三十三間堂
(さんじゅうさんげんどう)正式名は蓮華法院(れんげおういん)。その本堂が三十三間堂ですが、全体を指して通称でこう呼ばれています。平安時代末期に後白河上皇が平清盛に造らせたという三十三間堂の内陣には、千一体の千手観音像が整然と居並び、その眺めはまさに壮観、圧倒的です。
本堂(三十三間堂)
院号 | 蓮華王院 (本坊:妙法院門跡) |
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住所 | 京都市東山区三十三間堂廻町657 |
電話 | 075-561-0467 |
アクセス |
市バス100,106,110,206,208系統 「博物館三十三間堂前」下車スグ 京阪電車 「七条」下車徒歩10分 |
拝観時間 | 4月1日-11月15日 8:30-17:00 受付終了16:30 11月16日-3月31日 9:00-16:00 受付終了15:30 |
拝観料 | 一般600円・高校中学400円・子供300円(25名以上は団体割引) 障がい者手帳・療育手帳提示で本人と介助者1名半額 |
公式サイト | http://www.sanjusangendo.jp/ |
平清盛が後白河院のために建てた三十三間堂
蓮華王院は、長寛2年(1164)に後白河上皇が平清盛に命じて、法住寺殿(ほうじゅうじどの)の敷地内に造らせた寺院といわれています。その本堂が三十三間堂と呼ばれました。
三十三間堂は、南北に118.2m、東西に16.4mという方形の木造建築で、入母屋造、和様単層本瓦葺き。建長元年(1249)に火災で焼けたあと、文永3年(1266)に後嵯峨上皇により再建されています。室町・江戸・昭和期に大修理されているものの、京都で数少ない鎌倉建築の遺構です。
平安中期にはこの辺りに藤原為光(ふじわらのためみつ)が創建した法住寺が建っていましたが、長元5年(1032)に火事で全焼しています。その後しばらくの間、その跡地には貴族らの邸宅が建ち並んでいたようです。平治の乱で三条殿が焼失したため、後白河上皇は新たな院の御所としてこの地を選び、保元3年(1158)頃から法住寺殿の造営を始めました。十町ほどの土地を囲い、80余りの堂舎を取り壊したと『山槐記』に伝えられています。この平治の乱で没した信西(しんぜい)の邸もこの地にあり、妻(紀伊局)が建てた一堂がありました。その堂が法住寺堂であったという説があります。信西の妻は後白河上皇の乳母でもありました。上皇は院の御所を造る以前に法住寺堂に行幸されたことが『兵範記』に記されています。
法住寺殿の敷地は、東西は阿弥陀ヶ峰山麓から鴨川東岸にほど近い大和大路まで、南北は八条から七条以北(国立博物館の敷地あたり)にまで伸びる広大なものでした。敷地の南端に紀州熊野の神を勧請して新熊野(いまくまの)神社を、東端に延暦寺の鎮守社である日吉山王(ひえさんのう)の神を勧請して新日吉(いまひえ)神社を創建し、法住寺殿の守り神とされました。
北殿には政務関係の施設が、南殿には宗教施設と住まいが置かれ、さらに、南殿敷地内には後白河院自身の陵域として法華堂も建てられました。三十三間堂のある蓮華王院はその西側に造られ、創建当時はそこに五重塔や阿弥陀堂、宝蔵なども建っていたそうです。
そのころ朝廷に仕えながら西国を知行していた平清盛は、備前国で得た財で蓮華王院の資材を用意したといわれています。父忠盛の代から日宋貿易による莫大な経済力が背景にあったようです。三十三間堂に納められた千手観音は、忠盛が鳥羽上皇勅願の得長寿院(とくちょうじゅいん)に千手観音を寄進したことに倣ったものでしょう。清盛の祖父正盛は北面武士として白河上皇に仕え、忠盛は鳥羽上皇に昇殿を許されて伊勢平氏の地位を確たるものにしましたが、清盛はさらに、大納言、内大臣をへて太政大臣に任命されるという破格の昇進を遂げました。
政権内部は、院政と親政、それに絡む摂関家や寺院、武門である源氏などの勢力が複雑に絡むなか、清盛は、保元の乱、平治の乱で危ういながらも何かとうまく切り抜け、二条天皇と後白河上皇のどちらにもほどよく距離をとりながら地位を向上させていきました。やがて二条天皇が崩御、まもなく清盛の娘、盛子の夫である近衛基実(このえもとざね)も亡くなり、摂関家の荘園領を盛子に相続させると、清盛は盤石の体制で後白河院と連携して平家の全盛を導きます。後白河院の法住寺殿のすぐ北は平家一門が住む六波羅の地でした。
鳥羽天皇の第4皇子(母は待賢門院)として生まれた雅仁親王(まさひとしんのう・のちの後白河天皇)は、若年のころは皇位継承とは無縁だったため、呑気に遊び暮らしていたといわれています。とくに今様に没頭し、昼夜歌い明け暮れ、のどを痛めて声が出なくなったことも何度かあったようで、鳥羽天皇はそんな皇子を「即位の器でない」と冷たく突き離したこともありました。けれどもこの熱中度により、後白河法皇が晩年に編んだ『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』は当時の庶民・貴族の芸能を今に伝える貴重な史料となっています。
久寿2年(1155年)、後白河天皇は29歳で即位しています。天皇の皇子である守仁親王(もりひとしんのう・のちの二条天皇)が即位するまでの中継ぎとしてでした。そして予定通り保元3年(1158)に守仁親王(二条天皇)に譲位して上皇となります。前後して起こった保元の乱や平治の乱では、後白河院は、事件の中核に据えられながらも、激しく動いたのは周囲の人々であり、兄の崇徳上皇や、藤原頼長や、信西や、藤原信頼などは、各々の野心のために命を落としていきました。
天皇家の外戚となった清盛とは、当初蜜月でしたが、強訴に出る比叡山を攻撃しろと言う後白河院と、それに消極的だった清盛の間に亀裂ができ、さらに平氏を排除する謀議(鹿ヶ谷の陰謀)がバレたことで関係は修復不能に陥ったと考えられています。清盛と後白河院はやがて敵対し、後白河院は平氏追討を木曽義仲に命じますが、京都に入った木曽義仲の兵は市中で略奪などの蛮行に出て後白河院の反感を買いました。
寿永2年(1183)11月、後白河院は鎌倉の源頼朝と通じて木曽義仲を排除しようとしました。これに激怒した義仲は兵を挙げ、法住寺殿を焼き尽くすのです。しかしこのとき三十三間堂だけは奇跡的に残っていました(法住寺合戦)。合戦に勝利した義仲でしたが、間もなく源範頼(みなもとののりより)・義経率いる鎌倉軍との戦いに敗れ没しています。
一方、平氏は滅亡の途をたどりました。後白河院は手柄を立てた源義経(と源行家)に頼朝追討を命じたものの、頼朝の報復を恐れてすぐさま義経追討に切り替えています。頼朝は自分の追討を命じた後白河院を指して「日本国第一の大天狗」と呼びました(解釈には諸説あり。『玉葉』『吾妻鏡』)。貴族から武家へと勢力が転換していく時代のなかで、後白河院は次々に目の前の強い者と結び、勝利していったのです。運がいいのか、勘が鋭いのか、やはりどこか為政者の才能を感じます。一方で、後白河院は庶民文化にたいへん造詣が深かった人でもあり、俗物が大好きな人でもあったようです。
その後400年ほど経った豊臣秀吉の時代に、三十三間堂の付近一帯はまたも大きな歴史を刻みます。秀吉は蓮華王院を取り込んで方広寺大仏殿を造営し、奈良の東大寺を模して大仏を造りました。文禄4年(1595)に完成した大仏は高さ約19mで、東大寺の大仏より大きかったそうです。ところが翌年の伏見大地震で開眼を前に倒壊してしまいます。慶長2年(1597)、秀吉は大仏の代わりの本尊として甲斐善光寺から善光寺如来を遷しますが、翌年に病に倒れたことで祟りを畏れて本尊を返却しています。
秀吉没後の慶長4年(1599)、子の秀頼は大仏復興を始めました。途中、火災などで難航を極めますが、慶長17年(1612)に大仏殿と大仏が完成。しかし開眼供養目前で例の方広寺鍾銘事件が起きました。このときの大仏は存続していたものの、寛文2年(1662)の地震で損壊し、その後再興された大仏も寛政10年(1798年)の落雷による火災で焼失しています。三十三間堂の南には、高さ5.3m、三間一戸切妻の大きな八脚門の南大門があります。この南大門は方広寺の南門として秀頼が築いたもの。また、南大門に接する桁行92mの木骨土造の築地塀は太閤塀(たいこうべい)と呼ばれ、軒先の丸瓦には豊臣家の家紋である五七桐が施されています。
なお、本堂裏手(西側)は、かつて通し矢の射場でした。通し矢の競技は桃山時代の頃に始まり、江戸時代に大流行して尾張や紀州から名手が出たといわれています。人気種目は121mある本堂の軒下で24時間矢を射続けて、射通した矢の数を競う「大矢数(おおやかず)」で、最高記録は、貞享3年(1686年)に一昼夜かけて13,053本の矢を放ち、8,133本を通した紀州の和佐大八郎という青年によるものといわれています。
軒下を乱れ飛ぶ無数の矢で本堂の柱が傷むのを防ぐため、柱に鉄板が張られています。これは競技がブームだった江戸時代に徳川三代将軍家光が取り付けたもので、その鉄板にはいくつもの傷あとが残っています。現在はこの通し矢に因んで、毎年1月中旬に弓道大会が営まれます。往時の大矢数とは違って、約60m先に1mの的を設けてそれを射る競技となっています。
圧巻!千一体の千手観音像と風神・雷神、二十八部衆
三十三間堂の名は、本堂内陣の柱の間数が三十三あることからこう呼ばれます。創建当時の本堂は朱塗りの外装が施され、赤色顔料を使った塗装の痕跡が確認されています。内装も当時は極彩色の鮮やかな文様が施されていたらしく、今となってはその色彩をほとんど感じることはできませんが、本堂廊下の天井の梁にわずかに文様が残っています。
内陣はひと言、圧巻です。明障子(あかりしょうじ)から取り込まれる外光によって鈍く輝く千一体の千手観音像。一見すると数の勝負かと思ってしまうくらいの壮観な眺めです。34回も熊野御幸を行い、神仏を篤く信仰する後白河院でしたが、とりわけ頼ったのは観音菩薩といわれています。後白河院は「万の仏の願いよりも千手の誓いぞ頼もしき…」と大好きな今様でも歌われています。
中央に鎮座する高さ3.35mの木造千手観音坐像は、運慶の長男である湛慶(たんけい)の作品で、同族の弟子である康円、康清らを率いて作ったといわれています。檜材の寄木造りの巨大な坐像ですが、威圧感はなく、たいへん上品な面持ちの観音さまです。この中尊が作られた建長3年(1251)の時点で湛慶は82歳だったわけで、当時とすればかなりの高齢ですが、その作風から実際に彫っていたとみられています。
その2年前の建長元年(1249年)に京都で大火が起きました。姉小路室町から出火し、炎は鴨川を越えて蓮華王院まで焼き尽くしたといわれています。このとき僧たちの努力で124体の仏像が運び出されて無事でした。焼失した本堂と千体仏は後嵯峨天皇の勅命で建長3年(1251)から16年をかけて復元再興されています。千体仏の造像には慶派、円派、院派の在京仏師が総動員されたといわれています。
中尊の左右には各10段50列の千手観音菩薩立像が整然と居並びます。千手観音像は正式には「十一面千手千眼観世音菩薩」といいます。民衆の苦難を救うために十一面と千手千眼を備えているといわれますが、千とは無限の数を表していて、本当に千あるわけではありません。実際、三十三間堂の千手観音の手は40本で、1本で25の世界の救済を担当するそうです。ちなみに観音さまの手のひらにはちゃんと手相が彫ってあり、手のひらに眼が彫られているのを確認できるものもあります。
さらに内陣の最前列にはインドに起源をもつ28の神々と、その両脇に風神・雷神像が安置されています。これらの二十八部衆や風神・雷神は、もとはインドのバラモン教やヒンドゥー教や土着の神々で、ブッダが起こした仏教が隆盛していくなかで仏に帰依する形で仏教に取り込まれていったといわれています。
鎌倉彫刻というと威風堂々、筋骨隆々なイメージがありますが、三十三間堂の二十八部衆や風神・雷神は、千一体の観音様よりはるかに写実的、人間的で、どこか気品が感じられるのが印象的です。ちなみに三十三間堂の二十八部衆のなかで私がいちばん好きなのは密遮金剛像(みっしゃこんごうぞう)で、その構えも表情もとてもよく、北斗の拳のケンシロウと戦っても勝てそうな頑強さを感じます。
ところで千体の千手観音のうち、504体には足ほぞに作者名が記されているらしいのですが、多くの仏師によって作られただけあって仏像の面持ちが実にさまざまです。またその中には必ず会いたいと思う人に似た観音像があるともいわれています。
三十三間堂は後白河法皇の宿願でした。すべての仏像は東面して法皇の眠る法住寺陵を向いています。けれども法皇が生きた時代の仏像の多くは火事で失われてしまっています。鎌倉時代、湛慶らによって彫られたこれらの美しい仏像を、法皇は見たことがなかったのです。