今宮神社
(いまみやじんじゃ)平安時代の御霊会に起源をもつ今宮神社は、江戸時代にお玉と呼ばれた桂昌院が再興したことにより、別名、玉の輿神社としても知られています。また摂社の疫神社の祭礼「やすらい祭」は、京都三大奇祭のひとつで、春の風物詩にもなっています。東門の「あぶり餅」も有名です。
楼門
社名・社号 | 今宮神社 |
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住所 | 京都市北区紫野今宮町21 |
電話 | 075-491-0082 |
アクセス |
市バス 46系統「今宮神社前」下車すぐ。または、 1,12,204,205,206,北8,M1系統「船岡山」下車北へ徒歩7分 地下鉄烏丸線「北大路」駅から西へ徒歩15分 |
参拝 | 境内自由 |
公式サイト | http://www.imamiyajinja.org/ |
疫病を鎮める神社
今宮神社は京都七野のひとつである紫野の地に鎮座しています。そのことからかつては紫野社と呼ばれていました。船岡山の北東の一帯は紫野とよばれ、古くは皇族の遊猟の地でした。また旧大極殿の真北に位置する船岡山は風水上(陰陽道)の重要な土地で、古代には埋葬地でありながら神聖な土地でもありました。
今宮神社の社地には平安京遷都以前から疫神が祀られていたといわれています。『続日本紀』宝亀元年(770)6月23日条によれば、朝廷は平城京の四隅と畿内十界に疫神を祀らせたとあり、奈良時代には疫病や厄災を鎮めるために、おそらく山背国にも疫神が祀られていたと思われるのです。
平安京に都が遷ると人口が急増し、都市化が進むにつれて人々は疫病に苦しんだり災害に悩まされました。そしてそれは非業の死を遂げた人たちの怨霊の祟りと恐れられ、または正体のよくわからない「もののけ」や忌むべき悪精の仕業とみなされて、その霊を慰め祀り、境域外へと送り出す御霊会が盛んに営まれました。
一条天皇の正暦5年(994年)、西日本で疫病が大流行したとき、洛中洛外に多くの人が行き倒れました。やがて洛中を疫神が横行するという噂が飛び交うと、家々は門戸を閉ざし、通りを行く人の影も見られなくなったといいます。そこで朝廷は、神輿2基を造らせ、社地に古くから祀られていた疫神を遷して船岡山に安置し、疫神を鎮めるための御霊会を営みました。その後、人形(ひとがた)に病精をのり移らせ、神輿に乗せて山崎まで行き、難波江に流したといわれています。これが「紫野御霊会」で、のちの「今宮祭」です。
この御霊会のとき、京中の民衆もこぞって船岡山に登り、風流を凝らした綾傘を差し立て、囃子に合わせて鉾を振り、神輿の列に随って歌い踊って疫精を追い立て、神威によって流されるのを見守りました。この祭礼が「やすらい祭」で、御霊会が始まる以前から民間信仰の祭礼として行われていたそうです。
その後、長保3年(1001)に再び疫病が流行したため、朝廷は疫神を船岡山から疫神社に遷し、新たに瑞垣をめぐらせて神殿3宇と神輿を造らせました。そして大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の三柱を祀り、もとあった疫神社も含めて今宮社と名づけ、盛大な御霊会が営まれます。
今宮社には勅使が遣わされ、境内で東遊(あずまあそび)や走馬(そうめ)が奉納されました。身分の上下を問わず庶民も集まり、御霊会を大いに賑わしたと伝えられ、これが今宮神社の起こりといわれています。なお今宮とは「新たに設けられた宮」を意味します。その後も疫病が流行するとたびたび今宮社で御霊会が行われ、やがて今宮祭として定着しました。今宮神社には「今宮祭」と「やすらい祭」がの2つの祭りが今に伝えられているのです。
現在、今宮祭は毎年5月5日に神幸祭が行われ、5月15日に近い日曜日に還幸祭が行われます。氏子によって豪華な神輿や牛車、剣や鉾が奉じられ、巡行して御旅所に入ります。翌日御旅所では、神楽女が熱湯に笹を浸し、湯滴を振りまく湯立て祭が行われ、無病息災が祈願されます。そして還幸祭では神幸祭と異なる経路で神輿が本社に戻ります。
創祀以来、今宮社は朝野の篤い崇敬を受け、鎌倉時代の弘安5年(1282)には正一位に列せられます。また室町時代には将軍足利義尚や義晴によって社殿の造営や修復が行われ、戦乱の時代には衰退しましたが、秀吉が聚楽第を造営すると、今宮社がその地の産土神であったことから御旅所が再興され、神輿も寄進されました。
近世に入ると氏子地域の西陣が機業地として発展し、町衆も神社の復興に力を注ぎます。「西陣」は応仁の乱の山名氏側の陣を指して呼んだことに始まりますが、のちにこの地域一帯に織物工業が栄えたことから「西陣織」の名が全国に知れ渡るようになります。昭和44年以降業界では、応仁の乱が終結し、京都が再び平和に向けて歩み出した日に当たる11月11日を「西陣の日」と定め、毎年式典が行われています。
町衆の力もさることながら、戦乱による荒廃から今宮社を見事に復活させた一番の功労者は、徳川5代将軍綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん)です。西陣は桂昌院の故郷でした。桂昌院は元禄7年(1694)に、社領を寄進して社殿を造り替え、御牛車や鉾も新たに造り、「今宮祭」の祭事の整備や氏子地域の拡充を図り、中絶していた「やすらい祭」を復活させるなどして再興に尽力したといわれています。
桂昌院は西陣の八百屋に生まれ、「お玉」と呼ばれていました。幼くして父を亡くし、奉公に出るうちに、母の再婚により関白に仕えていた北小路太郎兵衛宗正の養女となり、徳川3代将軍家光の側室のお万の方に御小姓として仕えることになります。そして春日局の部屋子になったとき、家光に見初められて綱吉を生んだといわれています。さらに綱吉が徳川5代将軍になると、桂昌院は女性最高位の従一位に昇り詰めました。「玉の輿」という言葉は桂昌院の「お玉」という名前から生まれたそうです。彼女の運を加護したのか、今宮神社も「玉の輿神社」とも呼ばれ、遠方からも多くの女性参拝者を集めています。
また、摂社の織姫社も女性に人気の神社です。七夕伝説の織姫に機織りを教えたという栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)が祀られ、縁結びや技芸上達のご利益があるようです。往古、堀川をはさんで白雲村と村雲村があり、そこで絹などが織られていたことから織物の祖神として栲幡千千姫命が祀られていたそうです。江戸時代に西陣の機業家がその神を現在の場所に勧請してできたのが織姫社で、西陣業界の人々からも篤い信仰が寄せられています。