進めながら、永観はとりわけ病人や窮乏の人々に救いの手を差し伸べています。境内に薬王院という施療院を建て、貧しい人々には物を貸し与え、阿弥陀の教えを説いたので、永観のまわりには念仏者や下層の人々が集まりました。彼は晩年『往生拾因(おうじょうじゅういん)』を著して、平易な言葉で浄土往生と念仏の関係を説いています。
平安中期、浄土往生の教えは貴族を中心に広まっていました。比叡山を中心として展開した天台の浄土教に対して、南都の旧仏教とともに発展した浄土教の流れがあり、高野山の真言密教にも南都仏教と密接な浄土往生の思想がありました。寛和元年(985年)に恵心僧都源信が『往生要集』を著してからは、末法思想と結びついて、浄土信仰は広く流行します。
ところで「浄土」にもいろいろあるようで、「極楽浄土」とは阿弥陀如来が住む西方浄土を指すそうです。また「極楽往生」とは阿弥陀さまのもとに生まれることで、その後は苦痛のない世界で仏に成ることを目指して修行するものらしいです。
『往生要集』が世に出てから約50年後に生まれた永観の浄土観は、中国の曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)、懐感(えかん)、善導(ぜんどう)を始め、南都浄土教、比叡山浄土教のそれぞれの思想に注目し、そこに独自の解釈を加えたものとみられています。また永観はさまざまな念仏の対象や方法を肯定して、一心称念するなら、法身、仏智、白毫(びゃくごう)、光明のどれを念じても、また口称しても往生できるといい、さらに、声も出せないほど衰弱した人には地想観(宝地観)を勧めて、すべての人に往生への道を開いたと伝えられています。
永観の入滅後、禅林寺では永観の往生講が受け継がれますが、依然、真言宗も併立していました。鎌倉時代の初め、真言密教を学んで禅林寺に入った静遍(じょうへん)は、平清盛の異母弟・平頼盛の子でした。彼は法然の『選択本願念仏集』を論破しようとしていたのですが、何度も読むうちに法然に帰依するようになったといわれています。法然はすでに亡くなっていましたが、静遍は弟子の礼をとって、禅林寺第11世に法然を置き、自らを第12世として、次世を法然の直弟子である西山の証空(しょうくう)に譲ります。以降、禅林寺は浄土宗の寺院となりました。ちなみに法然は、永観生誕からちょうど100年後に生まれた人で、永観の影響も受けたといわれています。
遅れる人を待ってくれるという「みかえり阿弥陀」
阿弥陀堂は禅林寺の本堂で、その中に「みかえり阿弥陀」と呼ばれる木造の阿弥陀如来立像が安置されています。身体は正面を向いていますが、顔を大きく左に向けて立つ阿弥陀像はとても珍しく、像高77cmという小柄な阿弥陀さまです。
永保2年(1082)2月15日の真夜中、永観はいつものように阿弥陀如来像の周りを歩きながら念仏を称えて修行に励んでいました。朝を迎える頃になり、ふと気づくと阿弥陀さまが須弥壇から下り、自分の前を歩いて行道を始めていたそうです。永観が驚いて立ちすくんでいると、阿弥陀さまが振り返り「永観遅し」と言いました。仏像はそのときの姿だといわれています。
平安時代後期(鎌倉初期とも)に作られたという作者不明の阿弥陀如来立像は、無表情の中にやさしさが込められた美しい仏像です。「永観遅し」は、ちょっと言葉足らずのような気がしますが、自分より遅れる者たちを待つ慈悲の心、そして自分自身の立ち位置を顧みる心を表しているそうです。「永観、遅いじゃないか。まだ迷いがあるのかね。大丈夫、安心してついて来なさい」くらいのニュアンスでしょうか。
寛治5年(1091)、56歳の永観は、法成寺の法華八講に際して、論義の質問者(精義)として招かれました。その席で、永観の質問に答えられない回答者(堅義)の慶助(けいじょ)に対して判定者(探題)の永超(えいちょう)が逐一答えを教えてやっているのを見て、永観はルール違反だと永超を厳しく責めたそうです。すると論義の主催者であった関白藤原師実(ふじわらのもろざね)は、永観の態度を無礼な行いだと激怒したと伝えられています。
法成寺は藤原氏の寺であり、永超も慶助も藤原氏であったので、師実は機嫌を損ねたのかもしれません。しかし永観はそれ以降、再三の公的要請にもかかわらず各種法会の参仕を断るようになりました。永観にとってそれよりも大事なのは、禅林寺を拠点とした念仏行と、衆生を交えての往生講と、慈善活動だったようです。永観は『往生拾因』のなかで、学侶たちが名利を求めて特権階級に迎合する風潮を痛烈に批判しています。
けれども永観は晩年、東大寺別当職をやむなく引き受けて、東大寺の再建を見事に果たしています。『往生拾因』の冒頭に「念仏宗 永観」と書き、巻末に「南都東大寺 沙門」と署名した永観は、生涯を通し、公式に念仏宗を立ち上げるには至りませんでした。そこには12歳から在籍し続けた東大寺への遠慮があったとみられています。
鴨長明(かものちょうめい)の『発心集』には永観に関する記述があります。その内容は「永観は禅林寺に籠居し、人に物を貸して日々を送っている。借りる時も、返す時も、相手の意のままに任せている。元々は仏の所有物というのだ。ひどく貧しい者が返さぬときには寺に呼んで貸した物の値に応じて念仏を称えさせ、物は与えてやっていた」とか、「禅林寺境内に梅の木があった。梅の実がなると年ごとに採って薬王院の病人たちに与えた。あたりの人はこの梅の木を悲田梅(ひでんばい)と呼んだ」などです。悲田梅は今も方丈脇に植わっています。
その人柄をみると「みかえり阿弥陀」は永観そのもののように思えてきます。禅林寺の宗祖は寺史の経緯から法然になっていますが、法然の影はほとんど見られません。このお寺は「永観堂」で通っていて、やはり永観の寺なのです。