神護寺
(じんごじ)風光明媚な清滝川の渓谷を望み、高雄山の中腹に大伽藍をいただく神護寺。背後に愛宕山がそびえ、山々に囲まれた高雄の地は遥か昔から信仰の地でした。和気清麻呂(わけのきよまろ)の私寺であった高雄山寺は、のちに平安仏教の祖ともいえる最澄と空海を迎え、国家鎮護を祈る神護寺となりました。
楼門
山号・寺号 | 高雄山 神護寺(高野山真言宗) |
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住所 | 京都市右京区梅ヶ畑高雄町5 |
電話 | 075-861-1769 |
アクセス |
JRバス高雄・京北線 JR京都駅から「栂ノ尾」「周山」行「高雄」下車徒歩約20分 市バス 四条烏丸から8系統「高雄」下車徒歩約20分 |
拝観時間 | 9:00~16:00 |
拝観料 | 大人(中学生以上)1,000円 小学生500円 30名以上の団体:大人800円 中高生600円 小学生400円 障がい者の方:中学生以上500円 小学生400円 特別拝観・特別御開帳については公式Webサイトを参照 |
公式サイト | http://www.jingoji.or.jp/ |
高雄山寺を建てた和気清麻呂(わけのきよまろ)のこと
嵯峨の北方の梅ヶ畑と呼ばれる山深い地域には、神護寺(高尾)、高山寺(栂尾)、西明寺(槙尾)があり、三尾(さんび)として古くから紅葉の名所で知られています。
「高雄」バス停から清滝川(きよたきがわ)に架かる高雄橋を渡って300段余りの石段を登ると神護寺の楼門が見えてきます。背後にそびえる愛宕山(標高924m)は、古くから修験者の聖地として崇められ、大宝年間には越前の泰澄(たいちょう)や役小角など、修験道の行者によって峰々に草庵が建てられていました。その愛宕山系に、天応元年(781)、光仁天皇の勅により和気清麻呂と大安寺の慶俊(けいしゅん・きょうしゅん)が中国の五台山になぞらえて、白雲寺、月輪寺、高尾寺、日輪寺、伝法寺の五山を建てたといわれています、このうち高尾寺(高雄山寺)が和気氏の氏寺となり、平安時代に神護寺となりました。
高雄山の中腹に開かれた神護寺では、高低差のある境内に伽藍が建ち並び、山手を行くと和気清麻呂の墓所があり、さらに登ると神護寺を中興した文覚(もんがく)の墓があります。清麻呂は奈良時代末期から平安時代にかけて朝廷に仕えた官僚で、宇佐八幡神託事件で道鏡を失脚させ、平安遷都にも尽くしたといわれる人物です。今、その存在感は薄いですが、かつては十円札にも描かれていました。
備前国出身の和気清麻呂が初めて史書(『続日本紀』)に現れるのは、奈良に上京して、天平神護元年(765)に従六位上・勲六等を授けられた33歳のときです。3つ年上の姉、広虫は15歳で葛木連戸主(かつらぎのむらじへぬし)と結婚し、すでに後宮の女官(采女)として孝謙上皇に仕えていました。夫の没後は上皇の出家に従って尼となり、法均(ほうきん)と名乗ります。上皇の腹心とまでいわれた広虫は、そのころ清麻呂よりも官位が高かったのです。そんな姉の引き立てもあってか、清麻呂も天平神護2年(766)には従五位下に昇進し、封戸を賜るなどの好待遇も受けていました。
その3年後の神護景雲3年(769)に、宇佐八幡神託事件が起こります。藤原仲麻呂の乱後、孝謙上皇は重祚し、称徳天皇として復位していましたが、天皇は独身で子どもがなかったため、皇太子を誰にするか決めかね、周囲もそれに注目していました。ちょうどその頃、太宰主神(だざいのかんづかさ)であった中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が、豊前国の宇佐八幡から「道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるだろう」との神託を受け、これを聞いた称徳天皇はその真偽を確かめよと広虫に命じました。
道鏡は物部氏一族の弓削連(ゆげのむらじ)から出た法相宗の僧で、孝謙上皇が近江で病に倒れたとき、祈祷や看病をして病気を治したといわれています。以来上皇は道鏡を寵愛し、法王の地位まで授けましたが、道鏡はさらに皇位をも狙っていたようです。神託を受けたという中臣習宜阿曽麻呂も物部氏の一族で、おまけにそのころ太宰帥だった弓削清人(ゆげのきよひと)は道鏡の弟であったので「道鏡を天皇に」とは怪しすぎる神託でした。
称徳天皇の命を受けた広虫でしたが、宇佐まで出向くには体力がもたないという理由で、清麻呂が代わりに宇佐八幡に参向することになりました。道鏡は自分にとってよい知らせを持って帰れば官職位階を重くしよう、と清麻呂に言い含めていたようです。しかし清麻呂は宇佐八幡神から「わが国は始まって以来、君臣の秩序は定まっている。臣下を君主にすることは未だかつてなかった。天つ日嗣には必ず皇緒を立てよ」との神託を称徳天皇に奏上しました。
道教はこれを聞いて怒り、和気清麻呂を因幡国員外介(いなばのくにのいんがいかん)に左遷することを決め、さらに称徳天皇は清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隈国へ流し、法均も還俗させ、別部広虫売(わけべのひろむしめ)と改名させて備後国へ流します。一方で、流罪となった清麻呂に封20戸を贈って支援していたのは藤原百川でした。
まもなく称徳天皇が崩御し、道教は失脚します。その後、藤原百川・永手らによって天智天皇系の光仁天皇が立てられると、清麻呂と広虫は流罪を解かれて都に戻されました。やがて桓武天皇の時代になり、清麻呂はその力量を発揮します。摂津大夫に任命されて淀川の整備などに当たりながら、天皇・皇后の側近として長岡京遷都にも尽力しました。藤原種継が暗殺され、長岡京造営が途中で頓挫すると、清麻呂は桓武天皇に山城国葛野郡宇太の地への遷都を提唱しています。その後、民部卿(みんぶきょう)兼造営大夫となり、菅野真道(すがのまみち)らとともに平安京造都に力を注ぎました。
また清麻呂は、故郷である備前・美作の国造を務めていたため、農民たちの苦労を聞き入れて、水難の多い川を越えなくてもいいよう、百姓たちが住む地域の近くに新しく郡衙を設置したり、租税の鉄の産出が減ったときには免除するなど、在地の民衆のためにも尽くしたといわれています。
延暦18年(799)、清麻呂は、新都建設半ばでこの世を去りましたが、姉の広虫も清麻呂が亡くなる1ヵ月前に他界しています。広虫は生前、夫とともに戦乱で親を亡くした孤児を養育したり、藤原仲麻呂の乱の際には斬刑となった375名の減刑を称徳天皇に願い出て、流刑に留めるなどしていました。
『続日本紀』の記述から概ね以上のような経緯が伝えられ、和気清麻呂は国家の忠臣といわれてきました。確かに清麻呂は道鏡の野望を阻止したのでしょうが、この宇佐八幡神託事件についてはいろいろと疑義も唱えられています。清麻呂の奏上「天つ日嗣には必ず皇緒を立てよ(天皇には皇族の人を立てよ)」は八幡神の神託ではなく、清麻呂の意志だったとか、藤原百川が清麻呂を利用したとか、道鏡事件そのものがでっちあげだったとか…。
『続日本紀』は桓武天皇の命により、菅原真道(すがのまみち)らによって編纂され、平安時代の延暦16年(797)に成立しています。起こったことが編年体で淡々と書かれた史書ですが、神護景雲3年(769)9月25日条はこの事件ついて述べられ、その冒頭で当時の称徳天皇の詔が引用されています。そしてこの称徳天皇の詔の部分には、じつはたくさんの謎が残されているのです。
とはいえ、和気清麻呂が平安京遷都に尽力したことは事実です。そして、それ以前の光仁朝の時代に慶俊とともに建てたのが高尾寺(高雄山寺・神護寺の前身)でした。また、清麻呂と八幡神との縁は清麻呂が建てたもうひとつの寺、神願寺にも引き継がれていくのです。
最澄、空海の活躍の舞台となった高雄山寺(神護寺)
宇佐八幡神は和気清麻呂への神託の際、伽藍をひとつ建て、万代安寧を祈願するよう告げたといわれています。清麻呂はこの神願を成し遂げることを誓い、延暦年間(782-806)に神願寺(じんがんじ)を建立しました。神願寺は『神皇正統記』によれば河内国にあったとされますが場所は明らかではありません。この神願寺と高雄山寺がのちに合併して神護寺となります。
清麻呂が死去すると、和気氏の氏寺である高雄山寺に墓所が造られました。清麻呂の子の広世(ひろよ)・真綱(まつな)・仲世(なかよ)が父の遺志を継ぎ、高雄山寺の発展と国家安寧に努めます。最澄を招いて法華経の講演を開いたり、唐から帰朝した空海と最澄を引き合わせるなど、高雄山寺は日本仏教が独自の道を歩み始める重要な舞台となったのです。
延暦4年(785)、最澄は東大寺で受戒したのち、比叡山に籠って天台法華経の研鑽を続け、延暦4年(788)に一乗止観院を建て自刻の薬師像を安置して天台宗を開きました。やがて最澄は内供奉に任じられて宮中に仕え、比叡山では一切経写経事業を推進し、延暦17年(798)からは毎年法華十講を修するなど順調に事績を重ねます。延暦21年(802)、和気広世と真綱は最澄を高雄山寺に招き、天台法華経講会を開きました。南都の高僧たちもこの法会に列席し、最澄の講演を聞いて一同に讃嘆したと伝えられています。
これを聞いた桓武天皇は天台の教えに並々ならぬ関心を寄せ、広世の推挙もあり、さっそく最澄を唐へ派遣することを決めます。最澄が還学生(げんがくしょう)として8ヵ月の入唐を終え、多くの仏典を携えて帰朝すると、天皇は広世に勅して、最澄の請来した天台の法文を南都七大寺で学ばせるため、図書寮に書写させました。さらに天皇は最澄が受法した密教に絶大な関心を示し、最澄により、興福寺の修円や大安寺の勤操(ごんそう)ら8人の僧に潅頂を授けさせます。こうして天台宗は桓武天皇と広世の強力な外護を受け、公認の宗派となりました。
最澄が唐へ渡った延暦23年(804)、空海も同じ遣唐使団の一員として唐へ留学していました。空海は留学生として在唐20年の義務を負っての入唐でしたが、青龍寺の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)と出会い、半年で正統密教のすべてを伝授され、留学を2年で切り上げて日本に戻りました。
空海は帰国後しばらく大宰府の観世音寺に留め置かれ、その後、和泉に移ったといわれています。大同4年(809)、即位してまもない嵯峨天皇は空海に入京を許し、高雄山寺への入寺を命じました。最澄は空海の『御請来目録』を見て、自ら伝えた密教の不十分さを知り、空海から数々の経典を借りて学ぼうとしたようです。空海も最澄から『摩訶止観(まかしかん)』を借りるなどして2人の交流が始まりました。 また嵯峨天皇と空海も、書や漢詩を通じて親交を重ねていったと考えられています。
寺伝によれば、空海は弘仁元年(810)、薬子の変による混乱から、国家鎮護のための密教修法を高雄山寺で営んだといわれています。また、弘仁3年(812)11月15日には、最澄、真綱、仲世らに金剛界灌頂を授け、その約1ヵ月後には、最澄ほか僧俗190人ほどの入壇者に対して胎蔵界灌頂を授法しています。さらに翌年3月には最澄の弟子ら19名にも金剛界潅頂を授け、わが国における真言密教の基礎を築いていきました。
神護寺に伝わる「灌頂歴名(かんじょうれきみょう)」には高雄山寺で灌頂を授けた人々の名前が空海の自筆で記されています。写真でしか見たことがないのですが、これは三筆のひとりと謳われた空海の筆とは思えないほどの乱筆で、走り書きされています。また間違った箇所がぐちゃっと墨で塗りつぶされていて、メモのつもりだったのでしょうか。今では国宝です。
空海から両部潅頂を受け、弟子の礼をとった最澄でしたが、弘仁7年(816)以降、両者の交流は途絶えました。その理由について、最澄が『理趣釈経』の借覧を求めたのに対し、空海が拒絶したため、とか、最澄の弟子であった泰範が空海のもとで真言密教に転じたため、等々諸説あります。しかしもともと密教の教理に対する2人の立場はかけ離れていました。
自ら率いる天台宗に、止観業(法華一乗)と遮那業(しゃなごう・密教)の専攻を立て、密教経典の書写と、伝法潅頂の受法を急ぐ最澄に対し、空海は「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答うる書」(『性霊集』巻第十)とよばれる手紙で、真理は物質的なものに求めるのではなく、修行の実践により心で悟るものだと懇々と説いています。しかし最澄が比叡山を出て修行に専念することは現実的に無理であり、密教に対する根本的な立場も異なっていました。最澄は、天台宗の学科として、遮那業の体系を早く整えたいと願っていたようですが、空海からの授法を諦めるしかなかったのでしょう。
天長元年(824)、和気真綱と仲世は、父の清麻呂が建立した神願寺と高雄山寺を合併させて「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ・通称神護寺)」とすることを淳和天皇に願い出ます。こうしてそれまで和気氏の私寺であった高雄山寺は定額寺に格上げされ「神護寺」となりました。なお、神願寺・神護寺の「神」の字はともに宇佐八幡神を意味するそうです。真綱は、桓武天皇のもとでは兄の広世とともに最澄を支えましたが、淳和天皇のもとでは弟の仲世とともに空海を外護し、高雄山寺をそっくり空海に預けています。
ちなみに和気氏が八幡神と関係が深かったように、空海も八幡神と縁が深かったようです。かつて神護寺には、八幡神が空海を描き、空海が八幡神を描いたとされる「互いの御影」と呼ばれる図像が安置されていたと伝えられています。また東寺にも空海が彫ったとされる「八幡三神像」が祀られています。
神護寺の金堂は境内の高台に建っています。昭和10年の再建で、建物は新しいのですが、須弥壇中央に安置される本尊の薬師如来立像(国宝)は、河内の神願寺から伝わったものといわれています。カヤ材の一木造りでどっしりと肉付きがよく、鋭く精悍な面持ちで、頭部の螺髪(らほつ)は奈良の大仏様よりさらに強くあたったパンチパーマのようでした。製作時期は平安初頭とみられていますが、奈良時代の特徴がよく残されているそうです。
空海のあと、神護寺を託されたのが弟子の真済(しんぜい)です。彼は空海の甥の真然(しんぜん)とともに入唐を試みましたが、船が難破し、筏で23日間漂流し、30人余りの同乗者のうち真済と真然だけが餓死せず生き残ったといわれています(『日本三大実録』)。真済は神護寺に宝塔院を建立し、五大虚空蔵菩薩坐像を造らせ本尊として祀りました。五大虚空蔵菩薩は密教の神々が菩薩に化身したものとされ、現在は多宝塔に安置されています。
江戸時代に板倉勝重が再建した鐘楼の中には「天下の三名鐘」のひとつに数えられる梵鐘があります(他の2つは平等院、園城寺の鐘)。真済が亡くなった後、空海の弟子であった禅林寺(のちの永観堂)の真紹(しんしょう)が神護寺の梵鐘の改鋳を発願しました。志半ばで真紹が亡くなると、清麻呂の子孫の和気彜範(つねのり)が遺志を継いで檀越となり、貞観17年(875年)に梵鐘を鋳造させています。
鐘銘に記される序詞は文章博士であった橘広相(たちばなのひろみ)がつくり、後に続く八韻の銘文は、参議であった菅原是善(道真の父)がつくり、これを図書頭で歌人でもあった藤原敏行が書いたことから当時を代表する3人の文化人が関わったとして「三絶之鐘」と呼ばれています。残念ながら非公開です。
後白河院と頼朝の協力を仰いだ文覚
こうして隆盛した神護寺も平安時代後期には荒れ果て、住持する僧もなかったそうです。それを中興したのが文覚でした。摂津源氏の武士団・渡辺党出身の文覚は、俗名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、北面の武士として鳥羽天皇の皇女・統子内親王(むねこないしんのう)に仕えていましたが、19歳で出家、真言僧となったといわれています。『源平盛衰記』によれば、人妻に恋をしてその夫を殺そうとしたところ、誤って妻を殺してしまったことが出家の原因とされています。しかしこれは伝承の域を出ないとされています。
空海を崇拝していた文覚は、各地で凄まじい荒行を重ねた末に神護寺の再興を決意しました。仁安3年(1168)から私力で諸堂を建立し、承安3年(1173)にさらなる神護寺復興の勧進のため、後白河院の住む法住寺殿を訪れて荘園の寄進を迫っています。しかし叶わなかったため、文覚は悪態をつき、法皇にも暴言を吐いて伊豆へ流されてしまいます。その伊豆で、同じく配流の身であった源頼朝と出会い、平家打倒を勧めたところ頼朝が挙兵したという有名ないきさつがあります。
文覚が赦免された治承2年(1178)のころ、後白河院と平清盛の関係は悪化の一途をたどっていました。平家を討つため法皇と頼朝の間で文覚は工作活動に奔走し、頼朝のために祈祷も行ったといわれています。平家打倒に貢献した文覚に対し、頼朝は神護寺へ領地を寄進し、後白河院も根本六荘と呼ばれる広大な荘園群を神護寺領として寄進しました。なお神護寺には「神護寺三像」と呼ばれる肖像画「伝・源頼朝像」「伝・平重盛像」「伝・藤原光能像」が伝えられています。これらが本当は誰を描いたものかは不詳で、あくまで「伝」となっています。
神護寺に伝わる『文覚四十五箇条起請文』は、文覚が神護寺経営の制規をまとめたもので、文治元年(1185)正月に法皇の御手印を受け、巻末には法皇による宸翰も添えられています。文覚は境内に仙洞院を建て、文治6年(1190)に後白河法皇の高雄御幸を仰いでいます。
こうして神護寺復興を見事に果たした文覚は、東寺の再興にも尽力しました。しかし、寺領の荘園をめぐって文覚の周囲は紛争も多く、後白河院と頼朝が没したあと、立場を失った文覚は佐渡へ流罪となります。赦免後は鎌倉幕府と対立する後鳥羽院によって、またも対馬に流罪となり、建仁3年(1203)対馬へ向かう途中の鎮西で亡くなっています。高雄山の山上には文覚の墓所があります。
なお、文覚に仕え、行動をともにした弟子の上覚(じょうかく)は、明恵(みょうえ)の叔父にあたります。明恵は9歳のときに上覚を頼り、神護寺に入って文覚につきましたが、のちに文覚を流罪に処した後鳥羽院から高山寺を賜るのです。