曼殊院
(まんしゅいん)延暦年間に最澄が起こした一坊は、是算国師(ぜさんこくし)によって東尾坊(とおのおぼう)とされ、その後、曼殊院となりました。曼殊院は天台五門跡のひとつです。江戸時代の良尚(りょうしょう)法親王によって整えられた伽藍や庭園は、すみずみまで典雅な趣き伝えています。
勅使門
寺号 | 曼殊院(天台宗) |
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住所 | 京都市左京区一乗寺竹ノ内町42 |
電話 | 075-781-5010 |
アクセス | 市バス 5,31,北8系統「一乗寺清水町」下車、徒歩約20分 叡山電車「修学院」下車、徒歩約20分 |
拝観時間 | 9:00~17:00(受付終了16:30) |
拝観料 | 一般600円 高校生500円 小中学生400円 |
公式サイト | https://www.manshuinmonzeki.jp/ |
良尚(りょうしょう)法親王の美意識が充満する名刹
白川通から曼殊院道を東山に向かって行くと曼殊院の勅使門が正面に見えてきます。門前には石段が設けられ、5本の水平線が入った築地塀が門跡寺院の寺格の高さを現わしています。勅使門を右手にみて石畳の短い坂を上がっていくと山門があります。
曼殊院は、青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂とともに京都の天台五門跡のひとつに数えられています。延暦年間(782-806)に最澄が比叡山に起こした一宇にはじまり、天慶(てんぎょう)年間(938-947)に是算国師(ぜさんこくし)が比叡山西塔の北谷に移して東尾坊(とおのおぼう)と号しました。さらに時代が下って天仁年間(1108-1110)に、忠尋(ちゅうじん)が曼殊院と寺号を改め、その後、北山に曼殊院の別院が建てられました。
寺伝によれば、曼殊院の初代門主は是算(ぜさん)国師とされています。また、是算を筆頭に明治までの歴代の曼殊院門主は、北野天満宮の別当も務めていました。是算は菅原家出身といわれ、その縁で北野社との関係ができたともいわれています。北野社と比叡山の曼殊院を兼務するにはかなりの距離を移動する必要があり、やがて行き来に便利な北山の別院が本院になったようです。
北野天満宮の神殿の奉仕にあたっていたのは梅松院、徳勝院、妙蔵院の僧でした。それら祠宮三家の得度にあたり戒師を務めたり、宮仕の僧位を任命するのは曼殊院の北野社別当の役目だったそうです。また北野社における目代(もくだい)とよばれる事務職を担当するなど、曼殊院は北野社の煩雑な社務を負っていました。
室町時代になり足利義満が北山に金閣寺を造営するというので、曼殊院は現在の御所近くに場所を移しています。明応4年(1495)頃には伏見宮貞常(ふしみのみやさだつね)親王の子、慈雲(じうん)法親王が皇族で初めて入寺し、門跡寺院となりました。
曼殊院が現在の地に移ったのは江戸時代の明暦2年(1656)で、このとき良尚(りょうしょう)法親王によって伽藍が整えられました。良尚法親王は八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王の第2皇子で、11歳のとき後水尾天皇の猶子(ゆうし)となり、13歳で叔父の曼殊院門主・良恕(りょうじょ)法親王から得度を受けています。なお後水尾天皇と良尚法親王はもともと従兄弟関係にありました。
良尚法親王の父、八条宮智仁親王は「桂離宮」を造営された方で、和歌、連歌、作庭などに優れた文化人でした。幼少のころ豊臣秀吉の猶子となり後の関白を約束されていましたが、鶴松が生まれたため、秀吉は猶子を解いて宮家を創設し、八条宮としました。一方、後水尾天皇も、叔父である八条宮智仁親王の影響を受けて「修学院離宮」を造営したといわれています。
良尚(りょうしょう)法親王自身も、叔父の良恕(りょうじょ)法親王のもとで学芸の手ほどきを受け、父や水尾天皇の影響も受けて、書道や和歌、立花や茶道、香道などに並々ならぬ才能を発揮し、当代きっての文化人と謳われたそうです。さらに、良尚法親王は25歳で天台座主となり、しばらく途絶えていた天台宗最大の伝統法会である法華大会(ほっけだいえ)を復興するなど比叡山の統率にも尽くされています。
山門をくぐるとまず目にするのが庫裡に掲げられた扁額です。「媚竈(びそう)」の文字は良尚法親王の筆によるそうです。論語からとられた「媚竈」とは「奥にいる権力者に媚びるのではなく、実際に竈(かまど)を預かっている者に感謝せよ」を意味するようです。
参拝時、そんな意味を知らないまま「竈…?」と思っていると、庫裡の左手に「上之台所」があり、竈を見つけました。「上之台所」は高貴な来客の食事を用意するための厨房だそうです。一方、庫裡は下之台所として使われていたといわれますから、一般の僧侶のための台所だったのでしょうか。その庫裡に掲げられた扁額が「媚竈」です。
大玄関の竹の間の襖には竹の図柄を施した壁紙が張られていて、これはわが国最初の木版画といわれています。また虎の間には、狩野永徳筆と伝わる襖絵『竹虎図』11面があり、虎と豹たちが襖に豪快に躍動していました。ちなみに良尚法親王は狩野探幽に絵画を習っていたそうです。孔雀の間の襖絵は岸駒(がんく)作で、親子の孔雀が美しくやわらかな筆致で描かれています。ちなみに岸駒は虎の絵も有名です。長い高床の廊下を渡った先に、本堂である大書院とそれにつづく小書院があります。廊下から梅林の奥に護摩堂が見えます。
大・小書院から庭園を望むと、遠州好みといわれる枯山水の庭が見え、大海をあらわす白砂に鶴島と亀島が浮かんでいます。鶴島の樹齢約400年といわれる五葉松は、鶴を表現していて、根元には良尚法親王の母からのプレゼントといわれるキリシタン灯篭が置かれています。母はキリシタン大名の京極高知(きょうごくたかとも)の娘、常照院常子です。一方、亀島には地を這う亀に模した背の低い松が植えられています。
大書院の欄間には大きな卍くずしが施されて豪快な印象があります。また富士山をかたどった長押(なげし)の釘隠しや、黄昏の間の曼殊院棚と呼ばれる違い棚、屋形船に見立てた小書院の勾欄など、精緻で工夫されたデザインのひとつひとつには、良尚法親王の遊び心が感じられます。そしてそれらの意匠には、父の八条宮智仁親王が手掛けた桂離宮や、後水尾天皇が造営した修学院離宮の影響もみられるそうです。小書院の先には八つの窓をもつ遠州好みの茶室、八窓軒があります(拝観は要予約)。