東寺
(とうじ)高さ55mの東寺の五重塔は日本の古塔で最も高く、今も昔も京都のランドマークです。東寺の造営は平安遷都と同時に始まり、空海により伽藍が整えられてきました。講堂には空海が創出した真言密教の立体曼荼羅の世界が広がり、その深遠な宇宙観は現在も多くの人を惹きつけています。
東寺
山号・寺号 | 八幡山 教王護国寺(東寺真言宗) |
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住所 | 京都府京都市南区九条町1 |
電話 | 075-691-3325 |
アクセス |
JR京都駅八条口から徒歩15分 市バス 19,42,71,78,207系統「東寺南門前」下車すぐ 16系統「東寺西門前」下車すぐ 近鉄電車「東寺」下車徒歩10分 |
拝観時間 | 開門5:00 閉門17:00 金堂・講堂:8:00-17:00(16:30受付終了) 宝物館(会期中のみ)・観智院:9:00-17:00(16:30受付終了) |
拝観料 | 境内拝観無料 金堂・講堂:大人500円 高校生400円 中学生以下300円 観智院:高校生以上500円 中学生以下300円 金堂・講堂・観智院共通券:高校生以上800円 中学生以下500円 特別公開・特別拝観については公式サイト参照 |
公式サイト | http://www.toji.or.jp/ |
空海の前半生 ― 生い立ち、入唐のことなど
延暦13年(794)、桓武天皇は平安京に遷都し、その2年後、藤原伊勢人(ふじわらのいせど)を造寺長官として平安京の南の正門である羅城門の東西に東寺と西寺の造営が始められました。都の左京と右京を護り、日本の東国と西国を護るための官寺として、また外国の使節を接遇する鴻臚館としての役割が目的とされました。西寺は早くに衰えましたが、東寺は遷都以来ずっと今の位置にあり、京都の歴史を見守りつづけてきたのです。
しかし当初、東寺の造営はなかなか進まなかったようです。伽藍の建立が本格化するのは、嵯峨天皇が空海に東寺を「給預」してからでした。
空海は平安時代に密教の正統を日本に伝え、真言宗を開いて平安仏教の基礎を築いた高僧です。語学堪能、書や漢詩に対する造詣も深く、土木技術や経済感覚にもすぐれ、極めて多才な人物でした。そして空海がこの世を去ってからも、現在に至るまで、宗派を超えて人々に信仰されてきました。そんな空海を「万能の天才」と呼んだのは、日本で初めてノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹氏でした。
空海は宝亀5年(774)に讃岐国多度郡の屏風ヶ浦に生まれたといわれています。この通説に対し、畿内で誕生したという説もあります。父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀(あと)氏の娘、阿古屋(あこや)で、三男であった空海は幼名を真魚(まお)といいました。父の田公は讃岐多度郡の少領で、その父は多度郡の擬大領であったといいます。また母系の阿刀氏は、物部氏から早くに分かれた石上氏の支流で、義淵(きえん)や玄昉(げんぼう)、善珠(ぜんしゅ)などの高僧や学者を出す家系でした。
なお、空海の兄弟には、外従五位下の鈴伎麻呂(すずきまろ)、正六位上の酒麻呂、正七位下の魚主のように官人になった人や、のちに空海の弟子となる真雅がいました(『日本三代実録』)。また佐伯直氏の一族で、のちに空海の弟子となる実恵(じちえ)、道雄(どうゆう)、智泉らは、空海が出家するよりも早くに南都に入って修行を始めていたと伝えられています。平安時代には円珍を輩出するなど、空海の父母の家系はともに仏門に近い環境にあったとみられています。
空海は15歳のとき叔父の阿刀大足(あとのおおたり)につき漢籍を学んでいます。阿刀大足は桓武天皇の皇子である伊予親王の侍講を勤めたこともあります。その後、空海は18歳で大学の明経科に入学し、直講であった味酒浄成(うまざけのきよなり)から『毛詩』『春秋左氏伝』『尚書』などの講義を受け、明経博士の岡田牛養(おかだのうしかい)からも『春秋左氏伝』の教えを受けたといわれています。
当時一般に大学入学は13歳から16歳までと決められていたため、18歳で進学した空海には特例が認められたようです。入学が遅くなった理由は、空海が官吏養成機関としての大学に興味がなかったためといわれ、それでも進学を決めたのは、叔父の大足や周囲の期待もあり、また、18歳になれば本貫地の讃岐に戻り、課役の義務を果たす必要があったからとも考えられています。一方、大学入学後は、睡魔を克して勉学に励んだことが、空海の自伝的著作『三教指帰(さんごうしいき)』に記されています。
空海は24歳で処女作『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著しました。この序文と末尾を改訂したものが『三教指帰(さんごうしいき)』です。『聾瞽指帰』・『三教指帰』は漢文で書かれた戯曲風の作品で、登場人物に父や叔父や空海自身を投影して、儒教、道教、仏教の優劣を説き、自らは出家して仏道に生きるという意志を表明したものでした。その著述のなかに、大学在籍中の空海(作中では仮名乞児・かめいこつじ)が、ある沙門と出会い「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を伝授されたことが記されています。そしてそれを機に空海は大学を離れて山岳修行に身を投じるようになったと考えられています。
「虚空蔵求聞持法」とは、ある作法にしたがって虚空蔵菩薩の真言を百万遍称えることであらゆる経典が暗記でき、その内容を即座に理解できるという修法といわれています。空海はこの法を修するために吉野の金峯山(きんぶせん)や伊予国の石鎚山(いしづちさん)、阿波国の大滝嶽(だいりゅうのたけ)、土佐国の室戸崎などをめぐり、ついに虚空蔵菩薩の化身である明星(金星)が自分の身体に飛び込んで一体となる神秘体験を得たのだといいます。なおこの法を授けたのは大安寺の勤操(ごんそう)とか、慶俊の弟子の戒明(かいみょう)ではないかといわれますが明らかではありません。
空海が24歳で大学を辞めてから、31歳で唐に渡るまでの約7年間の確かな記録はないそうです。おそらく山林幽谷で修験者たちと交わりながら修行を続け、諸刹で仏典の研鑽を重ねたものと推測されています。空海が24歳のときにあたる延暦16年(797)には、甥の智泉も9歳で大安寺に入り、勤操について修行を始めたといわれています。空海はこの期間、身内や修行中に築いた人脈を駆使して仏道を探求していたのでしょう。また旧都には佐伯今毛人(さえきのいまえみし)が建てた佐伯院もありました。
ところで、空海の父系である讃岐の佐伯直氏は、伴善男(とものよしお)の奏言により、大伴氏から分かれた氏族ともいわれますが、播磨の佐伯直(播磨国造)と同族という説が有力です。佐伯連の管掌下で地方の佐伯部(蝦夷)を管理したのが、播磨国造から出た佐伯直でした。ただ、佐伯直は長い間持続的に佐伯連の管掌下にあり、関係が密だったために、奈良時代末から平安時代初期のころには両氏族は同族意識をもっていたと考えられています。佐伯今毛人も、先祖は佐伯連で大伴氏の分流です。
ともあれ、空海自身は大伴氏と同祖と信じていたようで、陸奥国に派遣される伴国道(とものくにみち)に贈った詩文のなかで、国道と自分は同祖であり兄弟だ、という意味のことを述べています(『性霊集』巻第3)。
延暦20年(801)、桓武天皇はしばらく途絶えていた遣唐使の実施に踏み切ります。これを機に空海は留学を決意しました。その目的について、空海の言葉によれば、悟りへの道がわからず途方に暮れたこともあったがついに「秘門」に出会うことができた。しかしその内容が理解できないから唐の師に教えを請うことを願った、とされています(『性霊集』巻第七)。また空海の没後に作られたといわれる『御遺告(ごゆいごう)』などによれば、空海は「汝の求むるところは大日経なり」との夢告を受け、久米寺で大日経を探して読んだけれども理解できなかったからと伝承されています。
留学僧として遣唐使に加わるには出家得度が必要で、さらに朝廷によって公認される必要がありました。それまで私度僧として活動していた空海は、慌ただしく東大寺で出家・受戒したと考えられています。なお空海の出家時期については諸説あり、延暦23年(804)4月説が有力のようです。同時期の留学生に最澄がいますが、空海には、還学生(げんがくしょう)として入唐する最澄のように、国家から費用が支給されるという待遇はなかったため、遣唐使への推薦や経済的援助は、身内の佐伯氏や佐伯氏と縁の深い大伴氏や、叔父の阿刀大足や阿刀氏に縁のある南都の高僧などの計らいがあったのではと考えられています。また空海はすでに唐語・漢文に長けていたためその才能を買われたという説もあります。
延暦23年(804)7月、遣唐大使を藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)、副使を石川道益として4船が肥前田浦を出発しました。空海の乗った遣唐使第一船には大使の藤原葛野麻呂や橘逸勢(たちばなのはやなり)が乗っており、第二船には最澄が乗っていました。ところが早くも出航の翌日に4隻の船は暴風雨に遭い四散します。そして空海の乗った船は34日間漂流した末に、福州の赤岸鎮に漂着するのです。なお第二船は30日間の漂流ののちに明州に漂着、第三船は難破、第四船は消息を絶っていました。
福州に上陸した第一船の一行はその地で約50日間留め置かれました。その時期、福州の勅史(知事)の交替があり、新任の閻済美(えんさいび)はまだ当地に到着していなかったようです。また遣唐使一行が国書を携えていなかったことや、朝貢品に天皇の公印がなかったことにより、不審と混乱を招いたといわれています。久しぶりの遣唐使なのに、しかも大使率いる一団なのに、国書を持っていなかったとか、本当だとしたらかなりびっくりですが。そこで窮地を切り抜けるべく、空海は大使に代わって福州の観察使に書状を書き送り、その名文と能筆のおかげで一行は国賓として扱われ、長安を目指すことができたといわれています。
延暦23年(804)12月23日、一行がたどり着いた長安は、東西の宗教や文化が集まり熟成する国際都市でした。空海らの宿舎とされたのは東市に近い宣陽坊の公館でしたが、西市のあたりはペルシャ、アラビアなどからの商人が行き交い、仏教寺院はもちろん、ゾロアスター教やマニ教、景教の寺院も建っていたようです。翌年、空海は西市に近い西明寺に居を移し、醴泉寺(れいせんじ)にいたインド僧の般若三蔵に師事して梵語や悉曇(しったん)やインドの宗教事情などを学びます。このとき醴泉寺には空海がこのあと出会う恵果(けいか)の弟子・義智もいたので、空海はおそらく義智を通じて恵果のことを知り、また恵果も義智から空海について聞いていたとみられています。
そして延暦24年(805)5月ごろ、空海は青龍寺東塔院で密教の第7祖、恵果阿闍梨と運命的な出会いを果たします。恵果は初めて会う空海に「我れ先に汝が来らんことを知りて相待つこと久し(長らく待っていたぞ)。今日相見(あいまみ)えること大だ好し(はなはだよし)、大だ好し」と喜んだそうです。このとき病を患っていた恵果はひと目で空海との縁を確信し、自らの死期を予感してか、その後たった3ヵ月で大悲胎蔵、金剛界、伝法阿闍梨(でんぽうあじゃり)の灌頂を空海に授けるのです。
6月の胎蔵潅頂では、有縁の仏を決める儀式のとき、空海が目隠しをされて諸仏の描かれた曼荼羅の上に花を投げると、偶然にも中央の毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい・大日如来)の上に落ちたそうです。これを見て恵果は「不可思議、不可思議なり」と讃嘆しました。さらに、7月の金剛界潅頂でも同じく中央の毘盧遮那如来の上に花が落ち、再び恵果を驚嘆させていました。そして8月の伝法潅頂で、ついに空海は密教第8祖として阿闍梨位を正式に相承し、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の灌頂名が与えられたのです。
その後、恵果は弟子たちに描かせた胎蔵・金剛界の両部曼荼羅や、経典の写経、密具、法具、阿闍梨伝法の印などを空海に授けると、その年の12月15日に入滅しました。
恵果の在俗の弟子であった呉慇(ごいん)は、師の空海への授法について「瓶から瓶へ水をあますことなく移すがごとくであった」と記録しています。そして密教のすべてを空海に相承したのち恵果は「いまこの土に縁尽きて、久しく住(とど)まること能(あた)わじ」といい、早く日本に帰って密教を伝え、広めよ、と空海に遺命を告げたそうです。空海は恵果和尚を追悼する碑文で「…虚往実帰(むなしくゆきて、みちてかえる)」と感謝の意を表しています。
当初、留学生として20年間在唐の義務を負っていた空海ですが、恵果入滅の翌年、唐に来朝していた遣唐使判官の高階遠成(たかしなのとおなり)を通じて留学期間の短縮を上奏し、唐朝に認められて遠成一行の船で帰国することになりました。その次の遣唐使派遣が空海入定後の承和5年(838)であったことを考えれば、これは空海にとって千載一遇のタイミングだったのでしょう。
ちなみにこのとき橘逸勢も空海と一緒に帰国しています。留学生として入唐した逸勢でしたが、語学が苦手で十分に学べず、話さなくてもすむ琴と書を習っていたそうです。帰国後、逸勢は空海と嵯峨天皇に並び三筆のひとりに数えられています。
東寺講堂 ― 21体の仏像で表される立体曼荼羅の世界
密教第7祖の恵果は、インドで始まった『大日経』系の密教と『金剛頂経』系の密教を中国で統合し、深めた人といわれています。空海が入唐する以前、善無畏(ぜんむい)訳の『虚空蔵求聞持法』や『大日経』は奈良時代にすでに日本に伝来していました。しかし『金剛頂経』はその触り程度しか伝わっていなかったそうです。空海は恵果から相承した密教をさらに独自に体系化し、日本の真言密教として大成したといわれています。空海の帰国後の事績はたくさんありますが、留学時代のように何事もトントン拍子というわけにはいかなかったようです。
空海は帰国後すぐの大同元年(806)10月22日付で大宰府から朝廷に向けて『御請来目録(ごしょうらいもくろく)』を進献しています。『御請来目録』は空海が唐から持ち帰った膨大な経典や論書、曼荼羅や法具などを記録した報告書で、急いで提出したものの都からは何の音沙汰もありませんでした。この年、すでに桓武天皇は崩御し、平城天皇が即位していました。空海は入京を許されず、大宰府の観世音寺に留まることを余儀なくされたのでした。それから3年半ほど経った大同4年(809)7月、和泉の国司宛てに、空海を入京せしめる官符が出され、空海は和気氏の私寺であった高雄山寺に入ることを命じられました。今の神護寺です。
この3ヵ月ほど前に、平城天皇は健康上の理由により嵯峨天皇に譲位していました。空海はそれ以前に大宰府を出て和泉に移り、一説に槙尾山寺にいたとされています。空海の入京については、唐文化を愛する嵯峨天皇が空海に興味を示したからとも、先に高雄山寺に入っていた最澄の働きかけがあったからともいわれています。最澄は空海から朝廷に送られた『御請来目録』をいち早く書写しており、その充実した内容をみて強い関心を示したようです。自分が唐で受法した密教が十分ではなかったと気づき、空海から学ぼうとして高雄山寺に呼んだのではとも考えられています。現在東寺に所蔵される『御請来目録』は最澄が写したものです。
高雄山寺に入った空海はさっそく最澄から経典の借覧を求められ、ここに2人の交流が始まります。まもなく嵯峨天皇からも大舎人の山背豊継(やましろのとよつぐ)経由で屏風に『世説』を書くように命じられ、以降、空海と天皇は書や漢詩を通じて親交を重ねていったとみられています。大同5年(810)には薬子の乱が起こり、嵯峨天皇が乱を制したあと、空海は高雄山寺で国家鎮護のための密教修法を営んだといわれています。『性霊集』巻第4には、空海による「国家の奉為に修法せんと請う表」が収められています。けれども天皇がこの修法に関心を示した形跡はほかには残されていません。
また弘仁2-3年(811-812)には、空海は乙訓寺に移され、別当として寺の修繕を命じられています。翌弘仁3年(812)10月には最澄も弟子の光定とともに乙訓寺に訪れて1泊し、密教について語り合い、空海から潅頂受法を約束されました。そしてその翌月の11月、空海は高雄山寺で最澄とその弟子、寺の檀越である和気真綱、仲世らに金剛界潅頂を授け、さらに12月には最澄をはじめ約190人の僧俗に対し、胎蔵潅頂を授けました。こうして師弟関係を結んだ空海と最澄でしたが、このあと次第に2人の溝が深まっていきます。
2人の訣別が決定的となったのは、『理趣釈経』の借覧を巡り、空海が断ったことによるとも、最澄の愛弟子であった泰範(たいはん)が空海のもとに留まり、真言密教に方向転換したためともいわれています。しかし、法華一乗と密教は融通し一致するものと捉える最澄の立場と、密教はすべての顕教を包摂するものと捉える空海の立場はもともと相容れるものではありませんでした。こうして約7年つづいた2人の交流は完全に途絶えます。
そしてこの訣別を契機としてか、その後空海と最澄はそれぞれの教えを全国に宣布する行動に出ています。弘仁6年(815)、空海は立教開宗を宣言する『勧縁疏(かんえんしょ)』を著し、東大寺や大安寺をはじめ、甲斐、武蔵、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、常陸などの東国方面や、筑紫などの西国方面に弟子を派遣して密教経典の書写を勧めました。またそのころ空海は『弁顕密二教論』を撰述し、密教と顕教の優劣を説いています。
その翌年の弘仁7年(816)、空海は修禅の道場として、また自らの入定(にゅうじょう)の地として高野山の開創を嵯峨天皇に願い、勅許を得ています。前年、密教宣布の行動に出た空海は、一転して深山幽谷に籠り修行に専念する姿勢を見せたのです。空海は良岑安世(よしみねやすよ)に贈った詩のなかで、「新しい教えが衆生に受け容れられるにはまだ機が熟していない。進退は天命に任せ、時世を見守る」という意味のことを述べています。良岑安世は「上るにも下るにも困難な山奥になんで籠るのか」と返していました。
また弘仁9年(818)に空海が初めて高野山に上り冬を過ごしたとき、時の東宮大夫から蘇灯(提灯?)と皮衣を贈られ、空海はそれに対する礼状で謝辞を延べ、「密教を広めるためにこれからも両相との知遇に頼らせていただきたい。一緒に力を合わせ、願わくば早く機が到来して密教流布の願いを果たしたい」と抱負を述べています。「両相」のひとりは当時東宮大夫であった藤原三守(ふじわらのただもり・みもり)と、もうひとりは藤原冬嗣か良岑安世ではないかとみられています。良岑安世は桓武天皇の皇子で臣籍に下った人であり、冬嗣の同母弟でした。また藤原三守は冬嗣の室・藤原美都子の弟にあたり、嵯峨天皇の側近中の側近でした。彼らは嵯峨天皇をとり巻く太政官の高官として最澄や空海を支えていました。
弘仁12年(821)、高野山の伽藍建立と平行して、空海は讃岐国の満濃池(まんのういけ)修築別当に任じられます。工事はその前年から始まっていましたが、人手不足により進展は困難を極め、讃岐国司が朝廷に訴えて空海を工事責任者として迎えたのでした。空海はこの事業をたった3ヵ月足らずで成し遂げています。故郷の讃岐でも空海の人望は厚く、また技術力をもつ渡来系の人々との幅広いネットワークがあったともいわれています。
弘仁14年(823)、嵯峨天皇は造営中の東寺を空海に給預すると、淳和天皇に譲位しました。以降、真言密教は淳和天皇の庇護をうけて大いに隆盛します。同年に官符が下され、真言宗の僧侶50名を常住させ、国家鎮護のための真言密教の根本道場とすることが定められました。翌年の天長元年(824)、空海は造東寺別当に補せられ、伽藍の建立に着手しました。
嵯峨天皇と空海に親交があったことはよくいわれていますが、天皇が公的な立場で真言密教を厚遇したことはほとんどありませんでした。また嵯峨天皇が最澄を冷遇したこともなく、むしろ桓武朝、嵯峨朝と引き続き高級官僚であった藤原冬嗣や良岑安世、藤原三守らを介して関係は緊密でした。最澄が大乗戒檀の設立を願い、南都から猛反発を受けたときには、天皇は中立を貫きましたが、弘仁13年(822)6月4日の最澄遷化に及んでその1週間後には認めています。また最澄の入滅を嘆き「澄上人を哭す」の詩も贈られました。空海に東寺を任せたのはその翌年です。
今、東寺の伽藍は南大門と北大門を結ぶ一直線上に南から金堂、講堂、食堂(じきどう)が建ち並んでいます。また境内東南には五重塔が、西南には潅頂院が建っています。創建当初の堂宇は残っていませんが、再建された建物の規模や位置はほぼそのままだそうです。そのほか境内には大小50余棟あまりの堂塔伽藍があります。けれども空海が東寺を賜った当初は金堂とわずかな僧房しかできていなかったそうです。空海は天長2年(825)から講堂の建立を始めました。
現在の金堂は慶長8年(1603)に豊臣秀頼の寄進によって再建されたもので、入母屋造、本瓦葺きの屋根に裳階がついた美しくも堂々たる建物です。金堂内部には本尊の薬師如来坐像、脇侍の日光菩薩・月光菩薩立像が安置されています。桃山時代から東寺大仏師を務めた康正法印らによって制作されたといわれ、薬師如来坐像は台座の下を12神将が支えるという奈良時代の様式が踏襲されています。像高は約2.9m、光背と台座を合わせると10mにもなる巨像です。
金堂の北に建つ講堂は空海がもっとも力を注いだ建物だといわれています。しかし完成したのは空海入定後の承和6年(839)とされています。現在の講堂は延徳3年(1491)に再建されたもので、入母屋造、本瓦葺きの巨大伽藍ですが、純和様でやさしい印象があります。ところが堂内に一歩足を踏み入れると、香が焚きしめられた重厚な空間に、独特な配置で居並ぶ仏像群を目にして暫く圧倒されます。
幅24m、奥行6.8mもの巨大な須弥壇の中央に、大日如来を中心とした五智如来、そしてその両側に五大明王と五大菩薩が鎮座し、さらに外側に帝釈天と梵天、四天王が配され、合計21体の仏像が安置されています。これは空海の説く密教の世界を立体曼荼羅(羯磨(かつま)曼荼羅)で表現したものといわれています。文明8年(1486)の火災で、五智如来と金剛波羅蜜(こんごうはらみつ)菩薩の6体が焼け、室町時代に造り直されましたが、残りの15体は平安時代の承和6年(839)に造られたときの仏像(国宝)です。このうち個人的には髪を束ねて顔の左に垂らす辯髪(べんぱつ)スタイルの不動明王が気に入っています。
密教とは秘密仏教のことをいい、この秘密とは「すべての人々に公開されているが、悟りに達していない人々にとってはいまだ明らかでない」という意味だそうです。その悟りの世界の本尊である大日如来は、全宇宙の根源であり、全宇宙の生命の働きそのものを指して「法身」と呼ばれ、その働きは自由自在で障りがなく、宇宙に遍く満ちており、現象世界のあらゆる存在の根源となっているのだそうです。また法身はもともとひとつなので、その働きにより現象世界に現れ、互いにつながり合う個々の存在も、実は法身と同一で平等といわれています。そのことを視覚的にわかりやすく表現したものが曼荼羅らしいのですが、わかりやすくはないと思います…。
天長3年(826)、空海は五重塔の建立に着手します。しかし費用や人手不足により事業は進まず、完成したのは空海入定から50年近く経った元慶7年(883)頃とされています。天長4年(827)に淳和天皇が病に罹り、占うと、五重塔の材木として伏見稲荷神社の木を伐採したことによる稲荷神の祟りと出ました。そこで東寺の本尊である薬師如来に病気平癒を祈願し、稲荷神社に従五位下の神階を贈って謝罪したところ、天皇の病は治ったそうです。伏見稲荷大社は東寺の鎮守社になっており、稲荷祭の還幸祭では現在も東寺の僧侶によって神輿に「神供」が授けられます。
五重塔はこれまでに落雷などで4度焼け、現在の塔は寛永21年(1644)、徳川家光の寄進により再建されたものです。五重塔の層は下からそれぞれ「地・水・火・風・空」に対応し、初層内部は、大日如来に見立てた心柱の周囲に4体の如来と8体の菩薩が安置されています。これも立体曼荼羅のようです。特別公開時に拝観したところ、側柱には八大龍王、壁面には真言八祖像、長押や天井には草花文様や幾何学文様が描かれていました。
天長5年(828)、空海は誰でも無料で勉学できる私立総合大学として種芸種智院(しゅげいしゅちいん)の創設を謳いあげ、趣意に賛同した藤原三守によって土地と建物が寄進されました。しかし設立・運営については定かではなく、空海入定後の承和14年(847)に土地は売却されていました。天長7年(830)頃に空海は『秘密曼荼羅十住心論』10巻とその要約書『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』3巻を著した後、病を患い高野山に籠りがちになります。
承和2年(835)1月8日から7日間、空海は宮中の真言院で初めての後七日御修法(ごしちにちみしほ)を修しました。後七日御修法は、玉体(天皇)安穏、国家鎮護、五穀豊穣を祈る修法で、現在は東寺潅頂院で行われています。皇室から勅使が送られ、大阿闍梨と15人の僧と承仕だけで行われる秘儀です。これを実現させることは空海存命中の念願だったらしく、今も受け継がれています。その後の1月22日、真言宗の年分度者を3名とする申請が認められ、2月には高野山金剛峯寺が定額寺に認定されて、教団の基盤は盤石なものとなりました。そして3月21日、62歳の空海は高野山で入定します。
入定は永遠の瞑想に入ることを意味し、今も空海は生身(しょうじん)で衆生済度を続けていると信じられています。