城南宮
(じょうなんぐう)平安京遷都の際、国家の安泰、京都の守護を願って鳥羽に祀られたという城南宮は、方除けの神様として広く市民から信仰されています。また毎年春と秋に「曲水の宴(きょくすいのうたげ)」が催され、平安時代の貴族たちの風流な歌会を偲ぶことができます。四季折々の花が楽しめる庭園「楽水苑」も見どころです。
本殿拝所
社名・社号 | 城南宮 |
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住所 | 京都市伏見区中島鳥羽離宮町7 |
電話 | 075-623-0846 |
アクセス |
京都駅から地下鉄・近鉄「竹田」下車 徒歩15分 または、竹田駅から市バス(南1,南2系統 )で「城南宮東口」下車 京都らくなんエクスプレスバス 京都駅八条口E1乗り場から乗車約15分 京阪電車 宇治線「中書島」から 市バス 19に乗換「城南宮」下車、 または、南3に乗換「城南宮東口」下車 |
境内拝観 | 自由 |
神苑拝観 | A期間:2/18-3/22(しだれ梅と椿まつり) 中学生以上1,000円 小学生600円 B期間:1/1-2/17, 3/23-6/30, 9/1-12/31 中学生以上800円 小学生500円 C期間:7/1-8/31(北神苑のみ公開) 中学生以上300円 小学生300円 障害者手帳提示で割引あり |
公式サイト | http://www.jonangu.com/ |
方除けの神社、城南宮の成り立ちにまつわる諸々の話
京都で方除けといえば、認知度No.1なのが城南宮です。長旅に出るときや引っ越すとき、家を建てるときや車を買い替えたときなど、城南宮の神さまに頼っておけば、取りあえずは安心といわれています。そんな信仰は平安時代から続いていて、高貴な人々は、方位・方角の災いを除いてくれるという城南の神さまに、旅の安全を祈願してきたといわれています。
城南宮は京都市の南部、鳥羽に位置します。そこは西に桂川が、東に鴨川が流れ、かつて南には巨椋池(おぐらいけ)が横たわる水郷でした。鳥羽は人々や物資の行き交う水陸交通の要衝だったため、早くから開け、絶え間なく人々が暮らしてきた土地といわれています。鳥羽一帯からは縄文時代晩期、弥生時代、古墳時代、奈良・飛鳥・平安時代の遺構や遺物が出土し、縄文期の石器には漁労に使われたとみられる石錘(せきすい)なども見つかっています。
平安時代の応徳3年(1086)、白河上皇は院政の拠点として、京洛南端の羅城門から約3km南の鳥羽の地に離宮を造ることを決め、建設を始めました。鳥羽離宮の広大な敷地には御所や御堂など多くの堂宇が建ち並び、自然の池に手を加えた巨大な苑池もあったそうです。周辺には公家の山荘があり、近くには近習、卿相、侍臣、地下雑人らの家も建てられ、その様子は「都移りのごとし」と『扶桑略記』に書かれました。平安時代中期、城南宮は離宮の敷地内にありました。
皇城の南、御所の裏鬼門に位置する城南宮は、社伝によれば、平安京遷都の際、都の守護と国家の安泰を願って創建されたといわれています。神功皇后が三韓征討の際、軍船上に立てた御旗はのちに宮中に納められ、その後に神祠を建て、その旗とともに息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)と八千戈神(やちほこのかみ)の御霊を祀ったのが始まりと伝えられています。そして平安遷都後に国常立尊(くにとこたちのみこと)を合祀して城南宮とされたようです。
神功皇后が立てた旗の印は太陽と月と星を組み合わせたもので、城南宮の「三光の御神紋」と呼ばれています。本殿の主祭神は、国常立尊、息長帯日売命、八千戈神で、息長帯日売命は神功皇后のこと。一方、八千戈神は大国主命の別名とされています。
ところが『延喜式』神名帳の紀伊郡には城南宮の名は見当たらず、その代わりと言っていいのか、真幡寸(まはたき)神社2座が小社として列せられていました。現在、真幡寸神社は城南宮の摂社となっていて、真幡寸大神と応神天皇が祀られています。『日本紀略』弘仁7年(816)7月条には「飛鳥田神、真幡寸神、官社の例に預かり」とあり、続けて「鴨別雷神(かもわけいかづちのかみ)の別名」ともされています。以後、官幣を受けていることから、真幡寸神社は城南宮の前身とも考えられています。ちなみにいつ頃からか飛鳥田神社も城南宮の摂社となっていました。近世までは城南宮と呼ばれていたところ、明治10年(1877)に真幡寸神社に公定され、昭和27年(1952)に再び城南宮と改められています。
一説に、真幡寸神社は、平安遷都以前からこの地に住んでいた秦忌寸氏(はたのいみき)の氏神として、鳥羽郷真幡木里(まはたきのさと)に纛神(はたほこ・はたたきのかみ)を祀ったのが始まりとされ、その旧地は現在の若宮八幡宮前(竹田真幡木町)といわれています。
またそれとは別に、深草の藤森神社の社殿の隣に「元真幡寸社」にあたる古社があり、それが西方に転出したという伝えもあります。紀伊郡には秦忌寸らと関係の深い伏見稲荷大社があり、稲荷大社は藤森神社とも関係があります。
別雷神は鴨県主が祀った神ですが、鴨県主の外戚にあたる賀茂建角身命(かもたけつぬみ)を祖とする氏族らも、建角身命の外孫の別雷神を祀っていました。物部氏や物部氏系の鴨県主と、海神系(ワニ氏系)の建角身命の子孫、そして渡来系の秦氏それぞれの氏族間で姻戚関係が伝えられていて、秦忌寸を賜姓された物部氏系の鴨社氏人(秦都理など)もあったようです。
下鴨神社に伝わる『鴨県纂書』によれば、建角身命が鴨川村に住んだ頃に、上鳥羽・下鳥羽・竹田のあたりを領したことが記されています。建角身は八咫烏ですが、この地に住んだことにより鳥羽の邑と称され、竹田は建角身の田があったことから竹田と呼ばれたとも…。その後、応神天皇の御世に建角身命の枝葉氏族を称する中島県主が、中島(城南宮)のあたりに居住していたとも書かれています。鴨族の神が祀られたことは、古い時代に鴨族の子孫が居住したという根拠にはなりそうです。そして院政期になり、鳥羽離宮が造営されたことによって、真幡寸神社や飛鳥田神社が離宮の敷地に取り込まれ、城南宮とされたとも考えられています。
なお、境外摂社となっている飛鳥田神社は、伏見稲荷大社の一社家であった荷田氏の祖・荷田龍頭太(かだのりゅうとうた)が遠祖の霊を祀ったものとされています。一方、伏見稲荷大社の古伝では、飛鳥田神社の祭神は建角身命とされ、柿本社とも呼ばれていました。上古、柿本社の社前には、大木の柿の木があったとされ、ワニ氏から出た柿下朝臣(柿本氏)にも同じ所伝があります。また、荷田氏は秦氏庶流の己智氏の流れともいわれており、松尾大社や木島神社と同じく、海神の建角身系の祭祀が秦氏に継承されたようにも思われるのです。すると、真幡木大神も、秦氏が祭祀を交代してからの神号なのかもしれません。
城南宮は、平安中期には城南寺の鎮守社であったといわれています。離宮造営中の寛治元年(1087)に白河上皇の行幸があったとされ、また『中右記』には、康和4年(1102)9月20日に白河上皇が「鳥羽城南寺明神御霊会」を見物するために鳥羽殿へ行幸されたことが記されています。平安時代後期には「城南寺明神」が、城南宮の神として崇められていました。
「城南寺明神御霊会」では、競馬(くらべうま)や流鏑馬が盛大に行われていました。永暦元年(1160)には神輿の渡御をはじめ、数々の芸能が奉納され、鳥羽上皇が祭礼を見物されたことが伝えられています。この御霊会は、城南宮の祭礼「城南祭」として今に受け継がれ、毎年10月の第3日曜に下鳥羽、竹田、上鳥羽の3基の神輿が氏子地域を渡御します。城南祭は古来、氏子が祭でたくさんの餅を振る舞ったことから「餅祭り」と呼ばれ、前日には餅つき奉納があります。ちなみに餅といえば、ワニ氏同族の小野氏や春日氏、柿本氏らの祖である米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)は、餅(しとぎ)づくりの始祖といわれています。
また鎌倉時代の承久3年(1221)には、幕府打倒を決意した後鳥羽上皇が、城南寺流鏑馬揃えを口実に兵を集め、北条義時追討の院宣を発し、承久の乱へと突入したという有名なエピソードもあります。なお『吾妻鏡』によれば、実際に1700騎の兵が集まったのは、洛中の高陽院殿です。
承久の乱のきっかけをつくった後鳥羽上皇は中世屈指の歌人でもあり、『新古今和歌集』の編纂を命じた人でもあります。上皇が城南明神に対し、天下泰平と降雨を祈ったときに詠まれた歌があります。
つたへ来る 秋の山辺の しめの内に
祈るかひある あめの下かな
これはきっと、朝廷の天下(あめのした)を祈った歌でしょう。でも祈った甲斐なく?討幕は失敗し、上皇は隠岐へ流されてしまいます。
院政期には歴代上皇や貴族による熊野詣が盛行しました。白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回も熊野御幸(くまのごこう)をされています。その際、鳥羽離宮を熊野詣の出立地として7日間滞在し、身を清め、旅の無事を城南寺明神に祈願して出かけたと伝えられています。離宮は方違え(かたたがえ)を行う場所として選ばれていたのです。
平安時代、方違えは陰陽道にもとづいて行われていましたが、祭神の神功皇后も、新羅から帰還して都に戻る途中、いったん、紀の国に向かって方違えみたいなことをされています。武内宿禰と応神天皇も同様で、それ以前の神武東征でも同じようなルートが伝えられています。熊野の地が重要だったためでしょうが、方違えや方角の神さまの代表として、神功皇后が祀られたのかもしれません。なお、古事記による神功皇后の系譜をみると、鴨族の血の影響をかなり受けているように思われるのです。
応仁の乱後、鳥羽離宮とともに城南寺も荒廃して廃絶し、鎮守社だけが残ったといわれています。江戸時代になり神社は復興され、城南宮(城南離宮皇神とも)と呼ばれて、祭礼も一層の賑わいを見せたそうです。幕末の文久3年(1863)には孝明天皇が石清水八幡宮行幸の折に、城南宮に立ち寄られていますが、この行幸は攘夷祈願のためだったといわれています。また慶応4年(明治元年・1886)の鳥羽伏見の戦いで、城南宮は新政府軍の本営となり、薩摩藩が城南宮参道に大砲を備えて、入京する旧幕府軍を迎え撃った場所でもあります。
本社社頭前の鳥居は、笠木の上に屋根が葺かれた珍しい様式で、本社社殿も、軒唐破風つきの向拝をもつ前殿が、後部の本殿に連結され、左右に翼廊の伸びるユニークな建築物です。また社殿を取り囲むように広大な庭園「楽水苑」がめぐらされ、季節の花々を楽しめるほか、「平安の庭」では春と秋に「曲水の宴」が催され、この日はたくさんの参拝者が詰めかけます。