詩仙堂
(しせんどう)一乗寺の曼殊院道沿いにある詩仙堂は、江戸時代初期に石川丈山(いしかわじょうざん)が隠棲するために自ら造った山荘でした。現在は曹洞宗の寺院です。詩仙堂には丈山の趣味の世界が凝縮されています。
小有洞(しょうゆうどう)
山号・寺号 | 六六山 詩仙堂(曹洞宗) |
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住所 | 京都市左京区一乗寺門口町27 |
電話 | 075-781-2954 |
アクセス | 市バス 5,北8系統「一乗寺下り松」下車徒歩7分 叡山電車「一乗寺」下車、徒歩約15分 |
拝観時間 | 9:00~17:00(16:45受付終了) 拝観休止日:5/23 |
拝観料 | 大人700円 高校生500円 小中学生300円 |
公式サイト | https://kyoto-shisendo.net/ |
石川丈山の趣味の世界が創出された詩仙堂
小さな竹垣の門をくぐり石段を少し上ると老梅関と呼ばれる門があり、その先にていねいに造り込まれた建物があります。決して広くはなく、華美な装飾もありません。書院から眺める庭は一乗寺の山の麓と一体となっていて、寺というより、やはりここは山荘の響きが相応しいようです。
詩仙堂は、正しくは凹凸窠(おうとつか)といいます。凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意味らしいです。その通り、山の斜面に建てられているので、書院から眼下の百花塢(ひゃっかのう)とよばれる庭までは高低差がかなりあります。詩仙堂の名は、玄関を入り左手にある「詩仙の間」がその由来です。石川丈山の没後に曹洞宗の寺院になりました。
石川丈山は天正11年(1583)に三河に生まれています。石川家は徳川家譜代の家臣であったので、丈山も家康に仕えていました。家康の信頼は厚かったようです。けれども、大坂夏の陣(1615)で、丈山は抜け駆けをして先登したため、家康から讃えられるどころか戒められ、それを機に徳川家を離れたといわれています。
浪人となった丈山は、しばらく妙心寺に身を寄せながら、林羅山(はやしらざん)の勧めで藤原惺窩(ふじわらのせいか)に朱子学を学びました。文武に優れた丈山に職の依頼は絶えませんでしたが、当の丈山は気乗りしなかったそうです。しかし老いた母を養うため、紀州の浅野家に仕え、浅野家が安芸に転封になると、丈山も安芸に赴き13年間を過ごしています。そして母の没後に京都に戻り、相国寺の近くに住んだといわれています。
それから5年後の寛永18年(1641)、59歳であった丈山は隠棲の場として詩仙堂を造り、90歳で没するまでの約30年間をここで過ごしました。丈山は「清貧の中に、聖賢の教えを自分の勤めとし、寝食を忘れてこれを楽しんだ」と伝えられています。
丈山は漢詩に優れ、隷書(れいしょ)の大家ともいわれています。また、煎茶の祖とも呼ばれるほか、作庭の才能も備え、枳殻邸(きこくてい・東本願寺渉成園)や一休寺の庭造りにも携わったといわれています。もちろん詩仙堂の設計にも妥協がありませんでした。寛政年間に少し改築されていますが、建物も庭園もほぼ往時のままといわれています。
中国に憧れの強かった丈山は、杜甫や李白、孟浩然(もうこうねん)など、自分好みの中国詩人36人を選び、ひとりずつの肖像画を狩野探幽(かのうたんゆう)に描かせ、額の上部にその詩人の漢詩を丈山自ら隷書で書き、詩仙の間に掲げました。それらは今もそのまま詩仙の間に飾られています。ちなみに丈山は36人の詩人を選定する際、親交の深かった林羅山にも意見を求めましたが、最終的に意見が合わなかった王安石(おうあんせき)については自分の意見を通して不採用にしています。
ところで、詩仙堂の敷地には、入り口の小さな門を「小有洞(しょうゆうどう)」、玄関の門を「老梅関(ろうばいかん)」、月に向かって朗吟したといわれる「嘯月楼(しょうげつろう)」、蒙昧(もうまい)を洗い去る滝「洗蒙瀑(せんもうばく)」…など、丈山が「凹凸窠十境」と名付けて愛したといわれる10のポイントがあります。
また、庭園の片隅からは、添水(鹿おどし)の音を響かせています。これは元々は農作物を荒らす鹿や猪を追い払うものでしたが、丈山が初めて庭園に取り入れて、竹筒が石を打つ音の余韻を楽しんだといわれています。丈山は自らの終の棲家として、思うがまま存分に理想の空間を築きました。
後水尾上皇がそんな丈山の評判を聞き、呼び寄せたときには、丈山は「渡らじな 瀬見の小川の浅くとも 老の波たつ 影は恥かし」と詠んで固辞したところ、上皇は「渡らじな 瀬見の小川の浅くとも 老の波そふ 影は恥かし」と手直しして返したそうです。多才な後水尾院は傑出した歌人でもありました。この山荘が世間に知れて訪れる人が多くなると、丈山は「煩わしくて耐えられないから故郷に帰りたい」と京都所司代の板倉重宗に訴えていました。孤独を愛して隠棲したのに、人が集まり隠棲ではなくなっていたようです。
人影がまばらな夕方近くに訪れて、静かな書院から白砂が敷かれた簡素な庭をぼーっと眺めていたら、不思議に心が落ち着きました。花の時期を外していたものの、庭に出てみると思いのほか広くて気持ちがいいです。帰り際に、改めて竹垣と竹林が印象に残りました。そういえば、内藤鳴雪(ないとうめいせつ)が詠んだ句があります。
初冬の 竹緑なり 詩仙堂