京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。
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三千院

(さんぜんいん)

その昔、大原は比叡山の別所と呼ばれ、山を下りた僧たちが修行に明け暮れた地でした。また、都を逃れた貴人たちが隠棲した地でもあります。三千院は、天台門跡寺院のひとつでその風格ある佇まいが特徴です。一方、その境内にある往生極楽院は、国宝の阿弥陀三尊像が祀られる古くからの山寺です。

京都大原三千院の境内に建つ往生極楽院 往生極楽院(おうじょうごくらくいん)

INFORMATION
山号・寺号 魚山 三千院(天台宗)
住所 京都市左京区大原来迎院町540
電話 075-744-2531
アクセス 京都バス
京都駅から17,19系統で「大原」下車徒歩10分
地下鉄「国際会館」から京都バス19系統で「大原」下車徒歩10分
京阪電車「出町柳」から京都バス19,17系統「大原」下車徒歩10分
叡山電車「八瀬比叡山口」から京都バス「八瀬駅前」116,19系統で「大原」下車徒歩10分
拝観時間 3月~10月:9:00-17:00 11月:8:30-17:00
12月~2月:9:00-16:30 
拝観料 一般700円 中高生400円 小学生150円
団体30名以上で一般・中高生は100円割引
※法話聴聞、写経体験コースあり 要予約
公式サイト http://www.sanzenin.or.jp/guide/
※↑2024年6月更新

天台声明発祥の地「大原」と、三千院の変遷

大原は、比叡山の京都側の麓、若狭から京都市内へと通じる鯖街道の途中にあります。文字通り、若狭で獲れた鯖を都まで運んだ道で、今もこの辺りには美味しい鯖寿司を売るお店があります。また、茄子やきゅうりなどを赤紫蘇で漬けた「志ば漬」も特産品です。

三千院のある大原一帯は古くから魚山(ぎょざん)と呼ばれていました。魚山とは、声明(しょうみょう)が発祥した中国の山の名前です(声明の源流はインド)。昔、魏の僧、曹植(そうしょく)が魚山にいたとき、空から聞こえてくる梵天の声に魅せられて、その音律を写しとり、仏教音楽(梵唄・ぼんばい)を作ったのだといわれています。円仁(えんにん・慈覚大師)がそれを唐で学んで比叡山に持ち帰り、大原に道場を開いたそうです。天台声明はやがて来迎院を建てた良忍により魚山声明として盛んになりました。

ところで、♪京都 大原 三千院…と歌にも登場する三千院ですが、こう呼ばれるようになったのは実は明治に入ってからです。しかしその起源は古く、延暦年間(782-806)に、最澄が比叡山の東塔南谷(とうとうみなみだに)に一宇を開いたことに始まります。当時は「円融房」と呼ばれていました。そのそばに大きな梨の木があったことから、のちに「梨本門跡」とも呼ばれるようになります。ここでいう門跡とは親王・法親王が住持した宮門跡のことです。

最澄が開いた円融房は言うまでもなく天台宗のお寺です。貞観2年(860年)、承雲(じょううん)は山上の円融房に堂宇を建て、最澄が彫った薬師如来を本尊に祀りました。その後、承雲は、その里坊を近江坂本に開いて移りました。里坊とは、延暦寺で行を修めた老僧が、人里に下りて勤めを果たすため、座主から賜る住まい兼お寺で、比叡山の滋賀県側の麓の坂本には、現在も延暦寺の里坊がいくつもあります。

応徳3年(1086年)、坂本の円融房は、白河上皇の中宮、藤原賢子(ふじわらのけんし)の供養が行われた頃から「円徳院」とも呼ばれるようになったそうです。その後、元永元年(1118)に堀河天皇の第2皇子の最雲法親王(さいうんほっしんのう)が皇族で初めて円融坊に入寺し、そこに加持祈祷に使う井戸があったことから「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれました。

保元元年(1156年)に最雲法親王は天台座主となり、坂本の梶井宮に大原寺が加領されます。また同じ年、延暦寺は出先機関として大原に政所を置き、来迎院や勝林院、極楽院などを管理しました。そのころ大原には比叡山を下りて隠棲する僧たちの草庵がいくつもできていたといわれています。修行僧が群をなして集まり、多いときには49もの堂宇を数え、大原は「比叡山の別所」と呼ばれていました。さまざまな念仏行者によって秩序が乱れるのを危惧した延暦寺は、政所を設置して取り締まったようです。

また大原は、高貴な人々が失意のうちに身を隠した地でもありました。貞観2年(860)には文徳天皇の第1皇子である惟喬親王(これたかしんのう)が、藤原良房らの圧力により皇位を異母弟の惟仁親王(これひとしんのう)に譲って大原に隠棲しています。宇多天皇のひ孫にあたる源時叙(みなもとのときのぶ)も、少将の地位を捨てて出家し、長和2年(1013)に大原に隠棲して勝林院を建てました。そのほか建礼門院徳子が寂光院に隠棲したことや、鴨長明が50歳で大原に遁世したことなどもよく知られています。

鎌倉時代になり、貞永元年(1232年)、坂本の梶井門跡は火災で焼けたため、洛中、東山などを転々としたあと船岡山の麓、紫野に移転しました。この時代、梶井門跡は宮中の御懴法講(おせんぼうこう)の導師を務めて大いに隆盛しています。宮中御懴法講とは、保元2年(1157)に後白河法皇が宮中の仁寿殿(じじゅでん)で初めて行った法要で、声明により犯した罪を仏菩薩に懺悔する儀式といわれています。以降、声明を伴う儀式が貴族に浸透し、伝統的に三千院の歴代門主が導師を務めました。現在は毎年5月30日に三千院の宸殿で御懴法講が修されます。

応仁の乱で堂宇を焼失した梶井門跡は、政所を置いていた大原に初めて遷ります。その後の江戸時代中期には、徳川綱吉が、当時の門主であった慈胤(じいん)法親王に京都御所近くの公家町の寺地を寄進したため、梶井門跡は再び洛中に戻りました。明治になると、当時の門主であった昌仁法親王が仏門を離れたため、仏像・仏具などが公家町から大原に移され、明治4年(1871年)に大原の政所を本坊と定め、このときに寺号が「三千院」と改められました。

京都大原の里
のどかな大原の里
京都大原にある三千院の御殿門
御殿門
京都大原にある三千院の朱雀門
朱雀門
京都大原にある三千院境内の初夏の有清園
有清園
京都大原にある三千院境内の新緑と往生極楽院
新緑と往生極楽院
京都大原にある三千院境内の新緑と弁天池
新緑と弁天池
京都大原にある三千院の有清園
秋の有清園
京都大原にある三千院の有清園の一面の散りもみじ
有清園の一面の散りもみじ
京都大原にある三千院境内のわらべ地蔵
わらべ地蔵
京都大原にある三千院境内の弁天池の水
弁天池の水

二つの名園と、往生極楽院

大正元年(1912)に修築されたという客殿に上がると、すぐのところに比叡山延暦寺の中興の祖と仰がれる元三大師良源(がんさんだいしりょうげん)が祀られています。元三大師像の横には有名な角大師の掛け軸がかけられていて、その前にはおみくじが置かれていました。元三大師はおみくじの創始者といわれています。

客殿からは池泉観賞式庭園といわれる聚碧園(しゅうへきえん)を眺めることができます。三千院の北側を流れる律川(りっせん)の水が引かれ、つつじの刈込みなど豊富な植栽と池が調和する美しい庭園です。金森宗和(かなもりそうわ)の作庭ともいわれていますが定かではありません。金森宗和は江戸時代の武人であり、茶人でもありました。大徳寺真珠庵の「庭玉軒」や金閣寺の茶室「夕佳亭」なども宗和好みの茶室と伝えられています。

客殿から廊下づたいに宸殿へと向かいます。宸殿は昭和元年(1926)に御懴法講(ごせんぼうこう)を行うために建てられました。本殿には最澄作の秘仏、薬師瑠璃光如来が祀られているそうです。また宸殿の東には玉座の間があります。

宸殿から有清園の杉や檜の木立の向こうに往生極楽院が見えます。もともと往生極楽院と三千院は別の寺で、寺伝によれば、極楽院は恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が姉の安養尼(あんように)とともに、寛和2年(986)に父母の菩提を弔うために建立したと伝えられています。またそれとは別に、久安4年(1148)に藤原実衡(ふじわらのさねひら)の妻、真如房尼が亡き夫の往生を願い、常行三昧のために建立したという説もあります。極楽院に安置される阿弥陀三尊のうち、勢至菩薩像の胎内から久安4年の造像銘文が発見されたため、この説が有力視されているようです。

宸殿を出て靴を履き、地面を歩いて往生極楽院へと向かいます。秋の日、杉苔の上に一面に散ったもみじは息をのむほどに美しく、積もったもみじをかき分けるように杉や桧が林立していました。また、春になると地面はまぶしいくらいに青々とした杉苔で覆われます。弁天池が配されて回遊式になっていますが、この広々とした有清園(ゆうせいえん)には端正に人の思想を組み込んだ日本庭園の趣はありません。大原の自然に抱かれたままの雄大な庭となっています。聚碧園が見せる人工の調和と、有清園の伸びやかな自然。この対照がおもしろいです。

木立に溶け込むように建つ簡素な造りの往生極楽院を見ると、やはりこの境内には2つの別の寺が建っていると感じます。往生極楽院は三間四面入母屋造、こけら葺きの阿弥陀堂で、堂内には平安時代後期に作られた国宝の阿弥陀三尊像が安置されています。

この三尊のうち阿弥陀如来坐像は、お堂に比べてかなりの巨像で光背が天井にぶつかりそうになっていますが、天井のその部分は船を逆さにしたような形に折り上げられて、ピッタリサイズで納められています。この天井は「舟底天井」と呼ばれています。堂内は暗く、すすけたように壁や天井も黒くなって剥落も激しいですが、往時は菩薩の来迎図や曼荼羅が極彩色で描かれていたそうです。その壁画の様子が「円融蔵」で鮮やかに復元されていました。

阿弥陀三尊は三体とも坐像で極楽に導くやさしい表情の仏像です。阿弥陀如来は両手をOKのようにして来迎印を結んでいます。脇侍の観音菩薩は小さな蓮の椀のようなものを両手で持っていて、これは魂を乗せて極楽まで運ぶ蓮台を表しているそうです。一方、勢至菩薩は合掌のポーズです。また、脇侍の2体(観音菩薩と勢至菩薩)は「大和坐り(やまとずわり)」と呼ばれるやや前屈みの姿勢で、往生するひとを来迎して、今まさに彼岸に向かうために立ち上がろうとする姿といわれています。

京都大原にある三千院の客殿
客殿
京都大原にある三千院客殿の角大師
角大師(写真は延暦寺山内の石碑)
京都大原にある三千院の聚碧園
聚碧園(しゅうへきえん)
京都大原にある三千院の庭園、有清園
有清園
京都大原にある三千院境内の木立の中に建つ往生極楽院
木立の中に建つ往生極楽院
京都大原にある三千院境内の往生極楽院
往生極楽院
京都大原にある三千院境内の慈眼の庭
慈眼の庭
京都大原にある三千院境内の琵琶を弾く弁才天立像
弁才天立像
琵琶を弾く妙音弁財天といわれている。
関連メモ&周辺

紫陽花苑
(あじさいえん)

京都大原にある三千院の紫陽花苑 京都大原にある三千院の紫陽花苑 三千院の紫陽花苑 三千院の紫陽花苑
境内上段の金色不動に向かう参道脇に紫陽花苑があり、初夏には数千株といわれる紫陽花が咲き誇る。さまざまな種類の紫陽花が山間の風景に美しく映える。6月下旬~7月上旬が見ごろ。

金色不動堂
(こんじきふどうどう)

京都大原にある三千院境内の金色不動堂
平成元年に建てられた根本道場。智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)作と伝えられる金色不動明王が本尊として祀られる。円珍は空海の甥とも、姪の子息とも伝えられる讃岐出身の僧で、第5代天台座主となったあと園城寺(三井寺)を再興した。特別拝観のときに御開扉があり、秘仏とされる金色不動明王をお参りできる。不動明王像は思ったより小柄でした。

売炭翁
(ばいたんおう)

京都大原にある三千院境内の売炭翁(ばいたんおう)
律川のほとりに佇む鎌倉中期の石仏。当時、山里のこの辺りは薪や炭の生産販売に携わる人が多く、炭焼きの窯があったことから地元の人々信仰の拠り所とされたらしい。俗に「売炭翁の石仏」「大原の石仏」と呼ばれる。

呂律(ろれつ)が
回らない

京都大原 三千院境内を流れる律川 境内を流れる律川

三千院を挟むように流れる2つの川は、声明の音階である呂旋法、律旋法にちなんで呂川(りょせん)・律川(りつせん)と名付られた。調子はずれなことを「呂律(ろれつ)が回らない」というのもこれが語源だという。

主な参考資料(著者敬称略):

『新版古寺巡礼 京都4 三千院』淡交社 /『京都発見3』梅原猛 新潮社 /『天台声明』天納傳中著作集 法蔵館 /『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』森浩一 学生社 /

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