宇治上神社
(うじがみじんじゃ)宇治川を挟んで平等院の対岸に建つ宇治上神社。その本殿は現存する日本最古の神社建築といわれています。宇治神社と対をなし、応神天皇の皇子であった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が祀られています。世界遺産「古都京都の文化財」のひとつに指定されています。
鳥居
社名・社号 | 宇治上神社 |
---|---|
住所 | 京都府宇治市宇治山田59 |
電話 | 0774-21-4634 |
アクセス |
JR(リンク:JRおでかけネット)奈良線「宇治」下車徒歩20分 京阪電車 宇治線「宇治」下車徒歩10分 「さわらびの道」を入る。 |
拝観時間 | 授与所:9:00-16:20 |
公式サイト | https://ujikamijinja.amebaownd.com/ |
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を祀る宇治上神社・宇治神社
宇治川の東岸、宇治橋から少し上流に宇治上神社と宇治神社が鎮座しています。明治以前は二社で一体とされ、宇治離宮明神と呼ばれていたそうです。山寄りにある宇治上神社が上社で、宇治神社が下社でした。創祀は不明とされていますが、この地は応神天皇の離宮があったと伝えられ、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が宮を受け継いだともいわれています。また社殿の建立は平等院とほぼ同時期とみられ、藤原頼道が平等院の鎮守社として造営したものとも考えられています。
記・紀によれば、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ・宇遅能和紀郎子)は、応神天皇と和珥臣の祖である日觸使主(ひふれのおみ・比布礼能意富美)の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ・宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇子と伝えられています。菟道稚郎子の異母兄弟に、大鷦鷯皇子(おおさざきのみこ)と大山守皇子(おおやまもりのみこ)らがいて、父の応神天皇は、末子の菟道稚郎子を寵愛し、皇太子にしたいと望んでいたようです。
応神天皇は大鷦鷯(おおさざき)と大山守(おおやまもり)に対して、皇太子には誰が適任かを問うと、大山守皇子は兄の大鷦鷯がよいと答え、大鷦鷯は天皇の心のうちを思って末子の菟道稚郎子がよいと答えました。それであっさり菟道稚郎子が皇太子に決まったとされています。応神天皇の死後、それを快く思っていなかった大山守皇子は菟道稚郎子に戦を仕掛け、逆に宇治川で滅ぼされてしまいます。大山守の企みを内通して菟道稚郎子に兵を準備させたのが大鷦鷯でした。『日本書紀』では、その後、菟道稚郎子と大鷦鷯は皇位を譲りあっているうちに3年が経ち、菟道稚郎子はとうとう兄を思って自死してしまう、という美談に仕立て上げられています。
また、菟道稚郎子が亡くなって3日後に生き返り、自分の妹である矢田皇女(やたのひめみこ)を、大鷦鷯に奉ると遺言してふたたび絶命したとされています。そして彼の死後、即位したのが大鷦鷯皇子、すなわち仁徳天皇でした。菟道稚郎子の宮は、桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)と呼ばれ、皇子の没後、仁徳天皇によって菟道稚郎子が祀られたのが宇治上神社の草創ともいわれています。
一方、「播磨国風土記」大家の里(おおやけのさと)の段では、「宇治天皇の御世」と記され、菟道稚郎子は天皇になって国を治めていたかのような記述になっています。このことから大鷦鷯の菟道稚郎子殺害説も出ています。
宇治神社の右手奥を行くと宇治上神社の鳥居があり、参道が続きます。小さな橋を渡って神門を入ると正面に立て砂があり、奥に拝殿が建っています。屋根は切妻造の左右に庇がつく縋破風(すがるはふ)になっていて、拝殿としては珍しい寝殿造の華麗な建物です。
そしてその奥に本殿が建ち、背後は朝日山の山すそが建物ぎりぎりにまで迫っています。本殿は、覆屋(おおいや)とその内部に三棟ある内殿からなり、覆屋は檜皮葺き、桁行5間、梁間3間のかなりどっしりとした建物です。
一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の覆屋の中を伺うと、小さな社殿が三棟並んでいて、左殿と右殿は覆屋と一体になっているのがわかります。中殿と合わせてこの三殿は平安時代後期にあたる1060年ごろに造られたとみられ、現存するわが国最古の神社建築物といわれています。祭神は左殿(向かって右)に菟道稚郎子、中殿に応神天皇、右殿(向かって左)に仁徳天皇が祀られていますが、仁徳天皇ではなく、菟道稚郎子の母の矢河枝比売(やかわえひめ)ともいわれています。
拝殿の右手に水屋があり、宇治七名水のひとつと言われた「桐原水」が湧いています。七名水のうち残っているのはここだけだそうです。本殿の右手に建つ摂社の春日大社も創建は古く、鎌倉時代にさかのぼります。