清凉寺
(せいりょうじ)清凉寺の本堂には、奝然(ちょうねん)が請来した「生身の釈迦如来立像」が安置されています。釈迦37歳の生き姿を刻んだといわれる仏像です。清凉寺のあたりはかつて嵯峨天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)が築いた山荘「棲霞観(せいかかん)」の敷地でした。源融は『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルのひとりといわれています。
仁王門
山号・寺号 | 五台山(ごだいさん)清凉寺(浄土宗) |
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住所 | 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46 |
電話 | 075-861-0343 |
アクセス | JR嵯峨野線 嵯峨嵐山下車 徒歩約15分 市バス 28,91系統「嵯峨釈迦堂前」下車 11系統「嵯峨小学校前」下車 徒歩10分 京都バス 62,72,92,94系統「嵯峨釈迦堂前」下車 京福電車 嵐山線「嵐山」下車徒歩20分 |
拝観時間 | 9:00-16:00 4・5・10・11月は9:00-17:00 本尊開扉:毎月8日11:00以降と4・5・10・11月 |
拝観料 | 境内自由 本堂:一般400円 中高生300円 小学生200円(団体割引あり) 霊宝館特別公開4・5・10・11月 本堂・霊宝館共通券 一般700円 中高生500円 小学生300円 |
公式サイト | http://seiryoji.or.jp/ |
源融(みなもとのとおる)が住んだ棲霞観(せいかかん)
嵯峨天皇の12男である源融(みなもとのとおる)は、嵯峨天皇の離宮「嵯峨院」の南西に広大な山荘を営んでいました。それが棲霞観(せいかかん)で、その一部が後に清凉寺になったといわれています。当時、嵯峨野には嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)によって造営された檀林寺があり、皇女である有智子内親王(うちこないしんのう)の山荘もその近くにあったそうです。大変裕福だった源融は、鴨川沿いにも六条河原院を造営し、さらに別業として宇治院も建てました。宇治院はのちに平等院になりました。
嵯峨天皇はたくさんの子を設けたため、多くの皇子皇女に源氏姓を与えて臣籍に下らせました。源融もそのひとりですが、従一位まで昇ることができたのは、仁明天皇の猶子となり天皇の引き立てを得られたからだといわれています。しかし承和の変以降、政治の実権は藤原氏に移っていきます。貞観14年(872)、太政大臣・藤原良房が大病を患ったとき、清和天皇は、源融を左大臣に、藤原基経(ふじわらのもとつね)を右大臣に任命しましたが、政治の主導権はつねに基経にあったといわれています。
清和天皇は27歳で貞明親王(のちの陽成天皇)に譲位したのち、出家して水尾に隠棲されますが、元慶4年(880)8月に水尾に仏堂を建てるため、融の棲霞観に遷っています。ところがその年末に体調を崩し、円覚寺に遷って翌年正月7日に崩御。このとき太上天皇をお世話したとして棲霞観の融の家令・伴宿祢枝男(とものすくねのえだお)が従五位下に叙されています。
元慶8年(884)、暴君と呼ばれた陽成天皇の退位問題が起き、摂政・基経が時康親王(のちの光孝天皇)を推挙するのに対して、融は「いかがかは。近き皇胤(こういん)をたづねば、融らも侍るは」と皇位への意欲を述べました。しかし基経は「源氏に下って即位した例はない」と一蹴し、周りの者も基経に同調したそうです(その基経はのちに源定省を践祚させている)。その後、基経は関白に昇り詰め、融は風流の世界に遊ぶようになったといわれています。晩年、融は信仰にも目覚め、阿弥陀堂の建立を計画しますが、実現することなくこの世を去りました。
寛平7年(895)に源融が没した後、融の子の湛(たたう)と昇(のぼる)が棲霞観に仏堂を建て、一周忌に阿弥陀三尊を祀って棲霞寺(せいかじ)と改めました。現在、清凉寺の霊宝館には棲霞寺本尊の阿弥陀如来三尊像が安置されています。その中尊は源融の顔に似せて作らせたものと伝えられています。源融は『源氏物語』の光源氏のモデルのひとりともいわれていますが、確かに整った現代的な顔立ちの阿弥陀如来さまです。清凉寺境内には源融の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、融の墓と伝えられています。
奝然(ちょうねん)が請来した三国伝来の「生身の釈迦像」
清凉寺に伝えられる「生身(しょうじん)の釈迦如来立像」を日本にもたらしたのは奝然(ちょうねん)でした。秦氏出身の奝然は東大寺で三論宗を、石山寺で密教を学び、天禄3年(972)に同門の義蔵(ぎぞう)とともに壮大な誓いを立てました。「いつか必ず愛宕山の地に一大伽藍を建て、釈迦の教えを興隆しよう。そのために仏教の聖地である五台山へ行って文殊菩薩を礼拝し、そのあと天竺を巡礼しよう」。このようなことが記された「義蔵奝然結縁手印状」が、清凉寺の「生身の釈迦如来像」の胎内に納められていました。胎内からはほかにも多くの納入物が出ています。昭和28年のことでした。
平安時代の当時、傑出した僧でもない奝然に対し、入唐求法などというのは弘法大師や伝教大師のような希代の器のすることだといって冷笑する者もあったようです。けれども奝然はあきらめず、熱意が実って入宋を認められたのでした。ただし、当時は遣唐使が廃止された後だったため、渡航を希望する僧たちは、中国(台州)の商船が日本から戻るときに便乗しなければなりませんでした。日本を出発したとき奝然は46歳で、入宋の誓いを立ててからすでに10年あまりが過ぎていました。
慶滋保胤(よししげやすたね)が筆を取った「奝然上人入唐時為母修善願文」には、奝然の入宋への決意表明と、母の生前供養に対する願意が述べられています。それによれば、奝然は「自分は渡海して五台山で文殊菩薩を礼拝し、そのあと天竺に巡礼しようという志があります。命を懸けて成し遂げたいのです。名利には関心がない。もし願いが適って宋に行き、お前は誰だ、何しに来たと問われたなら、自分は日本国の無才無行の一羊僧です。求法のためでなく修行のために来たのです、と言いましょう。それなら日本の恥にはならないでしょう」などと、求法に否定的だった人々をも納得させるような奝然の強い意志が述べられています。
ただ奝然は、老いた母を残して渡海することには躊躇していたようです。これまで母の深い恩に報いていないのに、海を渡ればもう親孝行も出来ないかもしれない、と思い悩んだ末に母に相談すると、母は快く奝然の背中を押してくれたので、「わが母は人の世の母ではない、善縁の母なり」と感涙し、渡海前に母のための生前供養を修したのでした。
永観元年(983)8月1日、奝然は日本を出発し、18日間の航海で難なく台州に到着しています。渡航の決まった奝然には、東寺から長安の青龍寺に宛てた牒状と、延暦寺から天台山の国清寺に宛てた牒状が贈られていたそうです。一行には奝然の弟子の盛算(じょうさん)も加わっていましたが、奝然とともに誓いを立てた義蔵のことは記録にないようです。
詔命で入宋した奝然は、現地を旅行中どこでも厚いもてなしを受けました。まず天台山を礼拝し、さらに北上して新昌、越州、杭州をめぐり、その年の12月に泗州から都の汴京(べんけい・東京開封府)に入り、太宗(たいそう)皇帝に謁見しました。「宋史日本国伝」によれば、奝然は現地で藤原氏を名乗っていたそうです。太宗が日本のことを尋ねると、奝然は、日本には中国から伝わった五経の書や仏教の書がたくさんあり、国土は五穀がよく育ち、家畜には、水牛やロバ、羊があり、サイやゾウも多いと答えています(酔っ払ってたか?)。
また、奝然が献上した「王年代記」には、天御中主(あめのみなかぬし)から始まり、当時の円融天皇まで皇統が一系で続いていることが示されていました。太宗はそれを知り、日本国の君主は長く世襲で、臣下も親の跡を継いでいることに感心し、自分たちの国は乱が絶えず、王朝が短い間に交代することを嘆いています。このとき太宗は奝然を大変厚くもてなし、紫衣を授け、同行者にも袈裟など賜物を授けて、一行を太平興国寺に住まわせました。
翌年奝然は五台山を巡礼し、念願の文殊菩薩を礼拝したあと、洛陽を訪ね(のち長安に行ったとも)、その後汴京に戻りました。その翌年の雍熙2年(寛和元年・985)3月、帰国の途につく前に奝然は、ふたたび太宗に謁見し、太宗から法済大師の諡号を送られ、大蔵経481巻などを賜っています。
奝然はこの汴京に滞在中、皇城の近くの啓聖禅院でインドの優填王(うでんのう)が造ったといわれる釈迦如来像を礼拝し、模刻の勅許を得ていました。優填王とは釈迦の弟子のひとりです。伝説によれば、釈迦が母の摩耶夫人に法を説くため、忉利天(とうりてん)にのぼってしまったとき、残された弟子の優填王や波斯匿王(はしのくおう)は悲しみに沈んでしまいます。それをみた群臣たちは釈迦の似姿を造ることを勧め、優填王は仏師を集めて栴檀の香木に5尺の釈迦像を彫らせました。またそれを聞いた波斯匿王も同じように5尺の釈迦像を造らせました。優填王の釈迦如来像はやがてヒマラヤを越えて中国に伝えられたそうです。
その尊い釈迦如来像をなんとか日本に伝えたいと願った奝然は、帰国直前の雍熙2年(寛和元年・985)6月24日に台州に着き、所持金を喜捨して香木を求め、台州の仏師・張兄弟に釈迦如来像の模刻を造らせます。また釈迦像の完成前には、妙禅寺の尼僧らによって絹で作られた五臓六腑が胎内に納められました。当初目指した奝然の天竺行きは叶わなかったので、天竺伝来の釈迦像に対する思いは特別なものがあったのでしょう。五臓六腑はそれぞれ色分けされており、その模造品が清凉寺に展示されています。臓器をもった釈迦如来像はまさしく生身です。
また胎内には先の「義蔵奝然結縁朱印状」や「奝然入宋求法巡礼行並瑞像造立記」、「金光明最勝王経」などの経典類や、奝然のへその緒書きといわれる「奝然生誕書付」の紙切れなども納入されていました。そのへその緒書きには奝然が生まれた日などが仮名文字で記され、母親の手によるものとも考えられています。それを胎内に納めたのはおそらく奝然でしょうが、まさか千年以上経ってから中身を見られるとは思いもしなかったでしょう。なお、釈迦像の額には銀の仏がはめ込まれ、目には黒水晶、耳には水晶、胎内には水月観音が彫られた鏡が納められているそうです。
清凉寺の釈迦像はインドの釈迦像を模刻したとあって異国風の顔立ちをされています。頭部が大きく肩幅が狭いのが気になりますが、体にまとわりつくような流麗な衣と、そのために透けそうなくらい体の線が浮き出ているのが生身のようで印象的です。三国伝来といわれる清凉寺のお釈迦さまが、本当に本家のお釈迦さまとそっくりなのかが気になって、インドの釈迦像をググってみたところ、釈迦が悟りを得たというブッダガヤのマハーボディ寺院の釈迦像と似ていると思いました。
寛和2年(986)、こうして生身の釈迦像は日本に渡り、ひとまず上品蓮台寺(じょうぽんれんだいじ)に安置され、その後、棲霞寺に遷されました。すると生身の釈迦如来像をひと目拝みたいと、またたく間に民衆が押し寄せたそうです。さっそく奝然は釈迦像を祀るための寺を建立し始めますが、途中、延暦寺の圧力もあり、また東大寺の別当を任じられるなどして、長和5年(1016)、清涼寺の完成を見る前に79歳でその生涯を閉じています。その3年後、弟子の盛算が奝然の遺志を継ぎ、棲霞寺の敷地に五台山清涼寺を開山し、一方の棲霞寺は清凉寺の阿弥陀堂となりました。
ところで、仁王門を入ってすぐのところに法然上人像が祀られています。比叡山黒谷にいた法然は保元元年(1156)、24歳のときに一時下山して清凉寺の釈迦堂に7日間参籠しています。すでにこの釈迦像が人々の信仰を集めていたのを目の当たりにしたことでしょう。法然はその後南都を遊学し、比叡山黒谷に戻っています。
清凉寺はその後火災や地震に遭い、本堂をはじめ諸堂を失いますが、釈迦如来像はそのたびに守られてきました。江戸時代には、仏教を篤く信仰していた徳川綱吉の母、桂昌院が本堂再建に向け、釈迦像の出開帳を実現させています。お釈迦様が御輿に乗って、江戸や地方へロードショーに出たのです。インド-中国-日本の三国伝来の釈迦像は空前の人気を呼び、将軍から庶民まで多くの人々の喜捨を受けて、本堂が再建され、多宝塔なども建立されました。
奝然の墓と伝えられる石幢が本堂の手前にあります。なお奝然は入宋中に太平興国寺で北宋禅を学び、わが国に禅宗を開こうとした僧でもありました。奝然は帰国後、禅宗の宣揚を願い朝廷に奏上しましたが、朝廷は禅宗宣布について古今の例を諸宗に尋ねたところ、不分明と返ってきたので奝然の要請は却下されたそうです。これは栄西が日本で禅宗を開く200年ほど前のことでした。