車折神社
(くるまざきじんじゃ)平安後期の儒学者、清原頼業(きよはらのよりなり)が祀られる車折神社は、後嵯峨天皇の大堰川行幸の際、頼業の廟祠前で牛車が石に当たって動かなくなり、その祠に「車折大明神」の神号が贈られたのがその始まり。その伝えから石の霊験が信仰されてきました。また境内には、芸の道を志す人々に人気の「芸能神社」があります。
拝殿前の紅葉
社名・社号 | 車折神社 |
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住所 | 京都市右京区嵯峨朝日町23 |
電話 | 075-861-0039 |
アクセス |
京福電車 嵐山線「車折神社」下車裏参道すぐ 市バス11系統「車折神社前」下車すぐ 京都バス 62,63,66,72,73,76,83系統「車折神社前」下車すぐ |
拝観料 | 境内参拝無料 |
公式サイト | http://www.kurumazakijinja.or.jp/ |
どんな約束も成就するという祈念神石
知らないと読めませんが「くるまざき神社」です。車折神社は嵯峨の地にあり、路線バスで行くと三条通に面する表参道(南側)の大鳥居前に着きます。嵐電なら「車折神社」駅のすぐ前の鳥居から裏参道(北側)を行くことになります。どちらからの参道脇にも摂社や末社がたくさん祀られていて、車折神社の本殿は両参道の中ほどに建っています。
平安時代後期の儒学者である清原頼業(きよはらのよりなり)を祀る車折神社は、石の霊験があらたかなことで有名です。この神社の小石を持ち帰って家で祀り、願いが叶うと、その石にもうひとつ別の石を添えて社頭に置くという信仰が古くから伝えられています。現在その「祈念神石」は社務所で授かることができ、願いを叶えるパワーストーンとして知られています。
車折神社の祭神・清原頼業は、平安時代後期の保安3年(1122)に京都に生まれ、学問に励んで明経博士(みょうぎょうはかせ)となり、太政官の大外記(だいげき)の官職を24年間務めた有能な人物でした。大外記とは詔勅の校了や上奏文の起草、朝廷行事に関する調査や文書作成、管理などを行う外記(げき)という官職のなかで最上位の役職です。また頼業は高倉天皇の侍読を務めたこともありました。
その頼業が文治5年(1189)に亡くなると、子孫は清原氏の所領であるこの地に頼業の廟を建て、その後「宝寿院」という寺を営んで清原家の菩提寺としました。頼業が桜を愛でたことからこの場所は「桜の宮」と呼ばれたともいわれています。
のちの鎌倉時代、後嵯峨天皇の大堰川行幸のとき、天皇を乗せた牛車が頼業の廟前を通ろうとすると、轅(ながえ・牛車の先端の棒)が石につかえて折れてしまい車が動かなくなったそうです。伴の者が尋ねると頼業の祠が奥にあることがわかりました。これを知った天皇は頼業に「車折大明神」の神号を与えたといわれています。また車を止めた廟前の石は「車前石(くるまざきいし)」と呼ばれるようになりました。これが車折神社の縁起とされています。このほかにも同じような伝承があり、後嵯峨天皇が車を降りて祠に一礼されると車が動き出したとか、頼業の廟所を通りがかったのは亀山天皇であったとする伝えもあります。
清原頼業の祖先は、天武天皇の皇子、舎人親王(とねりしんのう)といわれています。舎人親王は『日本書紀』の編纂を主宰した人物で、ひ孫の清原夏野は『令義解(りょうのぎげ)』や『日本後記』の編纂を手掛けたことでも知られています。その4世孫の清原広澄(きよはらのひろずみ)が明経博士(みょうぎょうはかせ)となって以降、子孫は明経道を教授し、朝廷においては大外記を世襲したそうです。頼業は、夏野の9世孫にあたり祐隆を父にもちます。
ちなみに、伝えられる系譜によれば、清原夏野のひ孫の代から分かれて、その3世孫に清少納言が生まれています。清少納言は平安中期の人で、没後100年ほど経ったころに頼業が生まれたことになります。清少納言は清原家の一族として境内に祀られています。
清原頼業が生きたのは、平安後期から末期にかけてのまさに乱世の時代でした。当時は上皇が院政を執るようになり、藤原氏の摂関政治は難局を迎えていました。源氏や平氏が武門として台頭していく時代でもあります。頼業の父、祐隆は明経道を修め、助教、直講、音博士を歴任した人物でした。父から学問を教え込まれた頼業は、儒家経典のなかで特に『左伝』『礼記』に造詣が深かったといわれ、経史の振興を目指した藤原頼長(ふじわらのよりなが)の知遇を得ていました。
当時、苛烈な人柄で悪左府(あくさふ)と呼ばれた藤原頼長は、博学の人でもありました。頼長は交遊する学者を頻繁に自邸に招いて経史の研鑽に努めたといわれています。清原頼業もこれに招かれ頼長の信頼を得て、29歳のとき頼長の推挙により直講に任じられました。また頼長は、頼業を幾度も信西(藤原通憲)のもとへ送り、やり取りをしていたといわれています。
その時代、信西も頼道と双璧をなした博学多才の人であり、遣いに出された頼業は、信西との交わりのなかで政見や時評について意見を交わしたとも伝えられています。しかし結局、崇徳上皇と結びついた頼長と、雅仁親王(後白河)の擁立を画策した(といわれる)信西は対立し、保元の乱で頼長は没し、平治の乱で信西も失脚して自害してしまいます。
一方、頼業の深い学識は時の為政者たちに頼られ、天変地異や政変などが起こるたびに見解を求められたといわれています。九条兼実もことあるごとに頼業の博識を傾聴し、「和漢の才を吐く、誰か敢えて肩を比せんや、誠にこれ国の大器、道の大棟なり」と『玉葉』に綴っていました。また頼業はたびたび予言めいたことを語り、それが現実化したこともあったと伝えられています。
頼業の没後、宝寿院に建てられた廟はしばらく子孫によって祀られていました。車折神社と呼ばれて一般庶民に信仰が広まるのは儒学が盛んになった江戸時代以降のようです。
明治に入ると神仏分離によって宝寿禅寺から独立した車折神社は荒廃してしまいます。それを嘆いて再興したのが富岡鉄斎でした。文人画家として有名な鉄斎は儒学者でもあり、清原頼業を敬慕していたといわれています。鉄斎は明治21年(1888)から明治26年(1893)まで車折神社の宮司を務めました。それ以前には天理の石上神宮(いそのかみじんぐう)の小宮司や、堺の大鳥大社の大宮司を務めたことがありました。ただ、初めて神職に就こうとした神戸の湊川神社では、「宮司」に赴任と聞いて名乗りを上げたところ、配属は権禰宜(ごんねぎ)だったため1日で辞めたそうです。
富岡鉄斎が車折神社の宮司になった明治21年(1888)は、計らずも祭神700年祭の年でしたが、神社はひどく寂びれていたといいます。鉄斎は自ら絵を画き、知り合いの画家や書家や陶芸家に作品の寄贈を頼み、それらを有志に配って資金を調達し、なんとか無事に記念祭を斎行させたそうです。本殿の扁額や表・裏参道の社号標は鉄斎の筆によるものです。
その後、車折神社は人々の崇敬が広まるとともに御神徳もどんどん増していったといわれています。創祠当初は主に病気平癒が祈願されていましたが、現在では、学問の上達をはじめ、約束が守られる神さまとしても厚く信仰されています。また頼業の名にちなんで、お金が「寄り」、商いが「成る」ともいわれています。会社経営においても契約が守られ、集金が滞ることもなく、家計のやり繰りもうまくいき、結婚の約束なども成就する…となるようです。