広隆寺
(こうりゅうじ)広隆寺といえば、国宝の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)です。うつむき加減で中指を頬に近づけながら微笑を浮かべる美しい仏像は、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から賜ったものと伝えられています。
広隆寺 南大門
山号・寺号 | 蜂岡山 広隆寺(真言宗系単立) |
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住所 | 右京区太秦蜂岡町32 |
電話 | 075-861-1461 |
アクセス | JR「太秦」下車 徒歩約15分 京福電車 嵐山線「太秦広隆寺」下車すぐ 市バス 11系統「太秦広隆寺前」下車徒歩1分 京都バス 62,63,65,66,72,73,75,76系統 「太秦広隆寺前」下車徒歩1分 |
拝観時間 | 3月~11月 9:00-17:00 12月~2月 9:00-16:30 |
霊宝殿 拝観料 |
大人800円 高校生500円 小中学生400円 |
聖徳太子と秦河勝(はたのかわかつ)と広隆寺
嵐電(京福電車)太秦(うずまさ)駅の目の前に広隆寺が建っています。広隆寺は、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から賜った弥勒菩薩を祀るために創建したと伝えられる寺院です。寺内の霊宝殿に安置される弥勒菩薩半跏思惟像がその仏像とされ、昭和26年(1951)に国宝彫刻の第1号に指定されました。
秦河勝は、広隆寺創建当時この地に勢力を振るった秦氏の族長であったと考えられています。秦氏はわが国最大規模の渡来氏族で、早くから各地に移り住み、農耕、土木工事、蚕養、機織、金工、製塩など、古代日本のインフラ整備に大きく貢献したといわれています。なかでも京都は秦氏が本拠を置いた土地で、平安遷都以前の京都の発展は秦氏抜きには語れません。しかし、その実像については今なお不明な点が数多くあります。
秦氏の渡来には何度かの波があり、山代国に入った秦氏は、『日本書紀』応神紀に葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が加羅から連れてきたと書かれる大集団であったようです。『新撰姓氏録』によれば、山代の秦氏は秦の始皇帝の末裔である功智王、弓月君の子孫とされています。秦氏はまず葛城朝妻の腋上に入り、その後、各地に分散しますが、一大拠点とされたのが河内の太秦です。現在の寝屋川付近には太秦の地名があり、八尾にも秦氏の集落が数多く存在していました。『書紀』雄略天皇15年条によれば、秦酒公(はたのさけきみ)は、絹などをうず高く積み上げ朝廷に献上したことから、雄略天皇により禹豆満佐(うずまさ)の姓を賜ったと記されます。このとき秦酒公は各地に離散していた秦の民92部1万8670人を束ねたといわれています。
まもなく、秦氏本宗の一流は山代国に移り、葛野郡に落ち着いたと考えられています。秦氏のものとみられる後期古墳は太秦や嵯峨野地域に数多くみられ、それらは概ね6世紀前半から7世紀初頭の築造とみられています。
秦河勝が活躍したのは、伝承を含めると6世紀末頃から7世紀中頃までの時代です。河勝の本拠地は太秦付近とみられていますが、河に勝つという名前からすると、葛野川の河川工事を指揮したのかもしれません。また、聖徳太子の側近として仕えていたのなら飛鳥や斑鳩に住んだことがあったかもしれません。河内にも河勝の伝承があります。『聖徳太子伝暦』によれば、用明天皇2年(587)のいわゆる宗仏戦争で、蘇我馬子が物部守屋を攻めたとき、聖徳太子は馬子軍として秦河勝をしたがえ戦ったとされています。馬子軍が守屋軍に苦戦したとき、太子は河勝に命じて四天王像を刻ませ、「敵に勝たせてくれるなら四天王寺を建立しましょう」と誓っています。そのあと太子は迹見赤檮(とみのいちい)に「四天王之矢」を放たせると守屋の胸に命中し、河勝が守屋の頸を斬ったとされています。
しかし、史書にはそのような話はまったくみえません。秦河勝が国史に初めて現れるのは、守屋打倒から16年後の『書紀』推古天皇11年(603)11月条の記事で、聖徳太子は「私は尊い仏像を持っているが、誰かこの像を拝んでくれないか」と尋ねたとき、引き受けたのが秦河勝でした。これにより蜂岡寺が創建されたといわれています。蜂岡寺はのちの広隆寺とみられ、宝亀2年(771)に成立したといわれる『七代記』には「廣隆寺時俗号為蜂岡寺」とあり、すでに奈良時代末期には蜂岡寺は広隆寺の法号をもっていたようです。
一方、先の『聖徳太子伝暦』では、推古天皇12年(604)のこととして別伝を述べています。太子が夢の中で、北へ5、6里行くと美しい邑(むら)があり、とてもよい香りのする楓の林のなかで河勝の親族らに餐応されたことを河勝に告げると、河勝はそれは私の住むところのようですと答え、太子を楓野大堰の蜂岡の麓に案内しています。聖徳太子はこの地は大変秀れているから宮殿を造るようにと従者に命じ、楓野之別宮を建立しました。のちにその宮殿を河勝に下賜して寺となり、新羅王が献じる仏像を祀ることになった、とされています。
現在、境内に建つ桂宮院は聖徳太子の別業と伝えられていて、その前身が楓宮院(ふうぐういん)であったともいわれています。すると、楓野之別宮が楓宮院だったのかもしれません。しかしその場所は不明です。そもそも聖徳太子は山背国に来たことがあったのでしょうか?
ところで聖徳太子から仏像をもらい受けた秦河勝が、すぐに蜂岡寺を創建したのかというとそれは微妙です。『朝野群載』に載る『広隆寺縁起』(承和3年・836に成立)には「推古11年に仏像を譲り受け、推古30年に聖徳太子のために秦河勝が広隆寺を建立した」とあり、蜂岡寺(広隆寺)は推古11年創建説と、推古30年創建説が存在するのです。
また、それと関連するのか『書紀』には推古31年(623)7月条に、新羅から遣いがあり、仏像一体と金塔などが献上され、仏像は「葛野の秦寺」に据えられ、その他は四天王寺に納められたことが記されています。同じような内容の記述が『広隆寺来由記』にもあり、そこでは推古24年(616)の出来事とされています。いずれも贈られたのは新羅仏でした。
実は『日本書紀』は流布本と現存最古の写本である岩崎本に1年のズレがあるらしく、上記の『書記』推古31年の記事は、推古30年(622)のこととも考えられています。これに従えば、聖徳太子は推古30年(622)2月に亡くなっているため、追善供養のために5か月後に新羅から仏像が贈られ、その仏像を祀るため広隆寺が創建されたとも考えられているのです。
では秦河勝が推古11年(603)にもらい受けたという仏像は、いったいどこに祀られていたのでしょう。また『書記』に書かれる「葛野の秦寺」は、蜂岡寺(広隆寺)とは別の寺の可能性もあります。『書記』をそのまま読めば、推古31(30)年7月に新羅から贈られた仏像が「葛野の秦寺」に祀られた、ということが解るだけだからです。
蜂岡寺の所在については、旧地は平野神社の南約500mの北野白梅町付近にあり、平安京遷都に伴い現在の広隆寺の場所に移ったというのが通説になっています。昭和11年(1936)の発掘調査で北野白梅町一帯から京都市最古とみられる飛鳥時代の寺跡が見つかり、北野廃寺と名付けられました。北野廃寺跡からは飛鳥時代の単弁十葉蓮花紋の軒丸瓦や「鵤室(いかるがのむろ)」の墨書がある平安初期の陶器、「野寺」の墨書がある土師器などが出土して、その場所に蜂岡寺があったとされる有力な根拠となりました。
また『広隆寺縁起』には「広隆寺のもとの寺地は九条河原里に十町と九条荒見社里に四町があり、その地が狭すぎるので五条荒蒔里に移った」ことが記されています。当時の葛野郡の条理は南北に敷かれ、西から東に行くにつれて一条、二条・・・とされていたので、九条河原里や九条荒見社里は、現在の北野白梅町付近にほぼ一致し(寺地は10町と4町の飛び地)、また移った先の五条荒蒔里は、現在の広隆寺の場所に一致するそうです。
なお「鵤室」は聖徳太子の住んだ斑鳩(いかるが)と符号するため、太子を祀る何らかの宗教施設が北野廃寺付近にあったとみられています。一方「野寺」は蜂岡寺が現在の場所に移った跡地に、桓武天皇によって建立された常住寺とみられ、『日本霊異記』には、延暦15年(796)3月に野寺で大法会が営まれたことが記されています。平安京の大内裏となった場所にはかつて秦河勝の邸宅があったと伝えられ、北野廃寺も大内裏のすぐそばなので、広隆寺が建立されるまでは、河勝は自邸で仏像を祀っていたとする説もあります。
また、昭和52年(1977)からの発掘調査により、現在の広隆寺境内からも飛鳥時代の建物の遺構と軒丸瓦が出土して、平安京遷都時に蜂岡寺が太秦に移る前から現・広隆寺の地に何らかの大建造物が建っていたとみられています。このことに着眼して、太秦の地にもとからあった秦氏の氏寺を「葛野の秦寺」と推測し、蜂岡寺と秦寺はもともと別の寺で、平安京遷都を機に2つの寺が合併したという説も出ています。太秦は河勝より前の時代から秦氏の大集落があったとみられていることからも、この説は大変興味深いと思っています。
華奢で美しい半跏思惟像と泣き弥勒
境内奥の霊宝殿には多くの仏像が安置されていて、そのなかに2体の弥勒菩薩像があります。「宝冠弥勒」と「泣き弥勒」です。国宝第一号として有名な宝冠弥勒菩薩半跏思惟像の像高は123.3cm。台座に腰をかけた姿勢なので等身大といえますが、向かい合うように背の高い不空羂索観音立像(313.6cm)や、千手観音立像(266.0cm)が安置されていて、思いのほか小さく感じます。
宝冠弥勒の胸板は薄く、ウエストも腕もすごく細くて華奢な仏像です。目を少し伏せて微笑するやさしい表情は、ギリシャに起源をもつアルカイクスマイルとも呼ばれるようです。中指をそっと頬に近づけ、首を傾けて思索する姿はロダンの「考える人」と比べても断然女性っぽいです。朝鮮の仏像によく見られるという赤松の一木造りで、頭上の宝冠の形状は中国や日本には例がないといわれています。韓国の国宝第83号弥勒菩薩像に酷似しているとの指摘があり、7世紀ごろに造られたものが朝鮮半島から伝来したとみられていますが、一部に楠が使われていることが判明し、日本で造られたという説も出ました。
もう一体の宝髻(ほうけい)弥勒菩薩半跏思惟像は、上唇が厚く、めくれ上がり気味で泣きそうな表情から「泣き弥勒」と呼ばれています。胸板は厚く、腕も太くて全体にどっしりとした印象があります。上半身裸体の宝冠弥勒に対して、泣き弥勒にはショールのようなものが掛けられています。こちらは楠の一木造りで、像高は90cm。頭上に高く結い上げられた宝髻は白鳳時代の菩薩像の特徴とされ、製作時期は宝冠弥勒より少し後の700年ごろとみられています。
なお『広隆寺縁起資財交替実録帳』によれば、広隆寺金堂の項に2尺8寸の「金色弥勒菩薩像」が2体が記されていて、一方に「所謂太子本願御形」とあり、聖徳太子が秦河勝に授けた弥勒菩薩とみられています。証拠はありませんが、それがおそらく今に伝わる「宝冠弥勒」なのでしょう。
ところで平安京遷都後まもなくの広隆寺は穏やかではなかったようです。『広隆寺縁起』によれば、平安時代の延暦年間(782-806)に、当時別当であった泰鳳(たいほう)法師が流記資材帳を窃取して逃亡するという事件が起きています。また『広隆寺別当補任次第』によれば、延暦14年(795)に別当らが乱闘して恒例の仏事や寺務がすべて中止になり滞ったとあります。さらに弘仁9年(819)には大火災に見舞われ、堂塔歩廊、文書類などがことごとく焼失しています。それでも幸いなことに2体の弥勒菩薩像は無事だったのです。
焼けた広隆寺を再興したのは道昌でした。道昌は讃岐生まれの秦氏で、19歳のとき東大寺で具足戒を受け、31歳で空海から潅頂を受け、のちに嵐山の法輪寺を創建しています。承和年間(834-48)には、決壊した葛野大堰の大規模な修造も行っていました。道昌は承和3年(836)に39歳で広隆寺の別当に就任し、貞観4年(862)で退任するまでの27年間で31棟の堂宇と3つの別院を建て、広隆寺を復興させました。
なお、平安京遷都のころに、広隆寺の本尊は宝冠弥勒菩薩像から薬師如来立像に交代しています。それからさらに、道昌の別当就任中に広隆寺に迎えられた薬師如来坐像が新たな本尊となったようです。霊験あらたかで朝野から篤く信仰されたという霊験薬師仏檀像は、『広隆寺縁起』によれば、乙訓社の向日明神の権化といわれ、大原寺、石作寺、願徳寺と遷り、その後、勅により広隆寺に遷されたとされています。
ちなみに、乙訓社の祭神は火雷神で、松尾大社の大山咋神でもあります。そしてその神を祀ったのは物部氏と秦氏です。私見ですが、火雷神は饒速日命であり、少彦名神でもあると考えています。少彦名神は医薬の神でもあり、仏教においては薬師如来に習合される要素があったと思われるのです。もちろんもとは別の神仏なので、すべての薬師如来が少彦名神ではありません。また、この檀像薬師如来は、『広隆寺由来記』によれば、吉祥天王如来とも呼ばれていました。
その後、広隆寺は久安6年(1154)に再び火災に遭い、永万元年(1165)の再建時にまたしても路線変更を図っています。今度は平安中期から盛んになった太子信仰に伴い、真言僧定海(じょうかい)の発願による太子堂が建立され、鎌倉時代の建長3年(1251)には桂宮院も再建されて、大々的に聖徳太子を祀る寺として隆盛するのです。以来、現在まで広隆寺の本尊は聖徳太子です。ただ、太子の別業とされる楓宮院の伝承や、北野廃寺から鵤室(いかるがのむろ)の墨書が出ていることも合わせて、やはり河勝や広隆寺にとって聖徳太子は当初から特別な存在であったのでしょう。