常寂光寺
(じょうじゃっこうじ)常寂光寺は日禛(にっしん)上人が隠棲した日蓮宗のお寺です。豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立した際、日禛は不受布施の教えにより千僧供養の出仕を拒否し、その後、小倉山のこの地に籠りました。常寂光寺は樹々に囲まれた「塀のない山寺」として知られています。もみじの名所としても名高く、秋は山内全体が真紅に染まります。
茅葺の仁王門(もと本圀寺客殿の南門)
山号・寺号 | 小倉山 常寂光寺(日蓮宗) |
---|---|
住所 | 京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3 |
電話 | 075-861-0435 |
アクセス | JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」下車 徒歩約15分 京福電車 嵐山線「嵐山」下車 徒歩20分 市バス 28,93系統「嵯峨小学校前」下車徒歩10分 |
拝観時間 | 9:00-17:00(16:30受付終了) |
拝観料 | 大人:500円 小人:200円 |
公式サイト | http://www.jojakko-ji.or.jp/ |
日禛(にっしん)と日奥(にちおう)と常寂光寺
紅葉の美しい嵯峨小倉山の麓は平安時代から貴人・文人の多くが山荘を営んだ土地でした。鎌倉時代の官人であり歌人であった藤原定家もそのひとりで、嵯峨野に山荘「時雨亭」を設けたことで知られていますが、その場所は明らかではありません。ここ常寂光寺の境内にも古くから時雨亭跡とよばれる場所があります。
常寂光寺は日蓮宗のお寺です。桃山時代の文禄4年(1595)、秀吉は方広寺大仏殿の千僧供養会に際して、諸宗派から僧の出仕を求めました。このとき日蓮宗では他宗の信者の布施を受けてはならず、また法施をしてはならないという宗の掟があったため、京都日蓮宗の16本山は不受布施派と受布施派に分裂してしまいました。不受布施とは受けず、施さずという意味です。そして、秀吉の命にそむけば日蓮宗そのものが滅亡の危機に遭うとして、ほとんどの本山が出仕(受布施)の立場をとりました。
当時、京都日蓮宗の総本山、本圀寺(ほんこくじ)の第16世であった日禛(にっしん)は出仕を拒否し、もとより断固拒否の立場を取っていた妙覚寺の日奥(にちおう)を支持しました。結局、不受布施を貫こうとしたのはこの2人だけだったそうです。
日禛は永禄4年(1561)に藤原北家の日野氏流、権大納言・広橋国光の子として生まれ、14歳で本圀寺の日栖(にっせい)に師事、18歳で本圀寺の住寺となりました。当時、京都の町衆はもとより、秀吉の姉の瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)、その夫、三好吉房(みよしよしふさ)、北政所の甥、木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)、その弟の小早川秀秋、そのほか、加藤清正、小出秀政など、秀吉の身内や家臣たちが日禛に帰依していました。
千僧供養会の出仕を拒否した日禛は本圀寺を出て嵯峨に隠棲し、日奥は丹波の小泉に隠れました。この2人に何の咎めもないまま秀吉没後も千僧供養会は続き、次第に世間は潔い2人を讃え、受布施派に対して非難を浴びせるようになります。受布施派としても苦渋の選択だっただけに、これは堪らないと幕府に訴え、慶応4年(1599)に大坂対論が実現しました。徳川家康は両派の指導者を大阪城に呼び、受布施と不受布施の正当性を対論させたのです。
主張を変えない日奧に、家康は一度だけ千僧会に出仕すればあとは免除すると大幅に譲歩しますが、それでも日奧は態度を変えなかったため、家康の怒りを買い対馬に流罪となりました。
日奧は慶長17年(1612)に赦免され、家康没後の元和9年(1623)には不受布施が京都所司代により認められました。しかしこれに対して受布施派の不満が噴き出し、宗門内部の対立はさらに激しくなります。寛永7年(1630年)、江戸城で行われた対論(身池対論)では、幕府の政治的配慮から不受布施派が敗れ、以降、不受布施派は邪教として弾圧されました。日奧は再犯の罪で再び対馬への配流を言い渡されましたが、このときすでに没していたため遺骨が流されています。
一方、日禛は、本圀寺を出たのちの文禄5年(1596)、親交のあった嵯峨の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)の岳父の栄可(えいか)から小倉山の土地を寄進され、常寂光寺を開いて隠棲しました。和歌に造詣の深かった日禛は、藤原定家や西行ゆかりの小倉山の地を与えられ、ことのほか喜んだといわれています。なお、この寺が軒端寺(のきはでら)とも呼ばれるのは、定家の「忍ぶれむ ものともなしに小倉山 軒端の松ぞ なれてひさしき」の歌にちなんでいるそうです。また日禛は「定家卿の小詞が自分の住む堂舎より下にあるのは畏れ多い」として歌仙祠を山上に移したと伝えられています。
その後、日禛は角倉家の恩に報いるかのように了以の大堰川開削事業を支援しています。日禛は慶長7年(1602)に備前伊部(いんべ)の妙圀寺で千部経読誦会を営んだ際、末寺の牛窓法蔵寺の檀家に舟夫や舟大工が多いことを知り、京都に呼んで操船技術の指導にあたらせたり、開削工事を助けたりしました。角倉家はこのときも舟夫や舟大工たちのために宿舎を提供していて、彼らのなかにはそのまま移住して常寂光寺の檀家となった人も多かったそうです。
元和2年(1616)、本圀寺南門の仁王門が移築されました。その翌年、日禛は入寂します。その後、小早川秀秋により伏見城の客殿が移築され本堂が建てられました。山を登っていくと中腹に見える美しい多宝塔は、京都の大呉服商、辻藤兵衛尉直信により元和6年(1620)に寄進されたものです。そしてじつはこの呉服屋こそ日奧の実家であり、辻藤兵衛は日奧の父なのでした。不受布施派だった日禛と日奧がたどったその後の運命はあまりにもかけ離れたものでしたが、2人の縁は没後に再びつながったようです。