晴明神社
(せいめいじんじゃ)堀川一条の少し北に安倍晴明を祀る晴明神社があります。安倍晴明は不思議な霊力を持ち、鬼や式神(しきがみ)を自由に操ってさまざまな事件を解決したと伝えられる平安中期の陰陽師(おんみょうじ)。現代も晴明は人々に篤く信仰されています。
晴明神社
社名・社号 | 晴明神社 |
---|---|
住所 | 京都市上京区晴明町806(堀川通一条上ル) |
電話 | 075-441-6460 |
アクセス |
市バス 9,12系統「一条戻り橋・晴明神社」下車徒歩2分 または、59系統「堀川今出川」下車徒歩2分 |
参拝時間 | 9:00-17:00 |
参拝 | 自由 |
公式サイト | https://www.seimeijinja.jp/ |
稀代の陰陽師、安部晴明(あべのせいめい)
西陣の地、堀川一条の町なかに安倍晴明を祀る晴明神社がこじんまりと建っています。晴明が亡くなった2年後の寛弘4年 (1007)に一条天皇の勅旨により創建されたと伝えられています。
安倍晴明は延喜21年(921)に生まれ、寛弘2年(1005)に85歳でこの世を去ったといわれる平安時代中期の人物で、自ら術をかけたのか長寿でした。彼は式神を操り、冥府の神や北極星に祈り、天皇や貴族らの運命に関与して称賛を得たと伝わる宮廷陰陽師です。ただしマンガやゲームの晴明とは違って、陰陽師として活躍したのは人生の後半からのようで、それは村上天皇から一条天皇にかけての時代にあたります。
それまでの晴明は大舎人にいた目立たない下級官僚でした。晴明は、伝えられる系譜によれば、第8代孝元天皇の皇子、大彦命の子孫とされ、父は大膳大夫であった益材(ますき)とも、淡路守の春材(はるき)ともいわれています。けれども、父は安倍保名、母は葛の葉(くずのは)とよばれる白狐だったという伝説もあり、確かな出自はわかっていません。晴明が天文得業生(てんもんとくぎょうしょう)として陰陽寮に所属したのは40歳のときといわれています。朝廷の重要な機関である陰陽寮では、陰陽道、天文学、暦学などそれぞれに秀でた者を配置してさまざまな異変の予知や吉凶が占われていました。
平安時代、百鬼夜行し怨霊が祟る呪われた都に天変地異や疫病の流行が相次ぎ、神泉苑や祇園社では朝廷の勅のもと御霊会が行われましたが、厄災は繰り返し続きました。そんな頃に陰陽寮に台頭したのが賀茂忠行(かものただゆき)でした。
『朝野群載』には天徳3年(959)2月7日に賀茂忠行が行った射覆の術の記事があります。射覆とは、覆い物の中身を外からいい当てるもので、忠行は「八角の匣(はこ)には朱糸に通された水晶の念珠が入っている」と詳細正確な透視をしてみせたといいます。彼は陰陽道、天文学、暦学のすべてに秀で、占験の名声高く、朝廷で絶大な信頼が置かれていたといわれています。
賀茂忠行は三輪氏と同族の賀茂朝臣出身で、賀茂氏からは役小角(えんのおづの)も出ています。役小角は超人的な術を用いる修験道の開祖といわれ、鬼神を使う法力をもっていました。また、賀茂忠行の子の保憲(やすのり)も陰陽師として非凡な才能をもっていたと伝えられています。晴明の素質を見抜いた忠行は、保憲と晴明を弟子として、朝廷における賀茂氏と安倍氏の陰陽師の地位を確立しました。
ところで、中国にルーツをもつ陰陽思想の多くは、仏教や儒教とともに日本にもたらされたといわれています。とくに推古天皇10年(602)に渡来した百済の僧、観勒(かんろく)は、暦本、天文遁甲、方術などを伝え、朝廷によって積極的に採り入れられました。そののちの天武天皇は陰陽思想に造詣が深く、朝廷に陰陽寮を創設し、日本初の天文台を設置したことでも知られています。
もっともそれ以前から、占いで瑞祥災禍を知ることは国家にとって重要で、古くは邪馬台国の時代に太占(ふとまに)と呼ばれる鹿の肩甲骨で吉凶が占われ、中国から亀卜(きぼく)が伝わると、専門氏族である卜部(うらべ)氏や中臣氏が朝廷で卜占(ぼくせん)の聖職に当たっていました。そしてそれらは古代神道の祭祀に採り入れられていました。一方、陰陽道は渡来僧や留学僧によってもたらされ、わが国において道教や密教などと習合しながらさらに多様に発展し、体系化されていきます。
では具体的に陰陽師は何をやっていたのかというと、政務の日時や方角の吉凶を暦にもとづいて判定したり、怪異や病気の原因を占ったり、地相を占ったり、呪詛祓(じゅそはらえ)や解除(げじょ)、反閇(へんばい)といった祓の儀礼、五龍祭や鬼気祭、泰山府君祭(たいざんふくんさい)や玄宮北極祭(げんぐうほっきょくさい)などの祭祀の執行で、ある意味地味な仕事でした。
平安時代、朝廷における卜占については卜部氏と陰陽師の両者で行うことが多く、当初は神祇官である卜部氏の結果が優先されたといわれています。しかし怪異や災禍が頻発するにしたがって陰陽師の結果も重視されていったようです。そのなかで晴明はときの天皇や貴族の信頼を勝ち得たのでしょう。惟宗允亮(これむねのただすけ)は『政事要略』で、晴明を「陰陽の達者なり」と称賛しています。また、反閇や泰山府君祭、玄宮北極祭などは中国に由来をもちますが、日本での作法は晴明が編み出したといわれています。
反閇とは、中国の法典『大唐六典』に載る5つの呪禁道のひとつである「兎歩(うふ)」という変わった歩行方法を用いて、移動する場所の邪気を祓う作法をいうそうです。藤原実資(ふじわらのさねすけ)の『小右記』や、藤原行成(ふじわらのゆきなり)の『権記』には、一条天皇が凝華舎(ぎょうかしゃ)から清涼殿に遷御したときや、紫宸殿を出たとき、また内裏の北対(きたのたい)に渡御したときに反閇を行ったという記事があります。実資自身も反閇で二条邸に渡ったことがありました。反閇を執り行ったのは晴明です。
晴明が得意としたとされる祭祀に泰山府君祭(たいざんふくんさい)があります。泰山府君とは、中国五岳の東岳泰山に鎮座し、冥府の閻魔に仕え、人の寿命を司る神といわれています。晴明の泰山府君祭は、密教の焔魔天供(えんまてんく)の影響を受けたものとみられ、泰山府君に祈り、延命を願う者の名を閻魔のもとにある死籍から削って生籍に戻してもらうため、祭祀では硯(すずり)や筆、墨が供えられたそうです。
『今昔物語』巻第19第24話「代師入太山府君祭都状語」では、重病の高僧を晴明が占い、身代わりを立てる以外に助かる見込みはないと告げると、弟子が身代わりを申し出たため泰山府君祭を行ったところ、師、弟子ともども助かったと語られます。この話が鴨長明の『発心集』では、老僧が三井寺の智興(ちこう)、弟子が証空(しょうくう)と置き換えられ、証空が死を覚悟して不動明王に菩提を祈ったところ、不動明王が感激して証空の身代わりになり血の涙を流した、という三井寺の「泣き不動」の縁起に転じています。泰山府君はしばしば不動明王と同一視されるようです。
なお、晴明も突然死したことがあったようで、不動明王が閻魔に掛け合って蘇生させたという伝承が真如堂に伝わっています。このときも閻魔にかけあったのは泰山府君ではなく、晴明の念持仏であった不動明王でした。
晴明は50歳をすぎたころに天文博士になっています。賀茂家は天文道を晴明に、暦法を賀茂保憲の子の光栄(みつよし)に伝授し、以降、両家がそれぞれを世襲しました。陰陽道儀礼のなかで星辰を用いることは晴明の得意分野であったでしょう。
長保4年(1002)には一条天皇の命により玄宮北極祭が行われています。玄宮北極祭は、移動しない北辰(北極星)を天帝とみなし、国家の安泰を祈願するものですが、一条天皇は国家祭祀の際、ついでに自らの延命を祈っていたようです。それが合わなかったのか、短命でした。個人の占いには北極星ではなく北斗七星が用いられていました。
晴明が行ったこれらの宮廷陰陽師としての職務の記録は、『小右記』や『権記』、『御堂関白記』など、貴族の日記にわずかに見られるだけで、晴明の著作も『占事略決』1点だけだそうです。しかもそれらの記録によれば、晴明が朝廷で活躍したのは、師である賀茂保憲が没した後の、60歳後半から亡くなる直前までの約20年間くらいで、またこの間、晴明の独壇場だったかというとそうではなく、保憲の子の光栄(みつよし)とともに宮廷に呼ばれることが多かったようです。
しかし、中世の説話で語られる安倍晴明の活躍は実に多彩で華々しいものがあります。平安貴族たちの私生活の悩みは多く、晴明は宮廷を離れたところでフリーランス陰陽師として相談を受けることが多かったのかもしれません。晴明の伝説は各地にあります。また在野の陰陽師としてカリスマ的存在であった蘆屋道満(あしやどうまん)は、晴明のライバルであり、道満と晴明にまつわる逸話は歌舞伎や浄瑠璃にも脚色されました。
晴明の子孫は代々陰陽師として朝廷に仕え、14世孫の安倍有世(あべのありよ)は室町時代に足利義満の専任として、北山殿(金閣寺)で祈祷を行っています。その有世を祖として子孫は土御門家を称するようになりました。