京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
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金閣寺

(きんかくじ)

鹿苑寺、通称金閣寺は、室町幕府3代将軍足利義満の「北山山荘」がその前身です。鏡湖地に建つ金色の楼閣が金閣寺舎利殿で、義満の死後、子の義持により鹿苑寺という禅寺に改められました。相国寺の塔頭のひとつです。

足利義満により建立された金閣寺の金閣(舎利殿)と鏡湖地 金閣(舎利殿)と鏡湖地

INFORMATION
山号・寺号 北山(ほくざん)鹿苑寺 (臨済宗相国寺派)
住所 京都市北区金閣寺町1
電話 075-461-0013
アクセス 市バス
12,59,101,102,204,205,M1系統「金閣寺道」下車すぐ
拝観時間 9:00-17:00
拝観料 大人(高校生以上)400円 小・中学生300円
2023/4/1より大人500円
公式サイト
相国寺内
http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html
※↑2023年2月更新。

寿命を気にしていた将軍・足利義満

金閣寺の正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)。臨済宗相国寺の塔頭です。京都の観光地としての存在感は絶大で、鏡湖地と金閣を望む写真スポットはいつもすごい人だかりが出来ています。

鹿苑寺は、もとは室町3代将軍足利義満が出家後に建てた邸宅「北山殿」と呼ばれる山荘でした。義満の没後に子の義持により禅寺に改められています。金箔が張られた舎利殿を「金閣」と呼ぶことから寺全体も金閣寺の通称で呼ばれています。

足利義満は、名実ともに幕府と朝廷に君臨した空前絶後の将軍です。義満は武家政権の将軍として、明徳の乱や応永の乱で諸大名を制圧し、長年にわたる南北朝の動乱にも一応の終止符を打っています。その一方で義満は、永徳3年(1383)に准三后となり、朝議や政務を指揮監督して朝廷を掌握するに至っています。朝廷における祭祀・儀礼や作法など教え込んだのは二条良基でしたが、義満は公家に憧れていたともいわれています。

明徳3年(1392)、京都五山二位の相国寺を完成させ、南北朝を合一させた義満は、応永元年(1394)12月、将軍職を子の義持(よしもち)に譲り、その翌年の6月に出家して道義(どうぎ)と号しました。義満はこのとき38歳で、父の義詮(よしあきら)が没した年齢になっていました。義満は自分の家系が短命であることを気にしていたようです。

22歳のころに「寺を建てれば延命できる」と夢告を受けて宝幢寺(現・鹿王院の本寺)を建立し、25歳のころには禅と学問の師である義堂周信に、僧侶たちが長命なのが羨ましいと告げたこともありました(『空華日用工夫略集』永徳2年5月4日条)。また出家の2年前には義満と同じ歳の後円融天皇が36歳で崩御し、その翌日、義満は洛東の十楽院に出向き、自分の延命祈願のための法会を修するよう命じたといわれています。

後円融天皇のあと、17歳で即位した後小松天皇を後見したのは義満でした。将軍職を譲った義持もまだ幼く、義満は出家後も実権を握りつづけます。応永4年(1397)、義満は室町殿から移るための「北山殿」の造営を始めました。

「北山殿」は、鎌倉時代の公卿、西園寺公経(さいおんじきんつね)が建てた別荘「北山第」を買い取って造られました。公経は北山第の敷地に、薬師如来を祀る善積院(ぜんしゃくいん)や五大堂、不動堂など多くの堂舎からなる「西園寺」を建立していました。その寺の名にちなんで西園寺公経を名乗るようになったといわれていますが、藤原北家の流れをくむ公卿です。なお、平安時代中期-後期の藤原公経とは別人です。

寺としての西園寺は、藤原道長の法成寺に匹敵するほどの規模を誇ったといわれています(『増鏡』)。西園寺公経は、承久の乱で幕府に密使を送り、後鳥羽上皇の討幕計画をいち早く伝えて幕府軍の勝利に貢献しています。公経は源頼朝の姪を妻とする親幕派の公卿でした。彼の功績が幕府に認められ、官位も従一位に昇進し、娘婿の九条道家とともに鎌倉政権下の朝廷で実権を握ります。そして、公経は北山に広大な土地を所有し、北山第を造営するのです。

それから約100年経ったころ、西園寺家は没落していました。西園寺家から北山第を譲り受けた義満は、多くの建物を再利用しつつ、新たに義満の住居として北御所、妻子が住むための南御所、公卿の間、舎利殿、天鏡閣、護摩堂などを造営し、応永6年(1399)ごろから移り住んで政務を執るようになります。

義満が若いころから師としていた春屋妙葩や義堂周信は、相国寺落慶以前にすでに示寂し、このころ義満が懇意にしていた僧侶は、青蓮院の尊道、聖護院の道意、醍醐寺三宝院の満斎でした。義満が北山殿に移って以降、彼らの住房も北山殿の敷地に置かれたといいます。以後、義満は尊道や道意を大阿闍梨としてしきりに密教の秘法を修したり、公卿で陰陽師の安倍有世に祈祷させていました。やはり義満は自分の延命を祈っていたのでしょうか。

応永8年(1401)、義満は「日本国准三后源道義」名義の国書とともに明へ使節を派遣し、明の建文帝から日本国王として冊封されています。つまり日本は明の臣下として朝貢することになったのです。周囲は困惑したようですが、とにかく明と貿易を行いたい義満にとって、国交樹立は念願であったようです。応永9年(1402)9月5日、義満は北山殿で、明の使者である禅僧・天倫道彝(てんりんどうい)と天台僧・一庵一如(いちあんいちにょ)の2名と対面し、建文帝の勅書を拝領しています。こうして明との勘合貿易がスタートし、幕府は莫大な利益を得ることになるのです。

応永15年(1408)3月8日から28日までの20日間、義満は後小松天皇を北山殿へ迎え、盛大な宴を催しました。『北山殿行幸記』によれば、連日のように、連歌、舞楽、猿楽、蹴鞠、舟遊、白拍子などを披露して贅を尽くした遊宴だったようです。そしてこの約1ヵ月後に義満は病に倒れ、5月6日に51歳でその生涯を閉じます。朝廷からは「鹿苑院太上天皇」の称号が贈られたと伝えられています。

京都 金閣寺の山門
山門
京都 金閣寺の鐘楼
鐘楼
京都 金閣寺の方丈
方丈
京都 金閣寺の唐門
唐門
京都 金閣寺境内の陸舟(りくしゅう)の松
陸舟(りくしゅう)の松
義満が愛でた盆栽を移し、帆をかけ船形にした五葉の松。樹齢600年。
京都 金閣寺の金閣舎利殿
金閣舎利殿
京都 金閣寺 鏡湖地の葦原島
葦原島
京都 金閣寺境内の白蛇塚
白蛇塚
鏡湖地の上段に配した安民沢(あんみんたく)に浮かぶ白蛇塚。白蛇は弁財天の使いとして祀られた。西園寺の旧跡。
京都 金閣寺境内の龍門滝
龍門滝
鯉が登りきると龍と化するという中国の故事、登竜門に因む。滝壷に鯉の姿をした石が置かれている。

古くから観光地だった金閣寺

昭和25年(1950)、金閣寺舎利殿はこの寺に住んでいた青年僧による放火で炎上しました。動機は「美しさへの嫉妬」だったといわれています。それから5年経って再建され、さらに昭和62年(1987)に大修復された金閣は、今もきらきらと輝いています。島や石を配した鏡湖池(きょうこち)は、金閣や樹々を水面に映して揺らせています。金箔を使っていても派手な絢爛さや仰々しい威容はなく、風景と見事に調和して文句なく美しい建物です。

池に浮かぶいちばん大きな蓬莱島は別名、葦原島(あしはらしま)とも呼ばれ、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに・日本)を表しているそうです。庭園の石には、赤松石や細川石など、義満が北山殿を造る際に大名たちが運んできた各地の名石や、勘合貿易の遣明船で運ばれてきた九山八海石(くせんはっかいせき)などがあります。

金閣の建物は独特な構造をしており、初層は寝殿造の「法水院(ほすいん)」、二層は武家造の仏間「潮洞院(ちょうどういん)」、三層は禅宗仏殿造の「究竟頂(くっきょうちょう)」の三層からなっています。暗くて見えにくいのですが、初層には宝冠釈迦如来像と足利義満座像が並んで安置されています。二層は写真でしか見たことがありませんが、中央の須弥壇に岩屋観音像が、そしてその周囲に四天王像が安置されています。三層は仏舎利だけが中央に安置されていますが、創建当初は阿弥陀三尊と二十五菩薩が祀られていたといわれています。

なお、義満が相国寺境内に建てた七重塔は応永10年(1403)に落雷で焼失しましたが、その後、北山殿に場所を移して北山大塔として再建されていたとみられています。平成27年(2015)の発掘調査で塔先端の相輪の破片らしき金属片が出土し、破片には金のメッキが施されていたことも判明しました。その大きさから推定すると、109mといわれた相国寺七重塔に匹敵するとも考えられています。その場所は現在の境内東端の駐車場付近で、当時は、方丈前から眺めると左手には金閣が、右手には北山大塔がそびえていたのかもしれません。

北山殿の造営をプロデュースしたのは足利義満自身です。天下に君臨した義満は深い教養と天性の芸術感覚を備えていたといわれています。幼い頃、瀬戸内の風景を讃嘆し「汝らこの地をかついで京へもっていけ」と言って家臣を驚かせたことがあったそうです。花の御所(室町殿)を造営したのも義満でした。大の花好きで知られる義満ですが、金銀で飾ることも大好きで、康暦2年(1380)の後光厳天皇の七回忌法要では、結願の散華の際に、金銀でできた花びらをばら撒いたと伝えられています。

義満が没したあと、後妻の日野康子が北山殿に住み続けていましたが、彼女が亡くなると建物は解体されて、等持寺や南禅寺、建仁寺などに移築されています。そして唯一残されたのがこの舎利殿と鏡湖池でした。義満の子の義持は舎利殿を中心として新たに禅刹・鹿苑寺を造営します。

しかし、応仁の乱が起きると西軍の陣となり、陣地構築のために舎利殿以外の諸堂は破却されてしまいました。文明7年(1475)、三条西実隆(さんじょうにしさねたか)は鹿苑寺を訪れ、荒れ果てた敷地に以前のようにたたずむ舎利殿や池を見て感銘を受けています(『実隆公記』)。また、乱後の文明11年(1479)2月には、近衛政家が池に舟を浮かべて池のほとりで酒宴を催していました(『後法興院記』)。義満の孫である義政も何度も金閣寺を訪れては、潮音洞からの眺めを楽しんだり、宴を催したりしています。人々は鹿苑寺の庭園に安らぎや楽しみを求めていたようです。書物に舎利殿を指して「金閣」と記され始めたのもその頃のようです。

やがて鹿苑寺が復興し、伽藍が再建修理されると、一門の禅寺という枠を超えて、観光名所、遊覧スポットになっていきました。さらに江戸時代になると庶民の旅行が一般的になり、多くの人が訪れるようになります。参詣者が増える一方で、時とともに金箔の剥落や諸堂の損傷が激しくなったため、維持費として拝観料が定められました。享和2年(1802)に訪れた滝沢馬琴(たきざわばきん)は「一人より十人までは銀二匁(もんめ)なり)」と『羇旅漫録(きりょまんろく)』に記しています。享和2年ごろの銀の価値でいうと今にして3000円くらいでしょうか?(高い…)それとは別に団体割引もあったようです。金閣寺は古くからの観光スポットでした。

金閣寺舎利殿の第一層の法水院と、第二層の潮音洞
第一層の法水院と、第二層の潮音洞
金閣寺舎利殿の第三層 究竟頂(くっきょうちょう)
第三層 究竟頂(くっきょうちょう)
仏舎利が祀られる。
金閣寺舎利殿の舎利殿東面
舎利殿東面
京都 金閣寺境内の巌下水(がんかすい)
巌下水(がんかすい)
義満が手を清めたという泉。隣には義満が茶の湯に使ったといわれる「銀河泉」がある。
京都 金閣寺境内の榊雲(しんうん)
榊雲(しんうん)春日神が祀られる。
京都 金閣寺境内の石仏
石仏
京都 金閣寺境内の夕佳亭(せっかてい)
夕佳亭(せっかてい)
江戸期の茶人金森宗和(かなもりそうわ)好みといわれる茶室。明治7年再建。
京都 金閣寺、夕佳亭の南天の床柱
南天の床柱
京都 金閣寺、夕佳亭の鴬梅の違い棚
鴬梅の違い棚
関連メモ&周辺

不動堂
(ふどうどう)

京都 金閣寺境内の最も古い建物、不動堂
豊臣秀吉の家臣、宇喜多秀家(うきたひでいえ)により、天正年間(1573~1592)に再建したとされる金閣寺境内の最も古い建物。本尊の石不動明王は弘法大師作とも鎌倉初期のものともいわれる。2月の節分と大文字の送り火が行われる8月16日に開扉法要が営まれる。

主な参考資料(著者敬称略):

『新版古寺巡礼 京都21 金閣寺』淡交社 /『足利義満』小川剛生 中公新書 /『足利義満と京都』早島大裕 吉川弘文館

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