鈴虫寺
(すずむしでら)「鈴虫寺」は妙徳山華厳寺の通称で、臨済宗の禅寺です。その名の通り堂内では、年中鈴虫が鳴いていて、その数5千~1万匹。境内には草鞋(わらじ)を履いたお地蔵さまが祀られています。一人ひとりの家まで歩いて来られ、願いを叶えてくださるというお地蔵さまです。
鈴虫寺(華厳寺)の石段
山号・寺号 | 妙徳山 華厳寺(臨済宗単立) |
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住所 | 京都市西京区松室地家町31 |
電話 | 075-381-3830 |
アクセス |
阪急電車嵐山線「松尾大社」下車 松尾大社から徒歩約15分 市バス 28系統「松尾大社前」下車徒歩15分 29系統「苔寺道」下車徒歩5分 京都バス 63,73,83系統 終点「鈴虫寺」下車徒歩3分 |
拝観時間 | 9:00-17:00(16:30受付終了) |
拝観料 | 高校生以上500円 中学生・子供300円/(茶菓付) |
公式サイト | https://www.suzutera.or.jp/ |
華厳寺を開いた鳳潭(ほうたん)上人
山門を入るとその参道脇に、必ず1つだけは願いを叶えてくださるというお地蔵様が祀られています。わらじを履いているのは、ひとりひとりの家まで願いを叶えに歩いて来られるからだといわれています。
鈴虫寺の正式名は「妙徳山 華厳寺」。現在は臨済宗の禅寺ですが、その名が示すようにもとは華厳宗の寺院でした。江戸時代中期の享保8年(1723)、この地に華厳寺を開いたのは鳳潭(ほうたん)上人です。鳳潭は、自由かつ奇抜な思想をもった豪傑で、論敵もつくりましたが、とても人情に厚い僧侶であったようです。
鳳潭は万治2年(1659)に摂津に生まれ、12歳で黄檗宗の慧極道明(えごくどうみょう)禅師のもとで出家、16歳のとき鉄眼(てつげん)禅師の門下となったと伝えられています(異伝では明暦3年(1657)生まれ、越中出身とも)。その後、比叡山に上って天台教学を学び、さらに南都の興福寺や東大寺にも学んで、宗派にとらわれず幅広く仏門の教義を研鑽。21歳のとき、鉄眼にそれまで廃れていた華厳宗の復興を望まれ、その意志を固めました。宝永年間(1704-11)の初めに江戸へ下り大聖道場で華厳の教えを講じると、諸宗の学徒たちが競って授業を受けに来たといわれています。
幕府公認のもと、華厳寺を開いた鳳潭は、師の立場から膨大な著書で教えを説きました。するとその内容に対して、真言宗、浄土宗、浄土真宗、天台宗、日蓮宗の学僧たちがこぞって反論を著し、応酬がつづく事態になりました。しかしそのおかげで、当時停滞していた仏教界は大いに活性したようです。
そんな鳳潭ですが、実際に会った人とは胸襟をひらいて親しく交わるひとでもありました。南都般若寺の論敵が病気と聞くと、見舞いに赴いて涙したことも。また、鳳潭の勉学への情熱とユニークな発想を示す逸話もあります。比叡山で経典の講義に出ていた若き学僧時代の話です。
あるとき大僧正の説く天台四教義があまりにも難解で、初め千人ほどいた聴講生が次々に脱落し、ついに鳳潭ひとりになってしまいました。大僧正は「せめて頭数が30人、50人いるならまだしも、たった一人のために大講堂で講釈するのは面目が立たないからやめにしよう」と切り出します。しかし四教義を極めたい鳳潭は、明日30~40人ほど生徒を連れてくるのでなんとか講義を継続するようお願いしました。
翌日、講堂には伏見人形がずらりと並んでいました。大僧正は、わしを馬鹿にするつもりか、と立腹しました。すると鳳潭は「これまで参加していた生徒たちも、恰好だけは僧侶にみえて、実はこの人形と同じように学びの精神などなかったのです。それでも講義してくださったのだから、これからも人形と私を相手に続けてください」と懇願したところ、大僧正は鳳潭の熱心さに感心して講義を続けたと伝えられています。
現在禅寺である鈴虫寺では、お茶と茶菓をいただきながら法話をお聞きします。これは第8代目住職の台巌(たいがん)和尚が始められて以来続いているそうです。また、台巌和尚は秋口に鳴く鈴虫の軽やかな声を聴いて悟りを開くきっかけを得られ、以後、部屋の温度や照明を工夫し、何千匹もの鈴虫を育てるようになったとか。鈴虫寺の僧侶の方々は説法がとても上手です。内容は日々異なるようですが、参拝した日、ユーモアたっぷりのお話には、200人ほども入る客殿で何度も笑いの渦が沸き起こっていました。