随心院
(ずいしんいん)小野の里にある随心院は、平安時代前期の絶世の美女・小野小町が晩年を過ごしたところと伝えられています。のちにその場所に真言僧の仁海(にんがい)僧正が小野曼荼羅寺を開き、その子院の随心院が門跡寺院となりました。仁海僧正は真言宗小野流の祖といわれています。
総門
山号・寺号 | 牛皮山(ぎゅうひざん) 随心院(真言宗善通寺派) |
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住所 | 京都府京都市山科区小野御霊町35 |
電話 | 075-571-0025 |
アクセス |
地下鉄 東西線「小野」下車徒歩5分 |
拝観時間 | 9:00-17:00(受付終了16:30) 一部改修工事あり(詳細は公式サイト参照) |
拝観料 |
大人500円 中学生300円 身障者400円 梅園・はねず踊り・特別拝観等は公式サイト参照 |
公式サイト | http://www.zuishinin.or.jp/ |
小野小町の伝説が息づく真言宗の門跡寺院
花の色は 移りにけりな いたづらに
我が身世にふる ながめせし間に
【大意】桜の花の色はむなしくあせてしまった。降り続く長雨にむなしくもの思いにふけっている間に。(おなじように私の容姿もすっかり衰えてしまった、恋や世の中のもろもろのことに思い悩んでいるうちに)。
これは百人一首に入る小野小町の有名な歌です。小町は平安前期に出た和歌の名手で、六歌仙に名を連ねています。六歌仙とは紀貫之(きのつらゆき)が『古今和歌集』の序文で秀逸と挙げた6人の歌人で、小町の18首の和歌が『古今和歌集』に選ばれています。また小町は藤原公任(ふじわらのきんとう)の三十六歌仙のひとりにも挙げられています。それほどの有名人なのに、その存在は極めて伝説的です。
小町は出羽の郡司を務めた小野良実(おののよしざね)の娘であるとか、小野篁(おののたかむら)の孫などといわれますが、小野氏出身らしいという以外、小町の生没年や実生活について確かなことはわかっていません。小町の伝説は各地にあり、特に東北に多く伝えられています。これは父とされる良実が出羽国にいたことや、小野岑守・篁父子が陸奥国にいたことと関係があるのでしょう。小町の生誕地は陸奥国という伝えもあります。
一方、京都にも小町ゆかりの旧跡はあちらこちらにあり、随心院は小町が晩年を過ごしたところといわれています。山科には小野郷があり、古代からの名族、小野氏の拠点として栄えていました。小野氏からは遣隋使として随(大唐)に派遣された小野妹子が出ています。飛鳥時代以降、朝廷に出仕した人や、軍事力を買われて東北に赴任した人もありました。また小野道風は能書家としても知られています。
小町は天長2年(825)から 昌泰3年(900)くらいまでを生きた人物といわれています。小町の和歌は恋愛の切なさや憂い、戯れなどを歌ったものが多く、それらをもとにして小町の没後まもない頃からさまざまな伝説が生まれました。やがて小町のニセ歌までもが流布されて、小野小町の人物像がつくりあげられてきました。絶世の美女だった小町は、絶世の美男だった在原業平と恋人だったとか、僧正遍照と大人の関係だったとか、たくさんの男性に言い寄られても振りむかない高嶺の花だったとか、晩年は衰えがひどかった…などなど。でもすべてが作り話という訳ではないのでしょう。
寺伝によれば、小町は仁明天皇が東宮であったころから寵愛を受け、天皇が41歳で崩御するまで更衣として仕えましたが、30歳を過ぎたころに宮仕えを辞め、小野の里に引きこもり余生を過ごしたといわれます。更衣とは天皇の寝所に奉仕する女官のことです。
その小野小町の邸宅跡がのちに随心院となったといわれています。始まりは、正暦2年(991)に、仁海(にんがい)僧正が開いた小野曼荼羅寺(おのまんだらじ)でした。随心院には以下のような由緒が伝えられています。
ある日、仁海の夢に亡き母が牛に姿を変えて現れました。仁海はその牛を探し出して手厚く養おうとしましたが、すぐに死んでしまいます。悲しみにくれた仁海は、牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて寺の本尊とし、牛の尾を山上に埋めて菩提を弔いました。このことにちなんで小野曼荼羅寺は牛皮山(ぎゅうひさん)曼荼羅寺とも呼ばれました。仁海のあと第5世の増俊(そうしゅん)のときに曼荼羅寺の子坊として随心院が建立され、寛喜元年(1229)、第7世の親厳(しんげん)以降、随心院は門跡寺院となり、慶長4年(1599)の再建以降は九条家と二条家から門跡が入り明治初期まで続きました。
仁海は高野山で真言僧の雅真(がしん)について修行し、石山寺の元杲(がんごう)に灌頂を受け、真言宗小野流の祖となりました。その法力は絶大といわれ、神泉苑で請雨の祈祷を9回行い9回とも雨を降らせたことから「雨僧正」の異名をもちます。また仁海には、雀をあぶって粥漬けのおかずにして食べたという豊かな?食生活も伝えられています(『中外抄』)。
ところで小町にも雨乞いの歌を詠んだという伝説があります。ひどい旱魃の年に高僧が祈祷しても雨は一滴も降らなかったのに、小町が「ちはやぶる 神もみまさば 立ち騒ぎ 天の門川(あまのとがわ)の 樋口あけたまへ」と詠むと雨が降ったと伝えられているのです。
拝観入口となる庫裡は桃山時代の建築で、二条家の政所を移築したものといわれ、その台所玄関の土間の屋根には煙抜きが施されています。さらに廊下づたいに表書院、能の間、本堂へと続き、心字池が配された美しい庭園を眺めることができます。表書院には狩野派による四愛図や四季花鳥図を描いた襖絵があります。
本堂は慶長期(1596-1615)に再建されたもので、本尊の如意輪観音坐像が祀られています。また定朝作と伝わる木造阿弥陀如来坐像や、快慶作と伝わる木造金剛薩捶(こんごうさつた)坐像も安置されています。
随心院の境内には小町が使ったとされる化粧井戸や、小町に宛てた千通の恋文を埋めたといわれる文塚など、小町ゆかりの旧跡があります。冒頭の小町の歌からは、年月とともに衰えたと歎きつつ、若年期の美貌を自認していたようにも思えます。なお、随心院には小町百歳像といわれる「卒塔婆小町坐像」が伝えられていますが、老婆の姿から美女の片鱗はみられません。