木嶋坐天照御魂神社
(このしまにますあまてるみむすひじんじゃ)木島神社(このしまじんじゃ)とも呼ばれる木嶋坐天照御魂神社。本殿横に蚕養(こかい)神社があり、養蚕機織の神を祀ることから「蚕ノ社(かいこのやしろ)」の通称で呼ばれています。秦氏ゆかりの神社といわれていますが、下鴨神社の「元糺(もとただす)」とも呼ばれています。境内には珍しい三柱鳥居があります。
三柱の鳥居
社名・社号 | 木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ) 別称:木島(このしま)神社、蚕ノ社(かいこのやしろ) |
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住所 | 京都市右京区太秦森ヶ東町50 |
電話 | 075-861-2074 |
アクセス |
京福電車 嵐山線「蚕ノ社」下車徒歩5分 市バス 11系統「蚕ノ社」下車すぐ 京都バス 72,73,75,76系統「太秦天神川駅前」下車徒歩5分 地下鉄東西線「太秦天神川」下車徒歩5分 |
拝観料 | 無料 参拝自由 |
珍しい三柱鳥居のある、建角身命系の神社
嵐電「蚕ノ社」駅から東へ少し行くと通りに大きな石鳥居が見え、さらに住宅地のなかの参道を北へ行くと木島神社(このしまじんじゃ)にたどり着きます。境内に足を踏み入れると、一転して鬱蒼と樹々が茂り、静けさに包まれます。正面に舞殿がみえ、その奥に離れて本殿があります。また本殿の向かって右手には蚕養(こかい)神社があり、機織の祖神が祀られています。「蚕ノ社」とはこの神社にちなんだ呼称で、正式には木島神社が正殿。蚕養神社は東本殿と呼ばれますが、木島神社の摂社です。
木島神社を西に行くと秦河勝ゆかりの広隆寺が建っています。この地は太秦(うずまさ)と呼ばれ、古くから秦氏の大集落があったとされることから、一般的には木島神社も秦氏ゆかりの神社と考えられています。一方で、木嶋坐天照御魂神社の由緒記によれば、下鴨神社の鎮座地「糺」の名はここより移したものとされるそうです。この地は元糺(もとただす)と呼ばれていたので賀茂社に関係のある神社です。
『続日本紀』大宝元年(701)の記事には、「勅して、山背国葛野郡の月神、樺井神、木嶋神、波都賀志神等の神稲、今より以後中臣氏に給ふ」とあり、木島神社はこれ以前から存在していたことがわかります。またこの勅命により、木島神社などの神稲は中臣氏の管理下に移ったことがうかがえます。これは大宝律令にもとづいた中央政府による神祇政策の一端とも考えられています。さらに同じ年には、勅命により松尾大社も創建されました。
木島神社は『延喜式』神名帳に名神大社に列せられる古社で、祭神に、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の5柱が祀られています。ただし『延喜式』神名帳には「木嶋一座」とみえ、この社の正式名である木嶋坐天照御魂神社から、主祭神は天照御魂神(あまてるみむすひのかみ)と考えられています。
鴨俊春の著した『鴨県纂書』によれば「建玉依彦命ノ以末ハ葛野郡ニ住ス 日本紀ニ其苗裔 葛野主殿縣主部是ナリトアリ 木ノ嶋ノ里是ナリ 俗云元糺 木ノ嶋ハ今大秦ニ属ス」とあります。建玉依彦命とは「山城国風土記」に伝えられる賀茂建角身命(かもたけつぬみ・八咫烏)の子で、玉依姫の兄。つまり、もとは賀茂建角身命の子孫によって祀られていたことが記されているのです。そしておそらくその祭祀を秦氏が継承したものと思われるのです。
下鴨神社の摂社・河合神社では、玉依姫は多々須玉依姫(たたすたまよりひめ)と呼ばれ、神武天皇の母として当初は玉依彦の子孫らによって祀られていました。玉依姫の姉、豊玉姫が彦火火出見尊(ひこほほでみ)の妻となり、鵜茅葺不合命を生み、その鵜茅葺不合命を養育したあと結婚したのが玉依姫です。そしてその父、綿津見豊玉彦が建角身命です。あとから合祀されたと思われる5柱の神にも関連が窺えます。
賀茂社や松尾大社のページで述べていますが、私見では、建角身命は海神(わたつみ)の祖であり、子孫はワニ氏や葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしら)などに分かれ、一方、鴨県主は天櫛玉命(饒速日・天御影命)を祖とする物部氏同族とみています。『鴨県主家伝』や『鴨県纂書』では、葛野主殿県主部と鴨県主ははっきり区別されているのです。また、ウズマサと呼ばれた秦酒公は、建角身命の子孫と姻戚関係を結び、その際、秦氏に葛野を譲渡したという所伝があるといいます。建角身系の祭祀は秦氏によって引き継がれ、やがて秦氏の女系と結びついた物部氏の子孫である秦都理(はたのとり)が賀茂社神職の一流を担い、秦氏の巫女とともに松尾大社を奉祭したようなのです(松尾大社の頁に系図掲載)。
ところで、玉依姫は稚日女尊(わかひるめのみこと)の可能性があり、その名の通り海神には太陽信仰があります。一方、饒速日命の系統の氏族にも太陽信仰が窺えます(雷神の雲・雷光信仰、火も強い)。木嶋坐天照御魂神はアマテルミムスヒと呼ばれていました。木島神社を祀った元祖が建角身命の直系子孫であるのなら、この天照御魂神(あまてるみむすひ)は海神系の太陽神なのかもしれません。『広隆寺由来記』の鎮守三十八所には「木島 女正一位」と記されているのです。祀られたのは女神のようです。おまけに元糺と呼ばれているのです・・・。
境内の西側には泉池跡のくぼみが3つ続き、一番北の「元糺の池」に三柱鳥居が建っています。鳥居は以前、湧水の中に建っていましたが、今その水は枯れています。俯瞰すると正三角形の珍しい三柱鳥居で、パワースポットとしてもよく取り上げられています。ただし三柱鳥居は対馬の和多都美神社(わたつみじんじゃ)にもあります。そこでは彦火々出見尊と豊玉姫が祀られていますが、三柱鳥居は海神の祭祀の特徴ではないかと思っています。
江戸時代の『都名所図会』には、北の泉池から清水が勢いよく南の泉地へと流れている様子が描かれています。平安時代には祈雨の神事と禊(みそぎ)が行われ、その伝統は今も受け継がれています。御蔭山の麓にはワニ氏同族の小野氏が水の祭祀を行っていた磐座があり、木島神社も木島磐座宮と呼ばれていたようなので、同じような水の祭祀が行われていたのかもしれません。また、建角身命は森の大明神とも呼ばれ、森林の神さまでもあります。境内の元糺の森もその信仰を物語っているようです。訪れたときはひっそりとしていましたが、平安後期には『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に「稲荷も八幡も木島も 人の参らぬ時ぞなき」と歌われるほど参詣者を集めていたようです。
なお大和岩雄氏の研究によれば、松尾大社、木島神社、糺の森(下鴨神社・河合社)、比叡山(四明岳)を結ぶと一直線上に並び、比叡山から昇る夏至の朝日はこれらの神社を直刺す(たださす)と考えられています。
下鴨神社の社殿が建てられたのは奈良時代中期なので、一直線上に並ぶ神社の最後のピースが下鴨神社です。松尾大社の創建が勅命であるように、下社の社殿造営もおそらく国家の神祇政策であったでしょう。しかし松尾山山頂の磐座は、秦氏より前に、建角身命の子孫らによって祀られていたと思われるのです。また、三身社(三井社)も早くから蓼倉の里に祀られていました。そして実際に松尾大社から四明岳を直線で結ぶと、下鴨神社よりやや北の蓼倉町(三身社)のあたりを通過するので、やはり日読みは正確に行われていたとみています。
木島神社の北の双ヶ岡には6世紀後半から7世紀初頭に築かれたとされる古墳群があり、秦氏のものとみられています。『聖徳太子伝暦』2巻によれば、用明天皇2年(587)のいわゆる崇仏戦争(崇廃仏戦争ではないとも)で、秦河勝は厩戸皇子(うまやどのみこ)とともに物部守屋と戦って功を挙げたと伝えられています(真偽不明)。そのころにはすでに秦氏は太秦で勢力を揮っていたのでしょう。
東本殿の蚕養神社は、養蚕や機織りを営んだ秦氏ゆかりの神社と考えられています。『日本書紀』雄略天皇15年条に「秦酒公は絹などをうず高く積み上げて禹豆満佐(うずまさ)の姓(号)を賜った」と記され、翌16年7月条に「桑の育つ国県に桑を植えさせ、秦の民を遷して庸調を献上させた」とあります。また『新撰姓氏録』の太秦公宿祢の記事には、仁徳天皇が、秦王の献上する糸、綿、絹は、肌のように柔らかく暖かいと称賛したことが記されています。
養蚕は中国に起源をもち、弥生中期の早い時期に日本に伝わったといわれますが、古墳時代には渡来系の人々によって養蚕と絹織物の新技術が伝えられ、産業として発達しました。『古事記』には神々の頭部から五穀と一緒に蚕が生まれる場面があり、桑は食物と同様に重要とされていました。一方、秦氏には、蚕は3度姿を変え、死と再生を繰り返す不老不死の神と崇める信仰があったと考えられています。また蚕を崇める信仰はシベリア沿岸や中国北部などの北方アジアにもみられるそうです。
そんな蚕信仰ですが、皇極天皇の時代になると亜種も出ました。『日本書紀』皇極天皇3年7月条には、東国で蚕に似た虫を常世神(とこよのかみ)として、この神を祀れば貧しい者は富み、老いたる者は若返るといって民衆を惑わす大生部多(おおふべのおお)を秦河勝が討ったと記されます。「蚕に似た虫」は橘や山椒につくとされ、アゲハ蝶の幼虫とみられていますが、大生部多を信じた人々は虫を祀って歌い踊り、福を求めて家の財宝を投げうったとされています。まゆからアゲハ蝶が生まれるのをみて、美しい蘇りが信じられたのでしょうか。蚕から蛾に蘇るよりは、はるかに優雅です。
大生部多はある種の巫覡(シャーマン)と思われますが、当時、大生部直は東国を中心に居住していました。大生部は生部(みぶ・壬生)ともみられ、そうなると大生部多は上宮王家と結びつきのあった人物かもしれません。河勝が大生部多を討った前年、山背大兄王の上宮王家は蘇我入鹿の軍勢によって滅ぼされています。生駒に逃れた山背大兄王に対し、三輪文屋君は「深草屯倉に移り、そこから東国に行き、乳部(生部)をもって本陣を組めば巻き返しが可能」と進言していました。
秦氏の族長・河勝のいる太秦の秦氏宗家に対し、深草の秦氏は傍流ですが、影響力があったのでしょう。系譜によれば、深草の秦氏も物部氏と結びつきが深いので、私見により物部氏と同祖とみる三輪文屋君の進言はイミシンだと思っています。また、深草屯倉から東国乳部への連携は、深草の秦氏が東国乳部を指示できる立場にあったようにも受け取れます。しかし、山背大兄王は進言を容れず、自ら滅ぶ道を選んだとされているのです。