下鴨神社
(しもがもじんじゃ)その3神武天皇の母・玉依姫と鴨玉依姫、事代主とアジスキタカヒコネ
下鴨神社の第一摂社・河合神社の祭神、多々須玉依日売(たたすたまよりひめ)は、神武天皇の母といわれています。神話では、綿津見豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の娘の豊玉姫が、天孫・ニニギと木花咲耶姫(このはなさくやひめ)との子、火遠理命(ほおり・彦火火出見尊)の妻となり、ウガヤフキアエズを産んだあと去ってしまいます。そしてそのウガヤフキアエズを養育したあと結婚して、神武天皇を産んだのが豊玉姫の妹の玉依姫とされています。
すると、玉依姫の父の建角身命は綿津見豊玉彦ということにもなりそうです。綿津見豊玉彦と豊玉姫は、海神(わたつみ)の宮殿に住んでいました。海神の交通手段は大きなワニや大きな亀で、豊玉姫はウガヤフキアエズを出産するとき、龍や八尋大熊鰐(やひろくまわに)に化身したと伝えられています(『書紀』)。同じように、『書紀』神武紀一書では、八重事代主神も八尋熊鰐(やひろわに)になって玉櫛姫のもとに通っています。八重事代主神一家は海神(わたつみ)の特徴であるワニ(サメ)をトーテムとしていたことが推測されるのです。
『延喜式』神名帳に書かれる「鴨河合坐小社宅神社」という社号の「小社宅(こそべ)」は『日本書紀』に「社戸(こそべ)」とも読まれ、それは下鴨神社本宮の祭神と同じ神々の意です、と河合神社の案内板に書かれています。また「賀茂旧記」にも、御祖多々須玉依比売とあり、下鴨社の御祖(みおや)は多々須玉依比売であることが窺えます。神武天皇の母である玉依姫は、同時に別雷命の御祖(みおや)でもあったようです。別雷神と神武は異父兄弟?
神武天皇の母・玉依姫について、俊永の「倡謌要秘」には、神武天皇が熊野浦で暴風に遭い、危険を感じたとき、天皇が自ら母(玉依姫)の霊璽(れいじ)を八咫烏に賜い、八咫烏はそれを宅神として傳り(もり)奉ったとされています。細かい経緯については割愛しますが、霊璽(れいじ)とは祖霊の依り代(御霊代)で、下鴨神社西本殿の隣と河合神社末社の六社に祀られています。
ここで再びオオタタネコの話に戻ります。『書紀』によれば、崇神朝で国が荒れたとき、オオタタネコが大物主神を祀り、市磯長尾市(いちしのながおち)が倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を祀ったところ、国が治まったと書かれています。倭宿祢の系図(中田憲信編『諸系譜』第2冊)によれば、市磯長尾市は綿津見豊玉彦の子孫(椎根津彦の後)とされ、大和神社の『大倭神社注進状』によれば、倭大国魂神は大己貴神の荒魂とされています。
綿津見豊玉彦の子孫とされる倭氏ですが、『鴨県主家伝』によれば、建角身命の苗胤十四姓として、そのなかに倭姓も記され、倭氏の後裔を名乗った人もあります。
福岡市の志賀島にある志賀海神社には綿津見三神が祀られていますが、もとは安曇磯良(あずみのいそら)が祭神だったといわれています。また志賀島は「漢委奴国王」の金印が出たところでもあります。そしてその対岸の筑前国海岸部周辺には、安曇族たちの国、奴国があったとする説があり、また一説に、大国主の国譲りとは、海神たちの葦原中国(あしはらのなかつくに)である奴国が、高天原の勢力(天孫族)に国譲りを迫られて服属したものと考えられています。高天原の神々と海神はかなり早くから結びついていそうなので、記・紀に書かれたような国譲りがあったかは分かりませんが、いわゆる国譲りのような争いは各地であったようにも思います。
葦原中国の海神(わたつみ)たちには、家の門前に湯津杜木(ゆつかつらのき・湯津楓・神聖な桂の木)を植える風習があったようです。記・紀によれば、ホオリ(彦火火出見尊)が綿津見豊玉彦や豊玉姫の住む海神の宮殿を訪れたとき、門前にあった樹が湯津杜(ゆつかつら)で、塩土老翁や豊玉姫がホオリに対し、宮殿の門近くの井戸のほとりにある湯津杜の樹の上で待つよう案内しています。杜(かつら)は境界木とされ、天神が葦原中国に降臨するときの依り代でもありました。
一方、高天原から葦原中国に派遣された天稚彦(あめのわかひこ)が、アジスキタカヒコネの妹、下照姫(したてるひめ)を娶って暮らしていた家の門前にも湯津杜木(ゆつかつらのき)が植わっていたことが記・紀に書かれています。8年経っても高天原に報告しない天稚彦に対し、高天原から派遣された雉(きじ)は湯津杜の梢に止まって天稚彦を尋問しました。そのとき天稚彦は、雉を討った矢の返し矢に討たれて死んでしまいます。天稚彦の葬儀にでかけたアジスキタカヒコネは、天稚彦とそっくりだったため、遺族らに「天稚彦は死んでいなかった」と見間違えられ、怒ったアジスキタカヒコネは「神度剣(かむどのつるぎ)」で喪屋を切り倒してしまうのです。
賀茂社の神紋は双葉葵ですが、葵祭では、葵と桂で髪や祭具などが飾られます。これは鴨県主と海神系氏族の合体を祝うものだと勝手に解釈しています。また、境界木に雉がとまるというのは鳥居の原型かなと想像しています。
アジスキタカヒコネと天稚彦が瓜二つとは謎めいていますが、このことから両者を同神とする説や、天稚彦は天羽羽矢(あめのははや)をもっていたことから、同じく天羽羽矢をもつ饒速日の近親とする説などさまざまあります。なお『古事記』によれば、アジスキタカヒコネを天稚彦と見間違えたのは、天稚彦の父、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)とその妻子とされています。
アジスキタカヒコネが八重事代主(建角身)と同神なら、八重事代主は天背男命(あめのせお)の娘、天津羽羽命(あまつははのみこと)を娶ったと伝えられるので、天稚彦として天羽羽矢を与えられた可能性があると思っています(建角身は天背男の娘婿・天背男は建角身の義父)。天稚彦は返し矢で抹殺されたことになっているので、何かいざこざがあったのかもしれず、それでも八咫烏が高天原から派遣されたのは姻戚関係を結んでいたからで、地祇系の八重事代主である建角身命が神魂命の孫とされ、『旧事紀』に「天神魂命、葛野鴨県主らの祖」と書かれたのは、天背男命の祖先神に系譜を結び付けたためとも考えられるのです。これはスサノオと娘婿の大己貴神が親子と呼ばれたりした古代なら、ありふれたことだったかもしれません。
建角身命は久我国に鎮まったとされ、『鴨県主家伝』には久我神これなり、と書かれています。山背国にはいつからか天背男命の後裔とされる山背久我直が居住していました。また『旧事紀』によれば「天世平命、久我直らの祖」とされ、天世平命は天世乎命(あめのせお)とも考えられています。久我直は鴨県主と同祖という伝えもあるので、天背男命の男系正流の久我直があったのかもしれません。
伏見区の久我神社(こがじんじゃ・久何神社)には建角身命・玉依姫・別雷命が祀られています。建角身は森大明神(もりのだいみょうじん)とも呼ばれ、建角身命が最初に鎮まったところと伝えられています。建角身系の信仰は太陽と水(禊)に象徴されますが、森林・樹木の神でもあり、玉依日売の降臨を祈願するのも樹下神事です。山背久我直との関係は不明ですが、八重事代主が国譲りを迫られたとき「天の逆手」を打って隠れたというのは、国つ神から天つ神に転じたことを意味するのかも? 八重事代主(アジスキタカヒコネ)には二面性が見え隠れします。下照姫がアジスキタカヒコネのことを「天なるや 弟織女の 頸(うな)がせる 玉の御統(みすまる)の あな玉はや み谷二渡らす 味耜高彦根」と歌った「二つの谷に渡って輝く」とは2つの国(高天原と海神の国)に渡ってと思えなくもないのです。
ただし、天稚彦は下照姫を娶ったことになっています。下照姫の夫がいたとしたら、やはり浮上するのは、天羽羽矢をもつ饒速日命か、またはその父、天津彦根命(天背男命)でしょう。でもそれが天稚彦かというと、天稚彦の殯(もがり・葬儀)の日数は8日間、饒速日は7日間と伝えられていて、8の数字は何かと建角身の身辺に出てくるので引っかかってしまいます。
なお、天津羽羽命の兄(天背男の子)に阿波忌部氏の祖とされる天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるや)がいますが(参考系図:鴨県主の男系先祖)、この神は天御影命(天櫛玉命)と同神とみています。天日鷲翔矢命の別名は天加奈止美命(あめのかなとみ)で、おそらく金鳶(かなとび)=金鵄(きんし)。神武天皇の剣に止まって雷光のように輝き、長脛彦を幻惑させたのは八咫烏ではなく、天日鷲翔矢命(饒速日)と考えています。また、天日鷲翔矢命の妻の筥比売(はこひめ)はおそらく鴨玉依日売でしょう。筥=匣(はこ)であり、大物主神が小蛇となって入っていた櫛笥(くしげ)に通じるような気がします。「筥」の概念は鴨県主も大切にしていたようで、鴨俊永は秘伝を「筥傳授」にまとめています。天日鷲翔矢命=天櫛玉命(伊勢都彦命・天御影命・天目一箇命・饒速日命)。
別の系譜からみると、天背男命と同じく角凝魂命の3世孫(または4世孫)とされる神に天湯河桁命(あめのゆかわたな)がいて、天背男命と同神の可能性があります。『書紀』垂仁紀には、30歳になってもものが言えなかった垂仁天皇の皇子・誉津別命(ほむつわけ)が、鵠(くぐい・白鳥)が飛んでいるのを見て片言を発したので、天湯河板挙(あめのゆかわたな)がその鵠を出雲で捕らえて献上し、誉津別命は話せるようになったと書かれます。またこれを受けて、天湯河板挙は鳥取造のカバネを賜り鳥取造らの祖となったとされています。
『姓氏録』には天湯河板挙(天湯河桁・天湯川田奈)の後裔として、鳥取連や美努連、カバネなしの鳥取氏があり、『斎部宿禰本系帳』によれば、天日鷲翔矢命の子の天羽雷命(あめのはづち)は、委文宿祢、美努宿祢、大椋置始連、鳥取部連の祖、と書かれるそうです(写本未確認)。つまり、天湯河桁命の後裔は天背男命の後裔でもあるということで、天背男命の後裔が鳥取造などの氏姓を賜って以降、それを世襲したと解することができます。また三島氏の系図で、天湯河桁命の子に位置づけられるのが少彦名命です。なので少彦名命は、天日鷲翔矢命(天櫛玉命、天御影命、天目一箇命、饒速日命)と同神と考えていいのかもしれません。
氏族が伝えた系譜を大観すると、天櫛玉命を祖とする鴨県主は、物部氏・忌部氏・御上祝氏・山代国造のほか、出雲国造・紀国造・大伴氏(中臣氏も姻族)ら天神系氏族と同じ遠祖に繋がっているように見えます。見えるだけで、父母がはっきりしない限り、途中で繋ぎ合わせたり、女系から別の流れに変わった系譜もたくさんあるのでしょう。世代が理解不能なものもあります。
なお、紀国造の遠祖はスサノオの家系とも固く姻戚関係を結んだことになっています。また紀国造の遠祖から分かれた流れに出雲臣があり、葦原中国(海神国)に降って3年たっても復命しなかった天穂日命や、その次に派遣されて戻らなかった三熊大人(みくまのうし・天夷鳥・天御鳥)がいます。出雲臣の系譜によれば、天櫛玉命は天夷鳥の子なので、神話によれば、少なくともこの数世代にわたって葦原中国(海神国)と手を組んでいたのでしょう。
また安房忌部氏の系譜で見ると、天背男命の先祖には角凝魂命(つのこり)と呼ばれた神がいて、金属に関係があるとすれば、天目一箇命の製鉄や、天御影命の鏡の神格に通じます(角凝魂命の出処が不明ですが)。さらに、天日鷲翔矢命の子の天羽雷命(あめのはづち)は倭文神(しずおりのかみ)とも呼ばれ、美作の倭文荘(しどりのしょう)は賀茂社の第一荘園となっていました。
どこまで史実なのかわかりませんが、八重事代主(綿津見豊玉彦)の家系と天背男(天津彦根命・天夷鳥?)の家系は絡まる糸のごとく強固な関係を結んでいたようです。天背男命と大己貴神との間には「契り」が伝えられていて、お互いの身内同士を娶合わせてガッチリ同盟したともとれます。なお、ここでは言及していない建角身命とその妻・伊可古夜日売命(いかこやひめのみこと)や、事代主とその妻・玉櫛媛(たまくしひめ)、その父・三嶋湟咋(みしまみぞくい)との関係、その他もろもろについては上賀茂神社の項で考察しています。
一方、建角身の直系(玉依日子の後裔)と思われるのは、葛野主殿県主や西埿土部(かわちのはつかしべ)、倭氏らですが、ほかにも後裔氏族はあったはずです。建角身が綿津見豊玉彦であるなら、安曇族でもあり、阿曇比羅夫も然りですが、下鴨神社が神体山と崇めた御蔭山を越え、比叡山を越えると琵琶湖西岸には安曇川(あどがわ)が流れ、志賀の地名が残ります。またそこは和邇氏の拠点でもありました。賀茂社の御厨(みくりや)は、近江高島郡安曇河(あどがわ)や志賀郡堅田浦にも置かれ、山城の愛宕郡小野郷・粟田郷は賀茂社の神領に、丹波国氷上郡の小野庄や、摂津国の小野庄は賀茂社の荘園となっていました。小野氏・粟田氏らは和爾氏から分岐したと伝えられ、海神の信仰と深く共通するところがあります。端的に言えばワニ族だからでしょう。これについてもつづきは上賀茂神社の項で述べています。
活玉依姫は稚日女尊(わかひるめのみこと)?
さらに、玉依日売と同躰の活玉依姫は、稚日女尊(わかひるめのみこと)でもあるのかもしれません。
神功皇后が新羅から凱旋の途中、武庫の水門で船が旋回して進めなかったとき、稚日女尊が「吾、活田長狭国(いくたのながおのくに)に坐したい」と教えたので、神戸の生田神社に祀られたといわれています。つまり活玉依姫(いくたまよりひめ)。語呂合わせみたいですが、祀ったのは海上五十狭茅(うなかみのいさち)で、系譜上、出雲建子(天櫛玉命・伊勢都彦命)の子孫とされています。またこのとき、神功皇后に「広田」に鎮まりたいと神託したのが天照大神で、天照大神を祀った山背根子の娘、葉山媛は、活玉依姫の夫である天事代玉籖入彦命を「長田神社」に祀った長媛の姉にあたります。そして住吉三神が「大津渟中倉長峽」に祀られたのもこのときです。
天事代玉籖入彦命(饒速日)を軸とする一族がこぞって神功皇后に神託したように思われるのです。なぜか? おそらく神功皇后の祖先につながるからでしょうが、天照大神は「皇后の近くに居られない」から祀れと言っていて、相性が悪いのか、まるで鎮魂しなさいと言っているようにも思えます(荒魂パワー?)。また稚日女尊は天照大神の妹とか親子とか和魂などといわれますが、天照大神自体、太陽神である以外、性別も含めて実体はよくわかりません。ただ、鴨玉依日売が伊勢の関係者であることは、斎王が潔斎の年月を経て伊勢に向かうという儀礼からも理解できます。伊勢参向の当日には「別れの御櫛」の儀式があり、時の天皇は自ら斎王の額髪に「櫛」をさすのです。なお、余談ですが、天櫛玉命と同神とみられる少彦名命が生根命(いくね)の別称をもつことも、活玉依姫とよばれた要因かもと思っています。
出雲井於神社(いずもいのへじんじゃ)の本殿には建速須佐乃男命(スサノオ)が祀られています。ただし『鴨県纂書』によれば、陽神にして女躰の神服なりと記されています。出雲路の一条以北は上出雲路と呼ばれたらしく「出雲井於社へ請ル路ナリ 大明神御敷地」と書かれ、旧地は蓼倉町の北西のあたり(芝本町周辺)にあったようです。また案内板には、「出雲井於神社は葛野主殿県主部の祖神として祀られた神社で、承和11年(844)の太政官府によって定められた鴨社領出雲郷の総社であり、通称を比良木神社と呼ばれる」と書かれています。その比良木社は、同じく承和11年の太政官府で、粟田郷一乗寺藪里の総社となった柊社に由来があるそうです。
ちなみに柊社にスサノオが祀られたのは室町時代で、もとは鴨の祖神が祀られていたともいわれています。柊社のある粟田郷はワニ氏同族の粟田氏の領域でもあります。また、玉依日子の子孫が預(あずかり)となって奉仕した大炊殿(おおいいどの)には「比良木大明神」が祀られていて、比良木大明神の実体は不明ですが、比良明神と関係があるかものしれません。
比良明神は白鬚明神ともいわれ、猿田彦とも解されますが、三井社の境内にも白鬚明神が祀られています。さらに、先にあげた建角身命の子孫を祀る河﨑総社には、かつて第一奥玉神が祀られ、猿田彦神と同躰と伝えられています。出雲井於神社の主祭神は女神のようなので、白鬚明神が合祀されて比良木社と呼ばれていたのかもしれません。そして、もしそうなら、女神は下照姫の可能性もあるでしょう。
出雲井於神社は『延喜式』神名帳に、下鴨神社より前に記載されていました。摂社が本社である下鴨神社の前に置かれているのは不思議だといわれますが、『延喜式』成立の平安中期にはまだ摂社ではなかったのかもしれません。なお、この付近はかつて出雲郷でした。その範囲については諸説あり、賀茂郷との境もよくわかりませんが、郷里制で定められたころ(8世紀前半ごろ)の出雲郷の住民は、そのほとんどが出雲国から大量移住してきた出雲臣の人々でした(「山背国愛宕郡雲上里・雲下里計帳」)。彼らがいつ出雲国を出たのかは不明です。
出雲井於神社の本殿南側には末社の橋本社があり、玉津島神が祀られています。和歌山の和歌浦には玉津島神社があり、稚日女尊(わかひるめ)、息長足姫尊(おきながたらしひめ)、衣通姫尊(そとおりひめ)、明光浦霊(あかのうらのみたま)が祀られ、和歌の神と呼ばれています。稚日女尊は、機織り御殿で神服を織っていたとき、スサノオが逆剥ぎにして投げ入れた斑駒(ふちこま・まだらの馬)に驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身を傷つけ亡くなった、と『書紀』神代紀一書に伝えられます。上賀茂神社の境内にはこの天斑駒神(あめのふちこま)が祀られています。
稚日女尊は丹生都比売神(にうつひめ)ともいわれ、空海は高野山を開く際に、丹生都比売から神領を借り受けたとも伝えられています。丹生とは朱砂・辰砂(赤土)のことで、顔料や染料として使われるほか、精製すると水銀が採取でき、仙薬としても用いられていました。その価値を求め、おそらく水銀を産出する中央構造線に沿って各氏の丹生争奪戦があったのでしょう。丹生を支配する丹生都比売は紀ノ川流域の三谷に降臨し、紀州や大和を巡行して農耕を広めたのち天野の地に鎮まったとされ、丹生都比売神社に祀られています。
丹生都比売を祀ったのは紀氏系統の天野祝(丹生氏)ですが、海神族も丹生都比売を祀ったようです。ただし、丹生都比売という呼称ではなく、おそらく貴布禰の神として。「鴨県纂書」によれば、河﨑総社の旧地を継承した田中社(今の田中神社)にはかつて奥御前社があり「貴布祢ノ奥院ニシテ河﨑末社ノ内丹生社也」と書かれています。この丹生社は丹生都比売神社ではなく、上流の丹生川上神社に由来がありそうです。また、貴布祢の奥院とは高龗神(たかおかみのかみ)で水神の龍神です。貴布禰神社は河合神社の境内に祀られています。
もともと海神族は「朱」や「土」と縁が深い集団です。崇神朝の時代に建角身命と目される「宇陀の墨坂の神」には赤い盾と矛が献上され、活玉依姫の夫の正体を知ろうとしたとき、父母は娘に「赤い土を床の前にまき散らして糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、男神の衣の裾に刺しておきなさい」と教えています。また、和爾坐赤坂比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)の赤坂比古は赤土と関係があるともいわれ、応神天皇が和珥氏の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)に求愛した歌には「櫟井の 和邇坂の土を 初土は 肌赤らけみ 底土は 丹黒きゆゑ 三つ栗の…」のフレーズがあります。「櫟井の和邇坂の土」の櫟(いちい)はクヌギで、和珥氏からは櫟井臣氏も出ています。
なお橋本社の玉津島神は、もとは栗栖野郷松ヶ崎の椙尾(すぎお)社に祀られていたそうです。丹生氏や高野山の開創伝承で語られる丹生都比売の御子・高野御子大神が誰なのか分かりませんが、松ヶ崎も高野(たかの)です。そして高野川にそって上流の八瀬や大原に至るまで、かつては八咫烏の領域でした。また「播磨国風土記」逸文にも爾保都比売命(にほつひめ)が登場しますが、同風土記の神前郡(かんざきのこおり)の段には「高野の社といふは、此の野、化野より高し、又、玉依比売命在す(います)。故、高野の社といふ」と書かれています。まるでパズルみたいです。
出雲井於神社の本殿北側には岩本社があり、住吉神が祀られています。住吉神は神功皇后に託宣した航海神で、表筒男命(うわつつのお)、中筒男命(なかつつのお)、底筒男命(そこつつのお)の3柱1セット。『住吉大社神代記』によれば、「丹生川上天手力男意氣績ゞ流(おけつづくる)住吉大神」と表現されています。住吉神は手力男命の祖先神ということでしょうか。また、住吉大社で住吉神を奉祭した津守氏は天火明命の後裔を称し、尾張氏と同族とされています。
一方、津守氏は住吉大社の摂社・大海神社で豊玉彦と豊玉姫を氏神として祀ります。『鴨県纂書』では、住吉社は「和歌神ナリ秘訣アリ」と書かれ、その内容は不明ですが、賀茂社と同様に、住吉神の外戚が豊玉彦に繋がるのかもしれません。前述の「丹生川上」は天手力男との関連が窺えますが、豊玉彦の子孫が祀った大和神社の別宮とされるのが丹生川上神社で、関係の深さを物語っています。紀氏の遠祖からつづく天神系の人々も、天磐船や熊野諸手船(くまののもろたぶね・天鴿船・あめのはとぶね)など、頑強な船を所有する航海民・海人でした。鴨県主男系の先祖はこちらの系統と思われるのです。住吉社はもとは一条戻り橋にあったといわれています。
本殿、三井神社(みついじんじゃ)、大炊殿(おおいいどの)
以前、参拝に訪れた日は、たまたまなのか大炊殿に加えて本殿・三井神社もガイドさんの案内つきで拝観することができてラッキーでした。通常は大炊殿が有料で拝観できるようです。本殿は、玉依日売命を祀る東本殿と、賀茂建角身命を祀る西本殿からなり、どちらも檜皮葺、三間社流造の建物で、文久3年(1863)に造り替えられたもの。カラフルな狛犬も印象的で、そう古くないのに国宝となっているのは、平安時代の造形がほぼ忠実に再現されているからだそうです。
当たり前ですが、本殿の中を観ることはできないので、内部がどのようになっているのかはわかりません。神さまにおいでいただく場所や、神さまと接する神職の身体はつねに清浄でなければならないため、穢れを祓うことはとても重要だそうです。西本殿の横には霊璽(れいじ)を祀る印霊社があります。
下鴨神社では21年ごとに社殿を造り替える式年遷宮の制度が定められていますが、すべての社殿は国宝または重要文化財になっているため、大修理を施すことで遷宮とされています。ちなみに本殿以外のほとんどの建物は、寛永5-6年(1628-29)に徳川家光により造り替えられたものが修理されてきたといわれています。遷宮にはお金がかかります。天保年間の遷宮では幕府や商人から莫大な借入金があったともいわれています。近年でも、下鴨神社では遷宮の費用が賄えないことから、敷地の一部に借地権付きのマンションを建てるとニュースになり話題を呼びました。現在はすでに景観に溶け込んでマンションが建っています。
本殿の敷地の西隣には三井神社(みついじんじゃ)が南面して鎮座しています。中殿には賀茂建角身命、東殿には伊賀古夜日売命(いかこやひめ)、西殿には玉依日売命が祀られています。その西側に東面して、建御名方(たけみなかた)を祀る諏訪社、水分神(みくまりのかみ)を祀る小杜社(こもりしゃ)、猿田彦を祀る白鬚社(しらひげしゃ)があります。なお、中殿には大山咋神を祀る日吉社と御歳神を祀る澤田社が合祀されています。
唐門をくぐると大炊殿(おおいいどの)があります。ぶどうの透かし彫りが施された「ぶどう門」とよばれる唐門には、双葉葵ではなく三葉葵の紋がつけられています。これはお馴染み徳川家の葵の紋です。徳川家は戦乱で荒れた賀茂社の伽藍を建て替え、途絶えていた賀茂祭を「葵祭」として復興させました。一説に徳川家康は賀茂氏の末裔だともいわれています(本多氏に葵紋を譲ってもらったとも)。
大炊殿は神饌(神様へのお供え)を調理する殿舎で、玉依日子の子孫が大炊殿の大預として近世まで奉仕していたと伝えられています。大炊殿では当時の台所を忠実に復元したものや、比較的新しい調理道具などが展示されています。ここでは主にご飯やお餅などの穀物が調理されたそうです。これに対し、魚鳥類は別棟の贄殿(にえどの)で調理する慣わしだったようです。贄殿は楼門と中門の間にある供御所の中にあります。
葵祭のときの神饌の模型が展示されていましたが、すごい品数でした。ただし穢れを嫌ってか、猪や鹿などの四足の獣類はありません。平安時代、民間では肉類も食されていたといわれています。また、近世の下鴨神社の社家では御生神事(みあれしんじ)などの特別な日に、黄飯を食べる慣わしがあったそうです。黄飯はクチナシで黄色く炊いた、パエリヤのようなご飯をいうようです。
神饌調理に使う水は御井(みい)から汲まれていました。水神である玉依日売の御神水との信仰があることから御井と呼ばれています。井戸屋を覗いてみると方形の井筒があり、その奥に御幣が立てられていました。御井の前に「水ごしらえの場」があり、若水神事など水に関する祭場だそうです。式内社の末刀社(まとのやしろ)の神が降臨する磐座ともいわれ、パワースポットとなっています。末刀社は水の神とされ、境内にある末社の愛宕社がそれにあたるといわれていますが、松ヶ埼の末刀岩上神社も論社になっています。
大炊殿の周りには双葉葵が自生する「葵の庭」があり、カリン、クチナシなど薬酒に使う薬草木も栽培されています。カリンの古木が有名なので「カリンの庭」とも呼ばれるそうです。この大炊殿の西側一帯にはかつて賀茂斎院御所があったそうですが、文明の乱で社殿は焼失したといわれています。
賀茂氏族の祭から国家の祭礼へ - 葵祭 -
賀茂上下社に初めて神階が授けられたのは延暦3年(784)6月で、このとき従二位に叙せられています。この年の11月に長岡京遷都があったので、それに先駆けてのことでした。 そして桓武天皇崩御の翌年(大同2年・807)に賀茂大社は神階の最高位である正一位を授けられ、都と国家の守護神として位置づけられます。
大同5年(809)、平城上皇と嵯峨天皇が対立し、嵯峨天皇は皇女を賀茂大神に奉仕させることを誓って戦勝を祈願したといわれています。結果、乱は平定され、誓い通り、嵯峨天皇の皇女、有智子内親王(うちこないしんのう)が初代賀茂斎王となられました。これが賀茂斎院の始まりです。神に奉仕する斎王は、未婚の内親王(または女王)から卜定(ぼくじょう)で定められたそうです。賀茂斎院の制度は、後鳥羽天皇の皇女、礼子内親王(いやこないしんのう)まで約400年間続きました。
賀茂祭は、弘仁10年(819)から嵯峨天皇の勅により官祭となり、それまで賀茂氏の氏人だけで構成されていた祭祀団に官人が加わります。朝廷が主催する盛大で雅やかな祭りとなり、貴族たちはこぞって見物に詰めかけるようになりました。宇多天皇の時代には4月の賀茂祭に加えて11月の「臨時祭」も催されました。賀茂祭のようすは文学にも現れています。『源氏物語』には賀茂祭の見物にきた葵上と六条御息所(ろくじょうみやすどころ)の車争いが語られ、『枕草子』には、賀茂祭が間近になると、装いの準備をしながらそわそわしている女たちのようすや、ふだん飛び跳ねている子供たちが、祭りの当日には晴れ着をまとってしとやかに振る舞うようすなどが記されています。
京都三大祭のひとつである葵祭は、毎年5月15日に行われます。当日は「宮中の儀」「路頭の儀」「社頭の儀」「還立の儀」がありますが、誰でも気軽に観ることができるのが「路頭の儀」の行列です。平安時代の古儀に倣った優雅な装いの行列が御所を出発し、下鴨神社へ、さらに上賀茂神社へと進みます。行列に参加するのは、約500名、馬約40頭、牛4頭などで、学生アルバイトも大勢参加します。
葵祭に先駆けて、下鴨神社では毎年5月12日に八瀬の御蔭(みかげ)神社で祭神の荒魂(あらみたま)が迎えられます。荒魂の神霊は、神職や氏子に奉じられて下鴨神社本殿の和魂(にぎみたま)と合体し、若々しい神威を取り戻します。下鴨神社ではこの御生神事(みあれしんじ)のことを「御蔭祭(みかげまつり)」と呼んでいます。上賀茂神社の御阿礼(みあれ)神事は秘事なので拝観できませんが、下鴨神社の御蔭祭は誰でも観ることができます。
葵祭の華麗な行列には神輿はなく、神さまは不在です。下社の御生神事・上社の御阿礼神事により、神さまはすでに下鴨神社・上賀茂神社の本殿でお待ちになっているからです。行列は、天皇から神さまへ贈り物を届けるための勅使や、斎王代を中心とした女人で構成されています。現在、皇室からの勅使(近衛使・このえづかい)の役は、旧公家出身者で馬の扱いに慣れた人が務めることになっているそうです。それでも馬が言うことをきかず、暴れたりストップして行列が進まなかったりしますが、見ているとそれも面白かったりします。
行列が神社に到着すると「社頭の儀」が神前で行われます。勅使が祝詞を読み上げ、奉幣などの神事が行われます。舞や走馬が奉納されたのち、行列は上賀茂神社へと向かいます。近年は、下鴨神社では事前に初穂料を納めると「社頭の儀」の拝観が可能となっています。
そのほか、葵祭の前儀としてさまざまな神事が行われます。賀茂社では馬にまつわる神事が多く、下鴨神社では5月3日に行われる「流鏑馬(やぶさめ)神事」が有名で、多くの人で賑わいます(拝観無料、有料の拝観席も)。
平安時代からつづいた賀茂祭は、戦乱の世にやむなく途絶えますが、江戸時代、徳川綱吉によって復興されました。200年の空白を埋めるべく、幕府側の祭礼担当者は、朝廷側の有職故実の専門家に祭の細部について何度も質問し、復元に努めたといわれています。
ようやく賀茂祭が再興された元禄7年(1694)4月18日、都大路と鴨川の河川敷は押し寄せた群衆で埋め尽くされたといわれています。また、祭りの当日は神さまの降臨のしるしとして供奉者や神社の社殿、祭具などすべてに葵と桂がかけられたので、このときから賀茂祭は葵祭とよばれるようになったそうです。ただし葵桂をつける慣わしは古くからあったようです。
朱塗りの楼門を入り、右手の橋殿から反り橋へと進むと御手洗社(みたらしのやしろ)が見えます。祭神は祓の神、瀬織津姫です。葵祭に先立つ5月4日には、斎王代と40名の女官らが身を清める「御禊(みそぎ)の儀」があり、上賀茂神社と下鴨神社で1年交代で場所を変えて行われます。現在、御禊の場所は、下鴨神社では御手洗池(みたらしのいけ)、上賀茂神社では御手洗川(みたらいがわ)となっていますが、古くは鴨川で行われていたともいわれています。
また7月の「みたらし祭」では、みたらしの池に裸足で入って穢れを落とし、無病息災を祈願する「足つけ神事」があり、一般の参拝者も参加できます。この池から吹いていた泡をかたどって団子にしたのが、みたらし団子の起源といわれています。