天龍寺
(てんりゅうじ)天龍寺は、足利尊氏により、夢窓疎石(むそうそせき)を開山として建立された禅寺です。境内の曹源池(そうげんち)庭園は夢窓疎石の手によるもので、四季折々の嵐山を借景した美しい庭園です。また、嵯峨野には、歩いていける範囲に数多くの名刹があります。
嵐山を借景し、池に映す曹源池庭園(そうげんちていえん)
山号・寺号 | 霊亀山(れいぎざん)天龍寺 (臨済宗天龍寺派) |
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住所 | 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68 |
電話 | 075-881-1235 |
アクセス | JR嵯峨野線 嵯峨嵐山下車 徒歩約13分 京福電車 嵐山線「嵐山」下車前 市バス 11,28,93系統「嵐山天龍寺前」下車前 京都バス 62,72,83系統「京福嵐山駅前」下車前 阪急電車 「嵐山」下車徒歩12分 |
拝観時間 | 諸堂:8:30-16:45(受付終了16:30) 参拝休止日:2024/10/29, 10/30 法堂:9:00-16:30(受付終了16:20) 参拝休止日:2024/1/3, 2/3, 10/28-30, 12/31-1/2 |
拝観料 | 庭園:高校生以上500円 小・中校生300円 (障害者手帳の提示で本人・付添1名100円引) 諸堂:上記料金に追加300円 法堂「雲龍図」:500円 |
公式サイト | http://www.tenryuji.com/ |
夢窓疎石の勧めで足利尊氏・直義兄弟が建立した禅寺
天龍寺は、足利尊氏(と弟の直義)が夢窓疎石の勧めにしたがって、後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した寺といわれています(『太平記』)。後醍醐天皇は尊氏を味方につけ、鎌倉幕府を滅ぼしましたが、その後、尊氏と敵対して戦い、逃れた先の吉野で崩御。尊氏が後醍醐天皇の霊を弔うとはどういうことなのか? 一説に、尊氏は天皇の怨霊を恐れていたとも考えられていますが、夢窓疎石は尊氏に、敵味方の別なく冥福を祈れと諭したのだと伝えられています。そうして夢窓は天龍寺の開山に迎えられました。
鎌倉時代は幕府が実権を握り、やがて朝廷は後深草天皇の流れをくむ持明院統と、亀山天皇の流れをくむ大覚寺統に別れ、幕府による両統迭立が行われていました。そんななか王朝復権を目論んだ大覚寺統の後醍醐天皇は、もとは幕府方であった足利尊氏を味方につけ倒幕の機運を高め六波羅探題を滅ぼし、この流れに呼応した新田義貞が鎌倉幕府を滅亡させました。元弘3年(1333)、後醍醐天皇は建武の新政を行いましたが、建武政権は武士の反感を買い、北条時行が幕府復権のため挙兵(中先代の乱)すると、尊氏は乱を鎮めた先の鎌倉に留まり、一存で恩賞を配布。これを離反とみた後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じました。
建武3年(1336)、尊氏方は、後醍醐方の新田義貞・楠木正成の軍を湊川で破って京都を制圧し、北朝に光明天皇を擁立して室町幕府を開きました。一方、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を立てましたが、まもなく病に倒れ崩御します。このころからの約60年間(鎌倉末期から南北朝合一まで)は南北朝の動乱期といわれ、戦国時代や幕末に匹敵するほどの時代の大変革期であったといわれています。その渦中の一時期、夢窓礎石は、後醍醐天皇からも、鎌倉幕府や足利尊氏からも帰依を受けた禅僧でした。
夢窓疎石は建治元年(1273)に伊勢に生まれ、甲斐の平塩山寺で修行したあと奈良の東大寺戒壇院で授戒しています。真言宗を学んでいましたが、講師の死にぎわが見るに堪えない酷いものだったので禅宗に転じたといわれています。その後、甲斐から京都、鎌倉、再び京都、再び鎌倉、奥羽、那須、再々鎌倉と移って参禅し、10年を経ても何も得るものがなかったとして、書き記していた書類をすべて焼いたと伝えられています。
嘉元元年(1303)、那須の雲巌寺で高峰顕日(こうほうけんにち・後嵯峨天皇の第二皇子)に参禅、奥州白鳥、常陸内草、常州臼庭(うすば)、相模と巡り、鎌倉の浄智寺で再び高峰顕日に参禅、31歳のときに印可を受けました。
その後は甲斐に戻り龍山庵に隠棲しますが、雲水が集まって騒がしいので、遠州から美濃長瀬山の古渓、そして清水へと移ります。しかしまた人が集まるというので古渓に戻ったとき、そこには元翁本元(げんのうほんげん)もいたため、夢窓は近くに大包庵を営みました。元翁は、かつて夢窓とともに渡来僧の無及徳詮(むきゅうとくせん)や一山一寧(いっさんいちねい)に師事し、高峰顕日から印可を受けた禅僧でした。
それにしても、夢窓はひと処に留まれないひとでした。逃げても隠れても人が集まるのか、安請け合いせず逃げるから余計に人が追いかけるのか、それほど夢窓に参禅したい修行僧が多かったようです。夢窓は「具眼の者は面謁の時期を心得ているはずで、無眼の者に門を開いても意味がない」と言っていますが、夢窓自身は孤独を愛した人でもあったようです。
文保元年(1317)に夢窓は京都北山に移ります。翌年、花園天皇が後醍醐天皇に譲位したのとほぼ時を同じくして、北条高時の母、覚海尼(かくかいに)から鎌倉に招請されそうだと知り、夢窓は京都から土佐に行き、吸江庵(きゅうこうあん)に隠居しています。すでに夢窓の名声は権力者に響いていて、以後、頻繁に鎌倉と京都から招請を受けますが、夢窓は慎重に行動していました。
正中の変の翌年(正中2年・1325)、後醍醐天皇は上総の退耕庵で隠棲していた夢窓を京都に呼びました。一旦断った夢窓でしたが、幕府の北条高時を介しての2度目の招請で「寺務が煩わしければ幽棲してくれてよい」と言われ上洛し、南禅寺の住持となりました。つまり朝幕どちらも公認の上での入寺でした。しかし南禅寺は1年で退き、伊勢、熊野を経て鎌倉で瑞泉院を開き、北条高時の懇請で円覚寺にも入りましたが、再三の建長寺への招請は断っていました。夢窓はこのころ幕府の前途が短いことを察知していたとも考えられています。
鎌倉幕府滅亡後の元弘3年(1333)、後醍醐天皇は夢窓を京都に呼び、臨川寺(りんせんじ)を管領させました。臨川寺は後醍醐天皇の皇子である世良(よよし/ときなが)親王が、自ら帰依する元翁本元(げんのうほんげん)を開山に迎え、開創を予定していた禅院でした。けれども、親王も元翁も亡くなったため、建武2年(1335)、天皇は夢窓に臨川寺をまるごと下賜し、世良親王の菩提を弔うための勅願寺として開かれました。ところがこの翌年に天皇は吉野へ逃れることになります。臨川寺は以後、夢窓派の拠点となりました。
暦応元年(1338)、北朝から征夷大将軍に任じられた足利尊氏は、室町幕府を開いたあと臨川寺に赴き、夢窓に弟子の礼をとっています。一方、尊氏の弟の直義(ただよし)は夢窓に参禅し、仏教の教理について逐一質問するなど熱心に帰依して夢窓の弟子となりました。この質疑応答のやり取りを直義が仮名文字で記録し、のちに出版された書が『夢中問答』です。
夢窓は尊氏と直義に対し、全国66国と2島にそれぞれ一寺一塔の安国寺と利生塔を設置することを勧めます。夢窓は、鎌倉幕府滅亡、建武政権の破綻、後醍醐天皇方との戦争などにより多くの命が失われ、それに巻き込まれた動植物まですべての霊を慰めることを提唱したのです。これに従い暦応元年(1338)から直義の主導で、禅寺だけでなく天台、真言、律宗の大寺院にも安国寺と利生塔が置かれました。しかし現実的には、これらに城郭が築かれ、警固人が配されて、足利氏の軍事基地の役割を担うものになっていきました。
暦応2年(1339)8月に後醍醐天皇が吉野で崩御すると、夢窓は京都に天皇の菩提を弔う寺を創建することを尊氏と直義に提案したとされています(『太平記』)。早速その年の10月、後嵯峨上皇・亀山天皇の離宮であった亀山殿が寺地に定められ、暦応資聖禅寺(りゃくおうししょうぜんじ)を寺号とする光厳天皇の院宣が下りました。
しかし「暦応」の元号を冠する寺号を巡り、延暦寺の猛反対に遭ったため「天龍寺資聖禅寺(てんりゅうじししょうぜんじ)」と改号。また右大臣堀川具親(ほりかわともちか)は、亀山殿を取り壊すことにも、戦乱で人々が困窮するなか多大な課役を負う事業にも反対したといいます。それでも夢窓はこの場所に禅寺を建てる意義を重くみていました。亀山殿の地には、かつて檀林皇后(橘嘉智子)が禅を学ぶために、唐から招いた義空禅師のために建てた檀林寺がありました。夢窓は、禅宗がわが国に広まり盛んになることにおいて、この地にあった檀林寺が先駆けであり、天龍寺がしんがりであると述べています。
寺院造営のための財源が足らず、天龍寺船を出し、元との貿易から捻出することになりました。有力商人に貿易船派遣の許可を出し、帰国の際には利益に関わらず五千貫文を幕府に収めるという方式で、夢窓と直義が相談して決めたようです。
そして貞和元年(1345)、ついに夢窓疎石を開山として天龍寺の開堂法会が行われます。後醍醐天皇の7回忌法要も盛大に行われ、その様子は「前代未聞の壮観」と『太平記』に記されました。
地蔵信仰、観音信仰に篤かったといわれた足利尊氏でしたが「子孫、一族は末代まで天龍寺だけに帰依すべきで、不義を働く者は義絶する」という旨の手紙を夢窓に宛てたといわれています。このような形で足利氏の外護が保証された天龍寺は、義満の時代に京都五山の一位に出て、その地位を維持し続けました(義満生存中の一時期は相国寺が一位)。
夢窓疎石は後醍醐天皇以降7代の天皇から国師号を贈られ「七朝の帝師」と仰がれました。夢窓の弟子は13,000人を超え、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)や義堂周信(ぎどうしゅうしん)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)など多くの優れた法嗣を出しました。
なお、夢窓に教えを請うた足利直義は、のちに兄・尊氏と敵対して争い、正平7年(1352)、鎌倉浄妙寺に幽閉されて死去しています。
法堂(はっとう)の雲龍図と曹源池庭園(そうげんちていえん)
天龍寺は創建以来8度も火災で焼けています。そのたびに弟子たちや、細川勝元、豊臣秀吉、徳川家康らの援助によって再建されましたが、幕末には砲弾を受けて焼き尽くされるという残念な経緯をたどっています。
幕末の混乱のさなか、長州藩は天龍寺を本陣としていました。寺は強引に占拠され、僧たちは寺から締め出されたといいます。元治元年(1864)の蛤御門の変では長州勢が御所に向かい、会津藩や薩摩藩の兵と闘いますが、激戦の末に長州藩が敗れました。兵たちが天龍寺に戻ると、寺は兵を入れず退去させ、境内を掃き清めたといわれています。ところが翌日、薩摩藩が長州人打払いの名目で寺を襲い、砲弾を浴びせたのです。
何度も焼けた境内には創建当初を伝える堂宇は残っていません。法堂は江戸時代の雲居庵禅堂(選佛場)が移築されたもので、釈迦如来像、文殊・普賢菩薩像、そして足利尊氏と夢窓疎石の木像が祀られています。
その法堂の天井には、現在、加山又造画伯による雲龍図が描かれています。余談ですが、私は高校生のとき天龍寺近くの飲食店でアルバイトをしていたことがあり、繁忙期は目が回るほど忙しかったのを覚えています。従業員のなかにはちょっと怖い先輩もいて、店に入る前にはいつも法堂の扉のすきまから天井の鈴木松年画伯(写真・硯石を参照)の雲龍を観て、仕事の失敗がないように祈っていました。目が巨大なちょっとマンガちっくな龍が大好きでした。仏教も禅も知らず(今もです)、堂内の釈迦如来も、文殊・普賢菩薩も目に入らず、ただ龍だけにお祈りしていたのです。
現在の天龍寺で創建当時を偲ぶことができるのは夢窓疎石の残した曹源池庭園です。原型の亀山殿の苑池に手を加え、嵐山や亀山を見事に借景にした池泉回遊式庭園となっています。作庭当時は境内を超えて大堰川周辺も庭園に取り込まれ、現在の渡月橋より北にある堰の場所には反橋が架けられていたそうです。夢窓疎石は中世屈指の作庭家で、彼が手掛けたといわれる庭園は各地にあります。そしてそのどれもが素晴らしい自然の景観を取り込んで作られています。
『夢中問答』には「山水には得失なし。得失は人の心にあり」という有名な言葉があります。眼に映る自然そのものには得るものも失うものもない。利害や損得を決めるのはそれを眺める人の心だけである。一切の物事には定まった相があるのではなく、対峙する人の心のありようがそれを決めるのだと説いています。
『夢中問答』は夢窓疎石の存命中に、高師直(こうのもろなお)の一族である大高重成によって出版されました。その内容は、足利直義の問に夢窓が答えて、仏法の初歩的な教えや、禅宗や他宗の教理について幅広く説かれたものです。しかし出版後まもなくさまざまな反論の書が出されました。そのひとつに浄土宗の智演による『夢中松風論』があります。夢窓はこれに対して『谷響集』のなかで「(夢中問答は)すべてを言い尽くしたものではなく、念仏の法門を小乗と謗ったものではない」といい、また「諸宗の学者が互いに勝劣を争うのは無益で、経論の文を引いて先徳の言葉を証として百千年論じても勝負が決することはない」と示し、その後の智演の反論には答えず放置しました。