清水寺
(きよみずでら)「清水の舞台」で知られる清水寺は京都一の観光寺院といってよいでしょう。今も昔も参拝する人々は年中尽きることがありません。奈良時代末期の僧、延鎮(えんちん)と坂上田村麻呂によって開かれた清水寺は、清らかな水の霊験や、千手観音の慈悲を求める人々によって1200年以上親しまれてきた庶民信仰のお寺です。
本堂・清水の舞台
山号・寺号 | 音羽山 清水寺(北法相宗) |
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住所 | 京都市東山区清水1丁目294 |
電話 | 075-551-1234 |
アクセス |
市バス
58,80,86,202,206,207系統「五条坂」または「清水道」下車徒歩10分 京阪バス 84系統「五条坂」下車 徒歩10分 |
拝観時間 | 6:00-18:00 季節・特別拝観等により閉門時間が異なる |
拝観料 | 大人(高校生以上):500円 小中学生:200円 障がい者の方:手帳提示で本人と付添1名無料 |
公式サイト | https://www.kiyomizudera.or.jp/ |
清水寺と坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)。そしてアテルイ、モレのこと
京都で人気のあるお寺といえば、今も昔も清水寺です。清水寺へは、八坂神社の南門から高台寺を経由して、二寧坂から産寧坂を上ってもいいし、東山通りから清水道に入るか、五条坂をたどっても行けます。坂の途中の門前町にはいくつものお店が軒を並べ、いつもお祭りのような賑わいです。
音羽山の中腹に開かれた清水寺の境内にはたくさんの伽藍や旧跡が点在していて、それぞれに興味深い由緒や伝承があり、ちょっとしたテーマパークのようです。
清水寺の開創は宝亀9年(778)、奈良時代の末期です。桓武天皇が即位するのはこの3年後の天応元年(781)で、そのまた3年後の延暦3年(784)に長岡京に遷都され、さらに延暦13年(794)に平安京へと遷されました。つまり清水寺は、平安京に都が遷る前から1200年以上にわたって京都を見つめ続けてきたのです。
清水寺を開いたのは奈良の子島寺の僧、延鎮(えんちん)。修行僧の頃は賢心(けんしん)と名乗っていました。ある日、賢心は夢のなかで「北へ向かい清らかな水の流れる地を求めなさい」と告げられ、音羽山の滝のほとりに導かれます。そこに行叡(ぎょうえい)と名乗る居士(こじ)が現われ、「私はこの地に200年住んで修行を続け、そなたを待っていた。あとを任せるのでここに千手観音を祀りなさい」と眼前の霊木を指して東国へと去っていきました。賢心がその木に観音様を彫り、草庵を建てて祀ったのが清水寺の始まりといわれています。
その2年後のこと。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は妻の三善高子(みよしのたかこ)の病のために、鹿肉を食べさせようとして山で狩りをしていました。そこで聖なる水を見つけ、水源を辿っていくと滝のほとりで修行する賢心に出会います。賢心は「殺生はおやめなさい。その代り観音さまに祈りなさい」と田村麻呂に諭したといいます。田村麻呂はこのことを妻に話すと、妻も感銘を受け、自分たちの土地を寄進して本堂を建て、十一面千手観音を造って奉納しました。
清水寺の創建について、以上のような話が『清水寺縁起』のほか『今昔物語集』や『扶桑略記』などに伝えられています。坂上田村麻呂は蝦夷(えみし)征討でもなじみ深い武官です。修行僧がまず山の中に草庵を立て、のちに田村麻呂が土地を寄進してお寺ができたという話になっています。開祖に迎えられたのは賢心で、のちに延鎮と名乗ります。清水寺に初めて本堂ができたころはまだ田村麻呂の小さな私寺であったようです。
坂上氏は後漢の霊帝の子孫である阿智使主(あちのおみ)を祖とする東漢氏(やまとのあやうじ)の宗家筋を称していたといいます。一族は大和の高市郡に拠点を置き、飛鳥時代からそのすぐれた軍事力を買われ、朝廷に重用されていました。田村麻呂の祖父、犬養(いぬかい)はその武才を讃えられて聖武天皇から寵愛され、父の苅田麻呂(かりたまろ)も藤原仲麻呂の乱で功績を残し、武人としてその名を誇っていました。苅田麻呂は晩年に陸奥国の鎮守将軍も務めています。
田村麻呂が活躍した平安初期、桓武天皇が力を注いだのは征夷と造都の2大事業でした。蝦夷(えみし)とは、古くからヤマト王権に属さず関東以北に暮らしていた人々のことをいうそうです。またヤマト王権が畿内に進出する前からの先住民であったとも、アイヌと同じ民族とも考えられています。『日本書紀』景行紀には、武内宿禰(たけうちのすくね)が東北を視察したとき「東の夷の中に日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是すべて蝦夷という」と報告したとされています。東北北部は高度な縄文文化が知られていますが、弥生時代前期にはすでに稲作が伝播していたといわれ、独自の文化をもち、農業や遊猟、沿岸の漁労に携わる人々が、互いに干渉せず、支配国家をもつこともなく暮らしていたらしいのです。
ヤマト王権の勢力拡大にしたがって東北開拓が進められ、以降、蝦夷と呼ばれた人々の抵抗と服属の歴史がくり返されました。蝦夷の中には姓(カバネ)や位階を求めて自ら帰順する者もあり、朝貢して餐応を受ける者もありました。服属して俘囚(ふしゅう)や夷俘(えふ)と呼ばれた人たちは、坂東以西の各地に居住地を移されたりもしました。政府は服属した者たちを集めて俘軍をつくり、反乱する蝦夷と戦わせることもあったようです。一方、国家から管理された農耕を含む定住の暮らしを嫌って、山に隠れた蝦夷もあったと考えられています。
光仁朝の時代以降、蝦夷征討が本格的になり、蝦夷も激しく抵抗して長い戦乱状態がつづきます。延暦8年(798)、紀古佐美(きのこさみ)を征東大将軍とする4万とも5万ともいわれる国軍が蝦夷征討に向かいますが、アテルイ(阿弖流為)率いる蝦夷軍の戦略に嵌められて大敗を喫しています。『続日本紀』延暦8年6月3日条には「比至賊帥夷阿弖流為之居」とあり、この大戦で初めて蝦夷の族長としてアテルイの存在が知られることになります。
延暦13年(794)、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)のもと、副将軍の1人として坂上田村麻呂が初めて蝦夷征討に加わり、ひとまず征夷を果たします。そして延暦20年(801年)、今度は田村麻呂が征夷大将軍として陸奥国に遠征。蝦夷を平定し、翌年、アテルイたちが拠点とした所に胆沢城を築くと、蝦夷族長アテルイと武将のモレが500人余りを率いて投降したといわれています。
さらにその翌年、田村麻呂はアテルイとモレを京都に連れ帰り、戦わずして投降した彼らの故郷への差し還しを朝廷に請願したと考えられています。けれども公卿たちは朝議で彼らを「野心獣心、反覆定まりなし」(『日本紀略』)として河内(枚方)で処刑してしまうのです。
のちに東北地方では、田村麻呂は軍神として深く崇敬されてきました。それは開拓のために東北に移った人々の子孫のみならず、征討され屈服させられたはずの地域の人々にまでおよぶのだといいます。『田村麻呂伝記』によれば、田村麻呂は身長約180cm、胸の厚さ36cmの大男で、赤ら顔、眼は蒼鷹のように鋭く、黄金のあごひげを蓄えていたと書かれています。怒って睨みを利かすと猛獣もたちまち倒れてしまうが、笑って眉をゆるめると幼子もすぐに懐くといわれ、豪胆そうな風貌や、懐の深そうな人物像が浮かび上がってきます。
けれども、官人である田村麻呂には都に暮らす公卿たちの意思決定を覆す力はなかったようです。その後、再び陸奥国の政情は不安定になり、弘仁2年(811)の文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)による蝦夷征討戦争へとつながっていきます。
清水寺の本尊、十一面千手観音(秘仏)の脇侍は、毘沙門天と勝軍地蔵菩薩(秘仏)です。これらは田村麻呂のために、延鎮(えんちん)がつくったものといわれ、戦勝祈願が込められています。勝つには勝っても、田村麻呂にとって征夷は苦い経験だったかもしれません。
近年になって、「阿弖流爲(アテルイ)、母禮(モレ)の碑」が境内に建てられました。清水寺では年に一度、アテルイとモレの法要が行われ、その日は必ず雨が降るといいます。水は観音さまの化身といわれ、その雨はアテルイとモレの涙ともいわれています。記念碑には「北天の雄」と小さく添えられています。
昔の文学で語られる清水寺に参詣する人々
西寺造営の長官を兼ねていた坂上田村麻呂は、延暦24年(805)、桓武天皇の御願寺として朝廷から寺領を賜り、清水寺の本格的な伽藍造営を始めます。また弘仁元年(810)には嵯峨天皇から「北観音寺」の寺号が贈られ、鎮護国家の道場に指定されました。桓武天皇は平安京に私寺を建立することを厳しく取り締まっていましたが、田村麻呂の数々の功績が認められて、天皇の御願寺とすることで建立を許されたのでしょう。ほかにも理由がありそうです。
『今昔物語集』巻第11第32話によれば、延鎮と坂上田村麻呂が共同で清水寺の堂宇を建て、完成する前から清水寺の霊験のうわさは瞬く間にひろまったとされています。嵯峨天皇から賜った「北観音寺」の寺号よりも、「清水寺」の名で一般に知られるようになりました。境内を流れる聖なる水「金色水」に霊験を感じて有り難がった人々が多かったと考えられています。
境内の「音羽の滝」のお参りは、頭上の「滝ノ宮」を通って流れ出る水を3本の石の筧(かけい)で落下させ、それを柄杓で受けていただくという慣わしになっています。開祖の賢心が修行していた滝がこの「音羽の滝」で、滝ノ宮の本尊は不動明王です。観光シーズンには長蛇の列ができて、なかなか順番が回ってきませんが、ここはご利益を授かるやり過ごせないポイントなのでしょう。戦国時代につくられたといわれる『清水寺参詣曼荼羅』にも同じ仕組みの滝が描かれていて、古くから滝のスタイルは変わっていません。絵図には滝に打たれている人も描かれています。
開祖の延鎮が修行していた奈良の子島寺は真言宗の寺院でしたが、清水寺は、平安時代に奈良の興福寺が布教の道場として本末関係を結んだといわれています。以来、清水寺は昭和40年(1965)に北法相宗本山として独立するまで興福寺の末寺でした。平安時代の当初、朝廷は南都系の寺院勢力を敬遠していましたが、難解な教義よりも、利他救済、現世利益を説く観音信仰が大衆の心を掴んで清水寺は隆盛します。
ところが京都で南都の最前線に立たされた清水寺は、延暦寺から焼き討ちを受けたことも度々あり、清水寺の歴史は火災と再建の歴史でもあります。最後に大火事に見舞われたのは寛永6年(1629)で、このとき伽藍のほぼすべてを焼失しています。現在の本堂は徳川家光の寄進により寛永10年(1633)に再建されたもので、そのほかの多くの伽藍も同時期に再建されたもの。なので、古い時代の遺構や遺物はほとんど残っていないとのことですが、往時のようすは文芸や絵画などに数多く描かれていて、当時を偲ぶことができます。
古くは紫式部の『源氏物語(葵の巻)』や清少納言の『枕草子』に清水寺が登場します。特に『枕草子』には清水寺に関する記述が多く、清少納言は「さわがしきもの」として毎月18日の清水寺の縁日を挙げているほか、「正月に寺にこもりたりたるは」の段では、正月は人で賑わい過ぎてお参りどころではないと言っています。また同じ段には清水寺に参籠する人々の様子がこと細かに描写されていて、そこには思い詰めた様子で祈る高貴な男性や、宿坊に泊まる男、女、子どもたち、官職の昇進を祈願する者、安産祈願をする者、年配の女房、お世話係の小坊主たちや、諸国を巡ってやってきた修行僧など大勢の姿があります。
また女性たちを意識してまわりをうろつく男性陣や、おしゃれなイケメンもいて、見知らぬ人なら「誰かしら?」となり、見たことのある男性なら「ふうん、そうなのね」と思ったり。その上で清少納言は、こういった普段と違う特別な場所に行くときは、いつもの使用人とではなく、同じくらいの身分でいろいろと話せる人たちと行きたいものだわ、なんて綴っています(『枕草子』正月に寺にこもりたるはの段)。清水寺には切実な願いを祈りに来る人はもちろん、ウキウキ修学旅行気分の若者たちもいたようです。
さらに『宇治拾遺物語』には、双六で大負けした侍が渡すものがなく、清水寺の二千度参詣の証文を勝者の侍に渡したところ、もらった侍はよい妻を娶り、出世したという説話が収められています。また室町時代の御伽草子の『ものくさ太郎』は、怠け者の主人公が信濃から京都に来て「清水寺で女を探せ」と教えられ、11月18日の縁日に大門に立ち、何千何万の女性に無視された末に運命の女性と出会い、執念で射止めたという物語です。今、縁結びというと境内の地主神社が人気ですが、とにかく清水寺は古くから大衆の集まる寺で、男女の出会いの場でもあったようです。
清水の舞台に関する説話もたくさんあります。鎌倉時代に成立した『古今著聞集』の巻第11蹴鞠 410話には、蹴鞠をしながら舞台を往復した藤原成通(ふじわらのなりみち)の話が収録されています。また『今昔物語集』巻第19「検非違使忠明於清水値敵存命語 第40」では、忠明という検非違使が若いころに京童と喧嘩をして清水の本堂に逃げたが、追いかけられたので舞台から鳥のように飛び降りた、と語られます。一方、同巻第19第41話では、ある母親が過って赤ん坊をお堂から谷に落としてしまったけれど、観音の思し召しにより落ち葉の上で助かったと語られています。さらに南北朝時代に成立したといわれる『義経記』によれば、牛若丸と弁慶が対決するのは五条大橋ではなく、清水寺の舞台となっています。
本堂から大きくせり出した舞台は、本来、本尊の千手観音に舞踊などを奉納する場とされますが、そこから「飛び落ちる」人もかなりいたようです。江戸時代には舞台からの飛び落ちが流行ったらしく、観音に祈り、無事に着地できれば願いが叶い、もし失敗しても、観音の慈悲に抱かれて往生できるという信仰からの行動だといわれています。なお、舞台から飛んだ人の生存率は高かったということです。でももちろん絶対にマネをしてはいけません。
ところで清水寺の本尊といえば十一面千手観音立像で、33年に一度の御開帳のときにしか拝観することができません。なので普段はお前立を拝むことになります。このご本尊は両手をあげて頭上で化仏(けぶつ)を戴く独特のスタイルで「清水型観音」と呼ばれています。次回の御開帳は2033年の予定ですが、特別の御開帳の例もあるので、もしかしたら2033年まで待たなくてもご本尊を拝観できるかも。
平安時代にはすでに清水寺参詣のために五条橋(今の松原橋付近)が架けられたといわれています。人々は鴨川を渡り、冥土の境界といわれる六原を通って清水寺に参詣したようです。すぐそこは鳥辺野とよばれる葬送地なので、人々はこの世とあの世の幸せを清水寺の観音さまに祈ったのでしょうか。加えて観光で参詣した人々もあったでしょう。『清水寺参詣曼荼羅』には、境内の茶店で憩う人々も描かれています。お参りと娯楽を兼ねた人たちの今と変わらない賑わいが想像できます。