岩倉 実相院
(いわくら じっそういん)実相院は鎌倉時代に静基(じょうき)によって創建された門跡寺院です。東山を借景にした石庭や、山水庭園が有名で、床に映る新緑の「床みどり」と秋の「床もみじ」の美しさは格別です。江戸時代、実相院の寺務を取り仕切っていたのは坊官でした。近くには維新十傑に数えられた岩倉具視(いわくらともみ)の幽棲旧宅があります。
実相院門跡 表門
山号・寺号 | 岩倉山 実相院(単立寺院) |
---|---|
住所 | 京都市左京区岩倉上蔵町121 |
電話 | 075-781-5464 |
アクセス | 地下鉄烏丸線
「国際会館前」下車、京都バス24系統「岩倉実相院」下車 四条河原町(乗り場南向き)・三条京阪・出町柳から 京都バス 41,43系統「岩倉中町」下車徒歩10分 叡山電車 鞍馬線「二軒茶屋」または「鞍馬」行「岩倉」下車徒歩20分 |
拝観時間 | 9:00~17:00(不定休) |
拝観料 | 大人 500円 小中学生 250円 |
公式サイト | http://www.jissoin.com/ |
実相院にみる門跡寺院の雅と、坊官たちの俗
実相院の建つ岩倉盆地は京都市の北東部に位置し、古代の早くから開拓され、人々が集落をつくって住んだところです。岩倉の名の通り、古代には磐座(いわくら)信仰が根付いていたらしく、山住神社(やまずみじんじゃ)などにもその名残がみられます。
実相院は、鎌倉時代の寛喜元年(1229)、静基(じょうき)を開祖に門跡寺院として開創されたといわれています。静基は関白・近衛基通(このえもとみち)の孫で、鷹司兼基(たかつかさかねもと)の子にあたります。実相院の寺号は、静基が園城寺(三井寺)に入檀、受戒して実相院と号したことに由ります。園城寺は天台宗寺門派の寺院です。平安時代中期に山門派(円仁派)と寺門派(円珍派)の争いが起きたとき、寺門派の余慶(よけい)は門人数百人を率いて比叡山を下り、岩倉の大雲寺に住んだといわれています。この大雲寺と実相院は長い間深い関わりをもっていました。
大雲寺は天禄12年(971)、日野文範(ひのふみのり)が真覚を開山に迎え、園城寺の別院として創建した寺院で、現在の実相院の北に広大な敷地を有し、南北朝期以降は実相院によって管理されていました。一方の実相院は、もとは紫野にあり、応仁の乱後に岩倉に移ったといわれています。大雲寺の寺務のしやすさも考慮されたようです。
室町時代末期には実相院は荒廃していたようですが、江戸時代になり、義尊(ぎそん)により再興されました。義尊の祖父は室町幕府15代将軍・足利義昭で、義昭の子の義尋(ぎじん)は信長に人質に取られて1歳で出家させられています。やがて義尋は興福寺の大僧正となりますが、その後還俗して、古市胤子(ふるいちたねこ)との間に2人の子をもうけます。それが義尊(ぎそん)と常尊(じょうそん)でした。
義尋が死去したあと古市胤子は宮中に仕えて三位局と呼ばれ、後陽成天皇との間に3人の子をもうけましたが、義尋の子である義尊も皇子同様に天皇から寵愛されたといわれています。義尊は実相院に入寺し、後水尾天皇と東福門院の支援、つまり皇室と徳川家の援助を受けて伽藍を再建しました。
江戸時代中期、伏見宮邦永(ふしみのみやくになが)親王の子、義周(ぎしゅう)親王が門跡となった際に、京都御所にあった承秋門院(じょうしゅうもんいん)の旧宮殿から四脚門、御車寄、客殿が移築されています。客殿内部は御所から下賜された狩野派の障壁画で飾られ、門跡寺院の雅やかな風情をたたえています。
客殿と本殿の間には池泉回遊式の山水庭園があり、新緑と紅葉の時期には磨きぬかれた黒床に庭の楓が美しく映えます。これは「床みどり」「床もみじ」と呼ばれて参拝者を堪能させてくれます。また、枯山水の石庭は、比叡山をみごとに借景した伸びやかで雄大な庭園です。
近世になると、実相院の寺務を掌握し、実際に寺の実権を握っていたのは坊官だったそうです。坊官は門跡に仕えるため、いちおう剃髪して僧衣をまとっていましたが、肉食妻帯で身分は貴族でした。その役職は世襲制で、芝之坊(松尾家)、岸之坊(三好家)、蔵井坊(北河原家)が中心となって実相院を支えていました。一方、歴代門跡は都から遠い岩倉に常住していたわけでなく、洛中に里坊を営み生活していたといわれています。また、実相院に限らず門跡寺院では門跡が選任されずに不在となる時期が頻繁にありました。それでも坊官さえしっかりしていれば寺の運営は成り立っていたようです。
運営といえば、江戸時代、実相院は寺領として600石余りを安堵されていましたが、さらに収入アップを目指して金融業に取り組んでいました。市中の人々にお金を貸付けていたのですが、お寺で借りると仏罰が怖くて元利ともにきちんと完済されるので、焦げ付きのリスクが小さかったようです。帳簿によれば、取り立てやすい近隣に小口の借主が多かったということです。
また、実相院の支配下にあった大雲寺の境内からは、心の病に効く霊験あらたかな井戸水が出るというので、治癒を願って遠方から多くの人々が参籠にやってきました。後三条天皇の第三皇女が心の病を患ったとき、お寺に祈願して井戸水を飲んだところ治ったという伝えが各地に広まっていたからだといわれています。大雲寺では長期滞在での療養も可能で、冥加金の金額は参籠する場所によって定められていました。そしてこのような治療施設としての大雲寺の営業についても、管理していたのは実相院でした。
こうした上下関係のなかで、大雲寺の衆徒たちは実相院からの自立を求めて実相院と対立することもありました。また中世の頃から大雲寺の衆徒・坊官の下には公人(くにん)法師の座があり、その配下には力者(りきしゃ)とよばれる特殊な集団がありました。大雲寺の力者は天皇や皇后の崩御に際して棺を担いだり、勅使供奉の役目を務めていました。八瀬童子と似ています。園城寺や円満院、聖護院の配下にも力者はありましたが、力者の統率権は大雲寺力者が掌握していたといわれています。
ところで、膨大な数の古文書を伝える実相院ですが、平成10年(1998)に寺内で『実相院日記』なるものが発見されて注目を浴びました。冊数にして約250冊、明暦元年(1655)から昭和14年(1939)まで、特に明治以前は歴代門主に仕えた坊官らによって綴られた日記です。
この『実相院日記』の内容の一部をお手軽に拝見できるものとして、管宗次氏著の『京都岩倉実相院日記(下級貴族が見た幕末)』があります。拝読してみると、松尾刑部卿法印親定(まつおぎょうぶきょうほういんちかさだ)という坊官によって綴られた幕末の記事が面白いのです。朝幕どちらにもゆかりの深い実相院とあって情報のソースは幅広く、当時の事件や世相に対する民衆の反応なども記されています。この坊官の日記には挿絵なども描かれてあり、ノッている時はかなり凝ったブログのようです。日記は日々の楽しみだったのかもしれません。
なお実相院のすぐそばの岩倉具視の幽棲旧宅は、当時、実相院の寺域に含まれていました。幕末、京都では反幕・攘夷論が過熱し、公武合体政策の一端である和宮降嫁を推進した岩倉具視は、尊攘派に弾劾されて蟄居処分を受け、辞官落飾したのち、西賀茂の霊源寺から苔寺、そして岩倉村へと移り住みました。やがて攘夷強硬論が下火になると、処分中の岩倉具視を訪ねて人がくるようになり、その中には中岡慎太郎や坂本龍馬の姿もあったといわれています。
岩倉具視は岩倉村に来てから何度か家を移っていますが、家を購入する際、身の危険を心配し、家来の名前を使って実相院の坊官に願い出ていました。一方、坊官もことの次第を承知したうえで容認していることが、文久4年(元治元年・1864)11月11日の『実相院日記』に記されています。岩倉具視と坊官や近所の人々との付き合いは良好だったらしく、彼は明治になってからも岩倉村を訪れて村人に御礼の金品を贈ったそうです。
実相院は格式高く、美しい名刹にちがいないのですが、その歴史を覗くと俗世間にすこぶる近いところがあり、そのギャップがおもしろいのです。