下鴨神社
(しもがもじんじゃ)その2もうひとつの丹塗矢伝承と活玉依姫(いくたまよりひめ)
別雷命の父、天目一箇命(天御影命)は、神武天皇前代の重要な神さまなのに、史書ではあまり触れられません。しかし、歴史の重大な局面では神託を通じて語られているようなのです。その際の神の名のひとつが「天事代虚事代玉籖入彦厳之事代主神(あめにことしろそらにことしろ たまくしいりひこ いつのことしろぬしのかみ)」と思われ、神功皇后紀に審神者(さにわ)や占いを通じて現れます。皇后に「吾 (あ)を御心(みこころ)長田国(ながたのくに)に祀れ」と教えたので、神戸の長田神社に祀られたと伝えられます。祀ったのは山背根子の娘、葉山媛の妹の長媛で、山代国造の系譜によれば、天津彦根命・天目一箇命(天御影命)の子孫です。
『旧事紀』「国造本紀」では、山代国造の祖は天目一箇命とされ、『新撰姓氏録』でも、山背忌寸の祖は「天都比古祢命子天麻比止都祢命之後也(あまつひこねのこ、あめのまひとつねのみことのあとなり)」とされています。山代国造は三上祝氏とも同族です。また、始祖や上祖の次に祖が書かれる場合は、そこが氏族のキーとなる分岐点を意味します(兄弟が別の氏族に分かれる)。そしてこの天目一箇命(たぶん天事代虚事代玉籖入彦厳之事代主神)と玉依日売命と建角身命の関係を表していると思われるのが三輪氏の系図です。
この神は三輪氏系の系図(大神朝臣本系牒略、三輪高宮家系など)にだけ現れ「天事代玉籖入彦命(あめのことしろたまくしいりひこ)または、天事代主籖入彦命」として、都美波八重事代主命(つみはやえことしろぬし)の子に位置づけられています。「天事代虚事代玉籖入彦厳之事代主神」を短縮した名前になっているのです。一方、八重事代主命は大己貴神(おおなむち)の子とされ、国譲りを承服した神と伝えられています。
この八重事代主と天事代玉籖入彦は、神社や史書でも重ね合わされているのか1柱の事代主とみられることが多く、正史には、天事代玉籖入彦(天事代虚事代玉籖入彦厳之事代主神)としては神功皇后紀までは現れません。しかし「天」を冠し、山代国造などの遠祖にあたる天神出身の事代主が三輪氏・葛城の賀茂氏へと直接つながる神さまとみられ、無視されてよい神さまではないようなのです。
このことに関連して、「山城国風土記」の丹塗矢伝承とよく似た説話が『古事記』に伝えられ、そこでは神武天皇の正妃の出自が述べられます。賀茂の神の核心部分と思われるものの、三輪氏の系図に照らすと伝承の一部が省かれたり混同されています。異伝を載せる『書紀』も同様で、それを正そうとしてさらに混乱したのが『旧事紀』のように思えるのです。あくまで基準は三輪氏の系譜ですが。そしてこの話は、混乱したまま、崇神朝の時代の三輪氏・賀茂朝臣の祖、オオタタネコの出自を述べる説話へと続きます。まず、神武天皇が正妃を娶った話として『古事記』の該当部分を要約すると…。
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ヤマトに来た神武天皇は、美人を娶って正妃にしようとした。そこで大久米命(おおくめのみこと)が神の御子を推薦した。というのは。三嶋湟咋(みしまみぞくい)の娘の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)は容姿端麗で、見惚れた三輪の大物主神(おおものぬし)は、その美人が用を足しているとき丹塗矢に化けて溝を流れ、美人のホト(女陰)を突いた。美人は驚き、慌てふためきながら丹塗矢を取り、床へ置こうとすると、矢は忽ち麗しい男性となった。大物主神と勢夜陀多良比売は結婚し、生まれた娘を富登多多良伊須気余理比売(ほとたたらいすけよりひめ)といった。のちにホトを嫌って比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と改名した。大久米命が2人をとりもって神武天皇は伊須気余理比売(いすけよりひめ)を正妃とした。
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またこの説話は『日本書紀』によれば、事代主神が三嶋溝橛耳神(みしまみぞくいみみのかみ)の娘・玉櫛媛(たまくしひめ)を娶って、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)が神武天皇の正妃となったとされています。なお、神代紀第8段の一書(あるふみ)では、事代主神は八尋熊鰐(やひろわに)になって三嶋の溝樴姫(みぞくいひめ)、またの名、玉櫛姫に通った、とも記されます。
一方『旧事紀』「地祇本紀」では、都味歯八重事代主(つみはやえことしろぬし)が八尋熊鰐となって三嶋溝杭の娘である活玉依姫(いくたまよりひめ)と結婚し、兄、天日方奇日方命(あまひかたくしひかた)、妹、姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)が生まれ、姫蹈鞴五十鈴姫は神武天皇の后となったと書かれ、その次の妹に、五十鈴依姫(いすずよりひめ)がいるとされています。
記・紀・旧事紀には共通して三嶋溝咋(みしまみぞくい)が登場します。その娘の名は、記・紀・旧事紀ですべて異なるものの、三嶋溝咋はいずれも神武天皇の外祖父として語られることから、勢夜陀多良比売、玉櫛媛、活玉依姫を同神とする説があります。筆者も初めはそうかと思いましたが、一部同意できなくなりました(後述)。なお『旧事紀』は活玉依姫に言及していますが、『古事記』と『書紀』は、この段階で活玉依姫には何も触れていません。活玉依姫が両方の史書にはじめて現れるのは崇神朝の時代の記事で、以下は『書紀』からの部分要約です。
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崇神天皇の御世に疫病で人民の半数以上が亡くなり、国が荒れたとき、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめ)に大物主神が憑って「国が治まらないのは私の意志だ。わが子、大田田根子命(おおたたねこ)に我を祀らせれば直ちに国は治まるであろう」と告げた。その後、倭迹迹日百襲姫命・穂積臣の遠祖である大水口宿禰・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の3人が同じ夢をみて「大田田根子に大物主神を祭らせ、市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を祭らせれば天下泰平になると、夢に現れた貴人から告げられました」と奏上した。
そこで茅渟県(ちぬあがた)の陶邑(すえむら・堺市泉北ニュータウンのあたり)から大田田根子が探し出され、「誰の子か」と問われると、大田田根子は「私の父は大物主神、母は陶津耳(すえつみみ)の娘の活玉依媛(いくたまよりひめ)です」と答えた。また、奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)の娘であるともいう。…以下略。
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この『書紀』の記事からわかる関係は、●活玉依媛は陶津耳の娘であること。また陶津耳は奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかた たけちぬつみ)とも呼ばれること。●オオタタネコは活玉依媛と大物主の子とされること。です。これについて伴信友は、建角身(たけつぬみ)と武茅渟祇(たけちぬつみ)、玉依日売と活玉依姫は、よみが似ているけれども、天神と地祇を混同すべきではないと警告しています。でも、他の伝承と符号してくるので無視できないのです。
『古事記』もほぼ同様の伝承を載せ、河内の美奴村(みののむら)から探し出された意富多多泥古(おおたたねこ)は、大物主神が陶津耳(すえつみみ)の娘である活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶って生まれた、櫛御方命(くしみかた)の子の飯肩巣見命(いひかたすみ)の子の建甕槌命(たけみかつち)の子とされています(古事記で建御名方と対決した建御雷神とは一応書き分けられている?)。
また『旧事紀』「地祇本紀」には、大己貴神が天羽車(あまのはぐるま)である大鷲に乗って茅渟県(ちぬあがた)に降り、大陶祇(おおすえつみ)の娘の活玉依姫を妻としたとも書かれ、前述の「地祇本紀」系譜の段の、都味歯八重事代主神が三嶋溝咋の娘である活玉依姫に通った、とする説話とは異なる伝承も載せられています。そして、オオタタネコの直接の父は、活玉依姫の子である天日方奇日方命から数えて5世孫にあたる建飯賀田須命(たけいいがたす)、母は鴨部美良姫命(かもべみらひめ)とされています。
このあと、オオタタネコが大神神社の初代神主となり、大物主神を祀り、市磯長尾市が倭大国魂神を祀ったところ、やっと国が治まったようです。オオタタネコは「神君(みわぎみ)、鴨君の祖」とされ、オオタタネコの孫とされる大鴨積命(おおかもつみ)は鴨君の姓を賜って鴨神社を奉祭し、大鴨積命の弟にあたる大友主命(おおともぬし)は三輪君の姓を賜って大神神社(大物主)を奉祭したとされています。前者の鴨君の系統がいわゆる葛城の賀茂氏(賀茂朝臣)にあたります。
これに対し、オオタタネコの子孫とされる三輪氏系の人々が、これらにまつわる自家の伝承を系譜に示したのが先にあげた「大神朝臣本系牒略」や「三輪高宮家系」、豊後大神氏などの系図です。系譜や註記は系図により多少異なるものの、概ね共通していて、都美波八重事代主の別名が大物主神とされています。そして、都美波八重事代主と三嶋溝咋の娘、玉櫛媛との子に位置づけられるのが天事代主籖入彦で、陶津耳の娘、活玉依姫を妻として生まれた子が、天日方奇日方命、姫蹈鞴五十鈴姫、五十鈴依姫とされています(天日方奇日方命からオオタタネコまでは『旧事紀』とほぼ同じで、三輪君を賜姓された大友主命は大鴨積命の甥)。
つまり、これまでの推測に当てはめると、神武朝の正史には述べられない天事代玉籖入彦命(天目一箇命)が陶津耳の娘、活玉依姫を妻として、神武の皇后・姫蹈鞴五十鈴姫を世に出したことになります。言い換えれば、天目一箇命(天御影命・天櫛玉命・伊勢都彦命)と玉依日売の娘が姫蹈鞴五十鈴姫です。
ただし、この系図の註記には疑問があり、それは「天事代玉籖入彦命の母は三嶋杭耳の娘、玉櫛媛」とされ、天事代玉籖入彦命は、あたかも玉櫛媛を娶った都美波八重事代主の実子のような説明になっているところです。天事代玉籖入彦命が活玉依姫を娶って天日方奇日方が生まれた時点で、男系は地祇系から天神系に変わったことを意味するので、八重事代主を基準に考えると天事代玉籖入彦命は入婿です(または、八重事代主が外戚)。つまり、玉櫛媛は天事代玉籖入彦命の母ではなく、天事代玉籖入彦命の妻となった活玉依姫の母で、活玉依姫の父は都美波八重事代主。記・紀でまわりくどく書かれている陶津耳が、じつは都美波八重事代主なのです(陶津耳=建角身命=八重事代主神)。そして、このことは鴨県主が伝えてきたことでもあるのです。
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なおこの系図にもとづくと、『古事記』が神武段で語る大物主神(妻:勢夜陀多良比売)と、崇神段で語る大物主神(妻:活玉依毘売)は別神とみられます。ちなみに『書紀』は崇神紀で初めて大物主神を登場させていて、活玉依媛を娶ったのが大物主神であるといい、大物主神はその後、倭迹迹日百襲姫命と結ばれたようですが、「小蛇(こおろち)」となって御諸山(みもろやま・三輪山)に登っていったと記されています。
ところが、雄略朝の時代にも三諸岳(みもろのおか・三輪山)の神が登場し、そちらの神は「雷鳴を轟かせる大蛇」として書き分けられています。ある伝えでは大物主神といい、ある伝えでは菟田の墨坂の神であるという、とも書かれます。三輪山には大物主と呼ばれた蛇神さまが何匹かおられるようでややこしいですが、『古事記』が神武段で語る大物主はおそらく都美波八重事代主(妻:勢夜陀多良比売)。『書紀』崇神紀で、オオタタネコが父と呼んだ大物主(小蛇)は、活玉依姫と結婚した天事代玉籖入彦でしょう。この大物主・事代主コンビは、書紀一書では大己貴神が隠れたあとに高天原に帰順したとも書かれています。
小蛇も大蛇も大物主神とみられているようですが、2柱とも事代主でもあり、随所で入れ替わり、本当によく混同されています。どちらも霊力があり神託を受ける能力があったのでしょう。「事代」は神のお告げ(託宣)を伝えるという意味があります。「玉依姫」が固有の名前を指すのではなく「神が依り憑く」巫女的な女性の総称といわれることと同様、「事代主」も固有の名前ではないようです。大物主神の「モノ」にも同じような祭祀的な意味があるとも考えられています。
話を戻します。天目一箇命と玉依日売との長男である天日方奇日方命(あまひかたくしひかた)は、関係上、八重事代主神(建角身)の外孫にあたり、その子孫からオオタタネコが出て、そのまた子孫が三輪氏・葛城の賀茂氏に分かれます。天日方奇日方命は、櫛御方(くしみかた)、阿田都久志尼(あたつくしね)など多くの別名をもち、鴨王(かものおおきみ)、鴨主命(かもぬし)とも呼ばれていました。
これは、建角身の孫である別雷命が、外祖父の御名によって賀茂別雷命と呼ばれたように、建角身の孫である天日方奇日方が、外祖父の御名によって鴨王とか鴨主命と書かれたようにも思えるのです。天日方奇日方=別雷命? それとも単に兄弟? いずれにしても天御影命(天目一箇命)=天事代玉籖入彦なら、賀茂朝臣と鴨県主は別の氏族といっても同祖といえそうです。下社社家、鴨脚家に伝わる『姓氏録』逸文には、鴨県主本系と賀茂朝臣本系の二流が書き記されていました。『鴨県主家伝』で、河﨑惣社十神のなかになぜか大田田根霊神を含めているのも意味深です。
建角身 = 八重事代主 = 一言主?
鴨俊永聞書とされる「倡謌要秘(しょうがようひ)」には次のように書かれています。
「今御祖の宮にをいてハ 宅神ハ 河合にます、叉 事代主ハ 當東の神殿の御父君におはせハ、曾て外ならぬかな、いざ諸ともにこそきこしめすらめ(守りまつらめ)」。
前述のとおり『鴨県主家伝』によれば、河合神社はもとは玉依日売の実家側の神社で、『延喜式』神名帳に「鴨川合坐小宅神社(かものかわいにますおこそやけ)」と記されます。建角身は八咫烏の号を賜ったとされますが、『家伝』には小烏神これなりとも記され(八咫を憚ったとも)、河合社で小烏神が祀られていた伝えがあります(『百練抄』)。賀茂社の社家は早くに諸流に分かれ、河合神社がいつ下鴨神社の摂社となったのか、また、鴨家のどの系統によって継がれたのか内部事情はよくわかりません。ただ、河合神社と下鴨神社の祭神、タマヨリヒメは同じ神とされています。そして、下鴨神社の東本殿には玉依日売が祀られ、その父が事代主と書かれているのです。都美波八重事代主は鴨族の守護神として、鴨都波神社(かもつばじんじゃ)に祀られています。
また、俊永の子、俊春によって記されたとみられる「月並奉幣来意」には、「延喜の式ニ見へたる三百四座の内なる三井社、近代奉幣なし、任部御同躰の故にや任部へハ幣一捧奉り来れり…」と書かれていて、近世には建角身命の社に対して朝廷からの扱いが少々雑になっていたようです。任部(とべ)とは河合神社の任部社に祀られる八咫烏のことで、三井社の建角身と同躰と書かれています。
さらに「一言 御現存を申しなは御外戚なるの故也」とも書かれ、これは一言主(ひとことぬし)のことかもしれません。御外戚とは、鴨県主(天御影命・別雷命)からみての表現でしょう。俊永の「倡謌要秘」には、一言で国譲りを承服した事代主と一言主が同躰ともとれそうな記述があります。
一言主は「土佐国風土記」逸文に、「一説に、大穴六道尊(おおあなむじ)のみ子、味鉏高彦根尊(あじすきたかひこね)なりといへり」と書かれます。アジスキタカヒコネは事代主の異母兄弟にあたり、事代主と同神説もあります。
鴨都波神社で、八重事代主とともに味鉏高彦根尊の妹である下照姫が祀られるのがよく疑問視されますが、味鉏高彦根尊と八重事代主が同神ならそれも頷けます。また高鴨神社の祭神は阿遅志貴高日子根命(あじしきたかひこね)ですが、『三輪叢書』「大三輪鎮座次第」によれば、鴨神社(高鴨神社)の祭神は事代主命とされているのです。さらに、異なる家の系図において、事代主と味鉏高彦根の子孫が同じ、という例もあるので(上社ページ参照)、おそらく同神でしょう。ただし賀茂社ではアジスキタカヒコネとしては祀られてはいません。下鴨神社の本殿前には一言社、二言社、三言社があり、言社は江戸時代にできたともいわれますが、「御現存」と記されるので、一言主を祀る神社はそれ以前からあったのかもしれません。
国によって定められたような神の尊号は別として、1柱の神やひとりの人物が多くの別名をもつのは、付き合いの違うグループによって呼ばれるニックネームが異なるのと似ていると思います。栄えた家系は子孫を多く残し、その子孫は他氏との関わりのなかで方々に散るので、同祖でも祖先を違う名で呼ぶのは、電話やネットを使わない時代なら、ごく普通な気がするのです。また別に本名や幼名もあったと思います。多くの子孫や親戚筋は特徴の一面をとらえてさまざまに呼んだでしょう。そして、それぞれの子孫らにとって固有の氏神となり、土地の神(産土神)となってからは祭祀ももっと多様になったはずです。それぞれの神の名はそのご神徳を表しているので、複数の異名同神を合祀していると思われる神社もたくさんあります。
一言主は葛城一言主神社に祀られています。『書紀』には、雄略天皇と一緒に狩りをした神として書かれ、『古事記』には、雄略天皇が畏れて大御刀(おおみたち)や弓矢を献上した神と伝えられています。それから約3年半が過ぎたころ、雄略天皇が三諸岳(みもろのおか)の神を見たいと言い、少子部連蜾蠃(ちいさこべむらじすがる)が連れてきたのが大蛇の雷神で、菟田(うだ)の墨坂の神ともいう、と書かれています。菟田は宇陀であり、八咫烏は神武天皇を宇陀まで道案内したからなのか、宇陀市榛原には八咫烏神社があります。やはり宇陀の墨坂の神である大蛇は、建角身命の可能性大と思っています。
そして、「いざ諸ともにこそきこしめすらめ(守りまつらめ)」と書かれるように、玉依日売の父・建角身命も元祖鴨明神として、下社社家によって「河合社」の伝統が受け継がれ、大切に祀られてきたとみることができます。何より玉依日売は両家の要です。鴨県主の母系の先祖は玉依日売なのです。また、西埿土部(かわちのはつかしべ)の氏姓をもつ玉依日子の子孫らは、近世まで下社の大炊殿(おおいいどの)の預、神殿や河合社や御蔭宮などの小預となり、駈人として奉仕していたことも『拾箇條區別注進書』に記されています。
天御影命は饒速日命(にぎはやひ)?
ところで、神武天皇が東征で2度戦った長脛彦(ながすねひこ)には妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)がいて、饒速日命(ニギハヤヒ)の妻となり、宇摩志麻遅命(うましまじ)を産んでいます。『古事記』では、長脛彦は登美毘古(とみびこ)や、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)とも書かれ、三炊屋媛は、登美夜毘売(とみやびめ)とも呼ばれました。神武東征で長脛彦は義弟の饒速日命に討たれています。なお『旧事紀』では、神武東征は、宇摩志麻治命の時代になっており、宇摩志麻治命が伯父の長脛彦を討って神武に恭順したことになっています。
また物部氏本宗ともいわれる穂積臣氏の一族、亀井氏の「亀井家譜」には、宇摩志麻遅命の譜に「母登美御炊屋媛命飛鳥大神女」とあり、さらに饒速日の子孫を名乗る丹後宮津藩主本庄家の「本荘家譜」には汙麻斯麻尼足尼命の譜に「母飛鳥大神之女登美夜毘売」と記されているそうで、トミヤビメ(三炊屋媛)は、飛鳥大神ともよばれた事代主の娘とされています。つまりこれが本当なら、長脛彦も、登美夜毘売(とみやびめ)も、建角身の子ということになり、饒速日は建角身にとって娘婿にあたります。建角身命としては婿か外孫に息子を討たれた恰好で、しかも自分は神武に味方しているので、史実なら戦国時代さながらです。
一方、三輪氏系図の八重事代主神の子に置かれる天事代玉籖入彦命も、建角身命の娘婿にあたるので、天事代玉籖入彦命(天櫛玉命)と饒速日命は兄弟か同躰。饒速日命は久志玉比古神(くしたまひこのかみ)としても祀られるので同躰の可能性大と思っています。ただし饒速日の系譜はあいまいで、「因幡国伊福部臣古志」系図に照らすと、何代かにわたる人物が饒速日としてまとめられたかもしれず、ここではトミヤビメの夫の饒速日とみておきます。
そうすると、建角身の子、玉依日子は長脛彦と兄弟か同一人物、同じように玉依日売も三炊屋媛と姉妹か同一人物の可能性が出てきます。もっと兄弟姉妹がいたとも考えられますが。また彼女ら(玉依日売・三炊屋媛)の子が別雷神・天日方奇日方命・宇摩志麻遅命と思われますが、『旧事紀』「天神本紀」には、物部連らの祖・宇摩志麻治命と大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命は、ともに申食国政大夫として橿原宮に供奉したと記されています(やはり別雷神=天日方奇日方?)。
上社の賀茂氏久は「神山に 天の岩船こきよせて つなきとめしも 我君のため」と詠み、賀茂遠久は「久方の 天の岩船こきよせし 神代のうらや 今のみあれ野」と詠んでいました。これは何となく、饒速日命が河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降ったときに乗ってきた天磐船を連想させます。しかし伴信友は、賀茂の神と饒速日を結びつけるのは妄説と退けています。当事者はどっち?って話ですが。
一方、天日方奇日方命の子孫である三輪氏・鴨君(賀茂朝臣)も、饒速日命と玉依日売の血を受け継いでいることになります。系譜をみる限り、オオタタネコに至るまでにはさまざまな女系が入りますが、オオタタネコの母、鴨部美良姫(かもべみらひめ)は建角身命の子孫とも、鴨県主の娘ともいわれています。オオタタネコの子孫はそれぞれ三輪山と葛城に分かれて男系の祖先(饒速日)と女系の祖先(アジスキタカヒコネ=八重事代主=建角身)をともに祀ったのでしょう。オオタタネコに大物主神を祀らせる際に夢をみた3人のうち、大水口宿禰は饒速日の子孫です。先祖が子孫に夢告したという話かもしれません。
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なお、三輪氏の系譜によれば、神君(大三輪朝臣)の祖となった大友主命(おおともぬし)の母は大伴武日命(おおとものたけひ)の娘とされ、また、鴨君(賀茂朝臣)の祖となり、鴨神社(高鴨神社)を奉祭した大鴨積命の母は出雲鞍山祇姫(いずものくらやまつみひめ)とされています。大神神社の祭祀に早くから大伴氏が加わっているのは母系に関係があるのかも? 一方、出雲鞍山祇姫の出自は出雲に関係がありそうなこと以外よくわかりませんが、賀茂朝臣の祭祀に影響しているものと思われます。古代の日本は女系が重視されていました。
賀茂の総社といわれる高鴨神社の主祭神は阿遅志貴高日子根命(あじしきたかひこね・八重事代主・建角身)で、別名、迦毛大御神(かものおおみかみ)と呼ばれたことが古事記に書かれています。賀茂朝臣(鴨君)も三輪氏と同様、実質、天神系の血をひきますが、こちらはアジスキタカヒコネ(八重事代主)の血統が大事にされたようです。
これまでのことを総合すると、三輪山の大物主神(奥津磐座・小蛇)は、御蔭宮の天御影命といえそうです。鴨県主らの山代国での祭祀とは別に、奈良時代に下鴨に社殿が造営されたのは多分に国家政策的ですが、天智天皇の時代に日吉大社に三輪の神が勧請されたことにも発端がありそうです。その勧請に関わった祝部(はふりべ)氏は鴨県主と同族とみられ、のちには火雷神を祀る乙訓社の祭祀にも関わっています。
また三輪山には大己貴神と少彦名神が配祀されていますが、大神神社の社伝では、大己貴神(中津磐座)は第5代孝昭天皇の時代、少彦名神(辺津磐座)は第22代清寧天皇の時代に祀られたとされています。少彦名神の鎮座する辺津磐座が祭祀の中心だったらしく、私見では少彦名神は大物主神(小蛇)と同神とみています。
記・紀は崇神朝や垂仁朝のこととして記述していますが、三輪山の国家的な祭祀は考古学的にそれほど早くないとみられていて、5世紀ごろの清寧朝の時代に辺津磐座が大物主(少彦名)の祭祀場とされた可能性があると考えています。辺津磐座は禁足地とされた重要な祭庭なのに、少彦名神には神階授与の記録がありません。それに、大神神社の摂社・大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)の祭神は、大直禰子、少彦名命、活玉依姫命だからです。少彦名神の系譜については後述します。
一方、三輪山の大己貴神についても時代の変遷があったように思われるのです。大物主神や大己貴神は大国主の別名とされ、歴史的にも三輪の大物主神は大己貴神と呼ばれた経緯がありますが、大己貴神は少彦名神とともに国造りをしています。そして孝昭天皇の時代に祀られたという伝えからすると、大物主神の創祀伝承より随分前のことです。当初の祭祀には大賀茂氏があたったとされ、八重事代主を祀る鴨津波神社は大神神社の別宮とされることから、私見では、当初の大己貴神は八重事代主の可能性があるとみています。
大己貴神の「ナムチ」は、一説に土地の意味があるといわれますが、「大きな国を治めた主」や「大きな土地を治めた神」はほかにも存在したでしょう。また、天神系の神々によって祀られた伝承をもち、実際に天神系の出雲国造家によって奉祭されてきた出雲大社の大国主命は、三輪の大物主神と同躰の「倭大物主櫛甕玉命」で、おそらく饒速日命と推測しています(少彦名と一緒に国造りをしたのはたぶん建角身)。
ところで少彦名神が祀られた清寧朝のころ、鴨県主の系譜にも大きな変化がみられます。鴨県主がいつごろ山代に移ったのかについては諸説ありますが、神武東征後、鴨県主の外戚にあたる建角身命の直系子孫の一部と、鴨県主がべったり行動を供にしたとは考えにくい面があります。下社は上社と異なり、建角身系の摂社がほとんどを占め、建角身に関する伝承が数多く残っています。上社から下社が分立されるもっと以前に、すでに葛野主殿県主部や建角身系小集団による祭祀の基盤があったのかもしれません。それも蓼倉の里の三井社だけでなく、葛野郡や八瀬を含む広い範囲で。なので、時代によって祭神が変化した可能性は考えられますが、現在、下社や御蔭神社の祭神が建角身命と玉依日売とされるのは、ある意味、原初の姿に近いのでしょう。
下社分立が推定される天平18年(746)の頃は、聖武天皇は窮地にあったので、国家鎮護のために社殿造営が急がれたとみています。しかし、それ以前から山背国の都市計画が推進されていました。大和岩雄氏の説によれば、松尾大社、木島神社、下鴨神社、比叡山系の牛尾山山頂は一直線に並び、比叡山から昇る夏至の朝日が遥拝できると説かれます。
社殿の造営という点で本格的な動きが始まったのは大宝元年(701)の松尾大社の創建で、これには秦氏や藤原不比等が関わったことが伝えられています。また同じころに元糺(もとただす)と呼ばれる木島神社にも神祇官の中臣氏の関与がみられます。大宝令の施行後は、官幣を受けるような神社は国司の管理下に置かれていったので、一連の動きは国家プロジェクトであったでしょう。ただ、何もないところに社殿ができたわけではないようです。
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