龍安寺
(りょうあんじ)龍安寺は室町時代の守護大名・細川勝元が開いた禅寺で妙心寺の塔頭のひとつです。有名な「龍安寺石庭」は、白砂に15個の石が置かれただけの枯山水の庭です。いつ誰によりどんな意図で造られたのか、謎めいた庭に惹きつけられて多くの参拝者がやってきます。
龍安寺石庭
山号・寺号 | 大雲山 龍安寺(臨済宗妙心寺派) |
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住所 | 京都市右京区龍安寺御陵下町13 |
電話 | 075-463-2216 |
アクセス |
市バス 52,50,55系統「立命館大学前」下車徒歩7分 59系統「龍安寺前」下車すぐ 京福電車 北野線「龍安寺」下車徒歩7分 |
拝観時間 | 3月1日~11月30日 8:00-17:00 12月1日~2月末日 8:30-16:30 |
拝観料 |
大人・高校生500円 小・中学生300円 2023/4/1より大人600円 高校生500円 小中学生300円 |
特別公開 |
2022/5/14-2023/3/31、2023/4/1-2024-3/31 細川護熙氏による襖絵「雲龍図」(通常拝観料のまま) |
公式サイト | http://www.ryoanji.jp/ |
細川勝元が開いた龍安寺
金閣寺から南西に延びるなだらな下り坂は、きぬかけの路、とか、単に、観光道路、とか呼ばれていて、その道沿いに龍安寺があります。すぐ近くには立命館大学があり、西へ行くと仁和寺をはじめ多くのお寺が点在し、さらに行くと福王子神社もあります。龍安寺は妙心寺の塔頭のひとつで、龍安寺の南に妙心寺があります。
龍安寺は宝徳2年(1450)、細川勝元によって創建された禅寺です。このとき勝元は21歳で、室町幕府の管領として6歳年下の将軍足利義政を補佐していました。細川氏は足利氏の流れをくむ武家の名門で、代々文武にすぐれた人物を輩出しています。南北朝の動乱期に南朝側と戦って功を上げ、四国一円、丹波、摂津などを守護し、室町幕府においては管領職を世襲する家柄でした。
勝元の父である細川持之は、妙心寺第7世住持の日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)に深く帰依していたといわれています。日峰宗舜は妙心寺の再興に努めた禅僧です。応永6年(1399)、大内義弘が足利義満に反旗を翻したとき(応永の乱)、大内氏と関係のあった妙心寺住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は大内氏に加担したと訴えられ、妙心寺は寺地・寺領を没収されて中絶の憂き目にあっていました。
永享4年(1432)に寺地の一部が返還されたのを機に、妙心寺再興に乗り出したのが日峰宗舜で、日峰を強力に外護したのが細川勝元の父、持之でした。持之は日峰が自らの塔所とした養源院にも本堂などを建てて整備を施しています。父の影響を受けて勝元も、日峰宗舜や日峰の法をついだ義天玄詔(ぎてんげんしょう)に帰依し、援助を惜しまなかったそうです。
なお、日峰宗舜も、義天玄詔も、五山派出身で、のちに関山派に転じて妙心寺に入っています。一方、足利義政の祖父・義満を支えた細川頼之は五山派に帰依していましたが、持之・勝元父子は関山派に帰依していました。
宝徳2年(1450)、勝元は、平安時代に徳大寺実能(とくだいじさねよし)が造営した山荘を当時の所有者であった徳大寺公有(とくだいじきんあり)から譲り受け、義天玄詔を開山に迎えて龍安寺を開きました。義天は亡き師の日峰を勧請開山として、自らは創建開山としました。なお、徳大寺家の山荘は、永観元年(938)に円融天皇により創建された円融寺の広大な跡地に造られたものでした。その地を受け継いだ当初の龍安寺は七堂伽藍を備える大禅寺だったそうです。さらに勝元は、享徳元年(1452)に丹波八木に龍興寺を開いています。
義天が70歳でこの世を去ると、日峰門下で養源院を継いでいた雪江宗深(せっこうそうしん)が龍安寺の住持となります。応仁の乱が起こったのはこのころでした。将軍家の後継者問題に、斯波氏、畠山氏の家督争いなどが絡んで、細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍の戦いが応仁元年(1467)から11年続きました。
この乱で龍安寺は焼失します。勝元は、混乱を避けて八木の龍興寺に移っていた雪江を迎えて自邸で龍安寺の法灯を守り、子の政元に復興を命じました。再建着工まもない文明5年(1473)に勝元は死去しています。山名宗全もその2ヵ月ほど前に亡くなっていましたが、戦乱はこの後もだらだらと続きました。
明応8年(1499年)に政元と龍安寺第4世の特芳禅傑(とくほうぜんけつ)により龍安寺は再興され、その後、21の塔頭を数えるまでに隆盛したといわれています。しかし江戸時代の寛政9年(1797)の火災でまたもほとんどの伽藍が焼失してしまいます。現在の龍安寺の方丈は、このとき焼けなかった塔頭・西源院(せいげんいん)の本堂を移築して再建されたもので、今残る龍安寺の塔頭は、この西源寺と大珠院、霊光院の3院のみです。
東西約120m、南北約65mの規模をもつ鏡容池(きょうようち)は、もと円融寺の苑池であったものが徳大寺家に受け継がれ、徳大寺実能や孫の実定(さねさだ)によって作庭されたものと伝えられています。平安時代には鏡容池で舟遊びも楽しまれていたようです。また江戸時代の旅行ガイドとも呼ぶべき『都林泉名勝図会』には、冬になると多くの鴛鴦(おしどり)が鏡容池にやってくると記されています。
石庭の謎はどこまでも謎
さて、有名な方丈前の石庭。長さ25m、幅10mほどの方形で、決して広くはありません。油土塀とよばれる背の低い塀に囲まれ、砂紋を描いた白砂に5個、2個、3個、2個、3個に組まれた計15個の石が配されただけの簡素な庭です。
樹や花を置かず、石と砂だけでいったい何を表現しているのでしょうか。母虎が子虎を川の向こう岸に渡している様子(虎の子渡し)とか、白砂は大海を、石は島を表している、とか、いやいやカシオペア座を表している、などさまざまに解釈されています。また15個の石は、一見、どこから見てもすべての石を見渡すことができないので、世の中に完全なものはない、または、完全なものは崩壊へと向かうのでそれを避けた、とか、心の眼で見ろ、などこれもいろいろに解されていますが、実は方丈内のある場所からはすべての石が見わたせます。
また、いつ、誰が、作ったかについてもよく分かっていません。寛政11年(1799)刊行の『都林泉名勝図会』龍安寺の図絵(リンクは日文研サイトより)には、龍安寺石庭が掲載されていて、現存する最古の石庭全体図といわれています。なおこの書籍が刊行される2年前の寛政9年(1797)に龍安寺は焼失したので、それ以前の様子を描いたものだと考えられています。
ちなみに日文研の白幡洋三郎氏は、極めて写実的といわれる『都林泉名勝図会』をもとに、この絵図と現在の石庭との相違点を次のように挙げておられます。
まず、現在の油土塀と呼ばれる茶色の築地塀は、絵図では漆喰の白壁に見えること。また塀に等間隔の柱が描かれていること。次に、5人の人物が庭に踏み込んで描かれていることから、白砂が分厚く敷かれていなかったらしいということ(確かに砂紋も描かれていない)。さらに、見開き左図の右端の木のなかに「義政公御殿垣築地」の文字が見えることなどです(サイトの画像では読み取れない)。「義政公御殿垣築地」とは何を意味するのでしょう。花の御所または銀閣寺の築地が移築されたとか??
絵図の上部には「むかし細川勝元ここに別業をかまへ住せらるる時、書院より毎朝男山八幡宮を遥拝せんが為に、庭中に樹を植ず。奇巌ばかりにて風光を催す…」と書かれていて、勝元の意図で庭に樹木を植えず、奇巌を置いたような記述になっています。また左側には皆川愿(みながわげん)の漢詩があり、「一庭の空曠白砂平シ…」とあって白砂は平らであるとも記されています。皆川愿(淇園・きえん)は絵図刊行時代の京都の学者さんです。
また京都の俳人、秋里離島(あきさとりとう)による龍安寺の解説文には「所謂方丈の庭は相阿弥の作にして洛北名庭の第一とす…」とあり、相阿弥(そうあみ)が作庭者だと述べています。また江戸時代中期には名庭として認識されていたことがわかります。一方、これより200年ほど前にも秀吉が何度か訪れていて、寺に伝えられる秀吉自筆の制札のなかに「庭の石取るべからず」と記されているそうです。つまり秀吉の時代には石庭があったとも思えます。
ところで、安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』の龍安寺境内図は、方丈と前庭の外観が『都林泉名勝図会』に描かれている様子とも、現在の様子とも大きく異なっています。方丈から庭の中央を割くように築地へつながる歩廊が描かれて、これによれば、15個の石は置かれていないようにも思われます。忠実な写実ではないのかもしれませんが?
なお作庭者は相阿弥(そうあみ)ともいわれていますが、禅文化や作庭に通じていた細川勝元・政元説もあります。また、向かって右から7番目の石の背面に「小太郎・□二郎」と彫られていることからこの2人が作者だという説もありますが、彼らは単に石職人とも考えらています。
そして近年になって改めて重視されているのが鉄船宗煕(てっせんそうき)説です。鉄船は義天の弟子で、雪江から印可を受けましたが、龍安寺創建の工事がうるさくて修行ができない、といって故郷の美濃の鵜沼に戻ってしまったといわれています。鉄船は作庭に長け、鉄船が手掛けた庭には龍安寺石庭の原型がみられる、というのが根拠のようです。
龍安寺方丈は近年いつ訪れても人でいっぱいです。英国エリザベス女王に絶賛されたり、海外の科学者たちに研究されて『ネイチャー』で発表されたりと、人を惹きつけてやまない謎多き庭ですが、見える石を数えている人、写真を撮るのに余念のない人、混雑をよそに瞑想する人…など参拝者の反応はさまざまです。私はというと、背の低い土塀に絶妙の境界を感じて、つい石よりも気になってしまいます。