西本願寺
(にしほんがんじ)正式名称は「本願寺」。親鸞を宗祖とする浄土真宗本願寺派の本山です。「本願寺」は江戸時代に東本願寺が分立して、俗に「西本願寺」と呼ばれるようになりました。西本願寺の境内には国宝の伽藍や文化財が数多く建ち並んでいます。
御影堂(ごえいどう)
山号・寺号 | 龍谷山 本願寺(浄土真宗本願寺派) |
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住所 | 京都市下京区堀川通花屋町下ル |
電話 | 075-371-5181 |
アクセス | JR京都駅から徒歩15分 市バス 9,28,75系統「西本願寺前」下車 18,71,206,207系統「島原口」下車 206,208系統「七条堀川」下車 |
拝観時間 | 5:30-17:00 |
拝観料 | 無料 |
公式サイト | https://www.hongwanji.kyoto/ |
宗祖・親鸞(しんらん)とその後の本願寺
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、正式名を「本願寺」といいます。宗祖親鸞を開山とし、1万を超える末寺と約800万人の信者(平成29年度現在)を抱える巨大な教団です。境内には本堂である阿弥陀堂や、御影堂、対面所や書院などの大伽藍が建ち並んでいます。これらは豊臣秀吉により現在の地に移された天正19年(1591)以降に建てられたもの。親鸞入滅から10年経った文永9年(1272)に、親鸞の末娘の覚信尼(かくしんに)と東国の門弟らによって大谷に建てられた親鸞の廟堂がその始まりといわれています。
本願寺の法主は現在まで親鸞の血統によって受け継がれています。これは浄土真宗が当初から妻帯を認めてきたことにもよりますが、覚信尼が廟堂の土地を寄進する際、親鸞の廟堂は、門弟たちの同意のもと覚信尼の子孫(つまり親鸞の血統)によって管理されるよう定めたことに由来します。覚信尼の没後、覚信尼の子であり異父兄弟である覚恵(かくえ)と唯善(ゆいぜん)の間で相続争いが起きましたが、延暦寺配下の青蓮院の裁判のもと、正式に廟堂の留守職に就いたのが覚信尼の孫(親鸞のひ孫)、覚如(かくにょ)でした。覚如は廟堂を寺院化し、親鸞の教えの伝道に努めました。
宗祖親鸞の没後、親鸞の門弟によって真宗は各派に別れ、それぞれの派で親鸞の伝記が作られました。本願寺には覚如(かくにょ)の制作による『本願寺聖人伝絵』が伝えられています。
寺伝によれば、親鸞は承安3年(1173)に藤原氏の流れをひく日野有範(ひのありのり)の子として生まれ、9歳のとき、伯父の日野範綱にともなわれて慈円のもとで出家、範宴(はんねん)と名乗ったとされています。その後、比叡山横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で堂僧として20年間修行に励みました。
しかし悟りへの道が開かれないことから29歳のときに下山し、六角堂に百日参籠して如意輪観音から夢告を受けたあと、吉水の法然に師事します。建永2年(1207)の「承元の法難」で、親鸞は越後へ流罪となったとされています。そのころ三善為教(みよしためのり)の娘、恵信尼(えしんに)と結婚し(再婚説もあり)、子どもは7、8人いたようです。越後から信濃、上野、常陸へと移って民衆の教化に努め、嘉禎元年(1235)ごろ京都に戻り、住まいを転々としながら著作活動に励み、弘長2年(1262)に90歳で亡くなったといわれています。
親鸞は法然の弟子となり、当初は法然の教えそのものを広めようとした人でした。しかしその教えを突き詰めていくなかで、やがて思想を変容させていきます。
法然は善導(ぜんどう)の『観経蔬』四十八願の第十八願により、阿弥陀如来の本願力を信じて専ら念仏を称えれば、誰でも浄土に往生できると説き、専修念仏を広めて衆生済度の道を開きました。その際、自力の善行を行わない「悪人(=凡夫)」のほうが弥陀の本願に叶っていて往生が容易いとも説きました。しかしこれにより信者らの間では、悪を犯したほうがいいとする造悪無碍(ぞうあくむげ)を謳う者も出ました。また、弥陀の本願を信じれば1回の念仏でも往生できるのか、多く念仏を称えたほうが往生が叶いやすいのか、弥陀の本願への「信」、念仏の「行」のどちらが重要なのかなどの疑問も生まれました。
法然は、弥陀の本願は人の善悪を差別することはないが好んで悪をつくることは仏の弟子のすることではなく、心の行き届く限り罪を恐れ、善に進むようにと説きます。また、一心に専念して1度でも念仏を称えれば往生できるが、数が問題なのではなく、ただ弥陀の誓いを深く信じ、生涯をかけて念仏を実践することが重要といい、信を離れての行も、行を離れての信もないといいました。しかし法然の没後、弟子から一念義や多念義をとなえる門流も出ました。
親鸞は越後で流罪を解かれたあと、愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と称して非僧非俗の立場で東国の庶民に法然から受け継いだ教えを伝道します。こうして常陸、下野、下総、奥州を中心に信仰集団が形作られていきますが、門徒の間では法然の弟子が抱いたのと同様の疑問・異議が生まれました。元仁元年(1224)に草稿本が成立したとされる『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』は、それらの問題に対処するために、親鸞がさまざまな経典を引いて撰述したと考えられています。
親鸞は嘉禎元年(1235)、62歳のころに京都に戻ったといわれています。僧籍には復帰せず、東国の門弟からの懇志を生活の糧としていたようです。また東国の門弟たちとは書状で疑問に答えるなどの形で晩年まで指導を続けました。その内容はやがて信心に重点を置き、その「信」も弥陀の計らいによるとして、弥陀にすべてを任せる絶対他力を強調するものとなっていきます。そして仏の計らい(廻向)により信心が定まったそのとき、人は正定衆(しょうじょうじゅ)の位に入り、往生が約束されると説きました。また浄土に生まれて悟りに至ると今度は衆生を救いにこの世に戻ってくるという還相廻向も示しています。
実際は、他力も、信心の重要性も、悪人正機も、さらに往相還相廻向の思想も、平生に往生が決定するという思想も、親鸞が初めて唱えたことではありませんでしたが、適用の仕方が師の法然とは異なっていったようです。親鸞は法然の教えに忠実にあろうとして煩悩具足の自身を強く自覚し、阿弥陀の本願を信じて頼れば頼るほど、自力の計らいをことごとく否定しました。往生を期待して称える念仏という行為も自力のひとつと認めています。そして最終的に、一度「信」が定まれば、その後の念仏は仏恩報謝として称えるものと位置付けました。
また「信」を得て正定衆の位に達しても、煩悩は生涯尽きることがない。悪に走る者は過去世の因縁によってそうするものだといい、さらに命あるものを憐み、愛おしみ、育むといった聖道門の慈悲では救済に限界があり、浄土門で弥陀の救いによって浄土に生まれ、仏となって救いの手を差し伸べるのが徹底した慈悲だと説きます。それは、親鸞が晩年たどり着いた自然法爾(じねんほうに)の境地であり、還相廻向の思想に結びついていきます。自然法爾とは人智を加えず阿弥陀如来の計らいにすべてを任せて生きることを言うようです。
弟子の唯信(ゆいしん)が「念仏を称えても踊りあがるような歓喜の心など起こらず、急いで浄土に往きたいとも思えません。どうしたものでしょう」と尋ねたとき、親鸞も「お前もか、私もだよ。きっとそれは煩悩のしわざだ。でも阿弥陀如来はそんな煩悩を捨てられない愚かな人間を救ってくれるんだから頼もしい。往生は間違いなし」という意味の答えを返しています(『歎異抄』第9条)。
東国では造悪無碍(ぞうあくむげ)を中心とする異議をめぐって動揺が収まらなくなったため、親鸞は子の善鸞(ぜんらん)を派遣して直接指導させました。しかし善鸞は自分だけが親鸞から秘門を教わったといい、弥陀の本願を「萎んだ花」だと否定してこれまでの親鸞の教えを覆したといわれています。結果、善鸞の教説を信じた多くの門徒たちが親鸞の門弟を離れて善鸞につきました。この東国門徒の混乱を収めるため、親鸞は康元元年(1256)、善鸞を義絶したといわれています(してない説もあり)。このとき親鸞は84歳でした。
弘長2年(1262)、親鸞が90歳で亡くなると、東山の鳥辺野で荼毘に伏され、その北の大谷に遺骨が納められました。一基の石塔に柵をめぐらせただけの簡素なものだったようです。その10年後に、覚信尼や門弟たちによって吉水の北に廟堂が建てられました。そしてこれが本願寺の起源となります。
覚如は本願寺の法脈の正統を示すため、如信(にょしん)を擁立して、親鸞-如信-覚如を「三代の伝持」とし、自らは本願寺第3世となります。如信は善鸞の子であり、覚如の父、覚恵が師と仰いだ人物であったようです。覚如は諸宗を学び興福寺一条院で出家したあと、如信から親鸞の教えを受けたといわれています。また、父の覚恵とともに親鸞の遺跡を巡礼し、東国の門弟にも学んでいます。なお、寺院を本願寺と号したのは元亨元年(1321)頃といわれています。覚如は本願寺を中心とした浄土真宗の興隆を目指しました。しかし門弟からの支持は得られず本願寺は衰微していきました。
人の集まらない本願寺を巨大教団へと発展させたのは長禄元年(1457年)に第8世となった蓮如(れんにょ)でした。彼は継母のもとで幼少期を過ごし、貧困に耐えながら苦学して親鸞の教えを学んだと伝えられています。弟子をとらず門徒を同朋と呼んだ親鸞の姿勢を踏襲し、蓮如は平座で民衆に説法し、誰にでもわかるやさしい言葉でまとめた御文(おふみ・本願寺では御文章)で親鸞の教えを説きました。蓮如は初め近江の堅田に教線を伸ばしますが、これに反発した山門衆徒によって本願寺を破壊されます。その後蓮如は北陸の吉崎に拠点を移し、惣村単位で門徒が集まって教義を学ぶための「講」や「道場」を組織して急速に多くの門徒を獲得していきました。
村ごとに団結した門徒はやがて政治力を拡大させ、武力行使に訴えて守護や真宗他派とも覇権を争います。いわゆる一向一揆です。応仁・文明期以降、戦国大名が台頭し、下剋上の空気も一揆を後押しします。とりわけ富樫政親(とがしまさちか)を滅ぼした加賀の一向一揆は全国の大名に衝撃を与えました。蓮如はたびたび掟を発布して反体制的な動きを禁止しますが、門徒たちの暴走を制止することはできませんでした。蓮如は吉崎を退去して河内の出口に移り、その後、山科本願寺を造営して文明13年(1481)に完成させます。蓮如晩年の明応5年(1496)には大坂御坊(のちの石山本願寺)も起工されています。
本願寺第10世の証如の時代、山科本願寺は細川晴元が手を組んだ法華宗徒に焼き討ちされ、本願寺は大坂の石山に本拠を移します。元亀元年(1570)には、第11世顕如(けんにょ)のもと、戦国領主化した本願寺と、全国統一を目指す織田信長の対立により石山合戦が起こりました。石山本願寺は難攻不落の城と呼ばれましたが、最終的に信長の兵糧攻めに屈しました。幾度かの停戦を繰り返しながらも10年間におよんだ戦争は、天正8年(1580)、正親町(おうぎまち)天皇の調停により和議が成立、顕如が石山本願寺を退去することで終結しました。その後、信長が倒れ、豊臣秀吉により、天正19年(1591)、本願寺は大坂天満から現在の地に移されました。本願寺が西と東に分裂するのはこの後でした(東本願寺で詳述)。
門跡寺院時代の遺構の宝庫・西本願寺
本堂である阿弥陀堂と御影堂は渡廊下でつながれていて靴を脱いで自由に参拝できます。734畳敷という御影堂はとにかく巨大な建造物です。本願寺は顕如の時代に門跡となり、朝廷との関係が深かったため、これらの宗教施設以外に、格式高い豪壮な書院建築群が並んでいます。
西本願寺の南面に伏見城から移築されたと伝わる国宝の唐門があり、勅使門として使われていました。入母屋造りで前後に大きくうねる唐破風(からはふ)を配し、黒漆塗に彩色彫刻が施された豪華絢爛な四脚門です。極彩色の立体的かつ精緻な透かし彫りは派手ですがとても美しいです。日の暮れるのも忘れて見入ってしまうことから「日暮門(ひぐらしもん)」とも呼ばれています。
なお、国宝の白書院や黒書院、飛雲閣の建つ滴翠園(てきすいえん)など、特定の区画は特別公開時に拝観できます(現在は通常非公開)。筆者はこれまでに2度拝観したことがありますが、案内がとても分かり易かったです。
江戸時代に建てられた本願寺書院は豪壮華麗な書院造の様式で、寺院というより宮殿のようです。ここには「鴻の間(こうのま)」と呼ばれるだだっ広い対面所と白書院があります。対面所の横の東狭屋の間(ひがしさやのま)は廊下状のスペースで、そこから「虎渓(こけい)の庭」が見えます。枯山水といわれますが、たくさんのソテツが植えられていて、南国のような華やかさがありました。またその天井に描かれた様々な書物のなかに、1匹のネコが描かれた巻物があり、大事な書物をねずみに齧られないよう見張っていて、どこから見ても目が合うことから、その猫は「八方睨みの猫」と呼ばれています。
対面所「鴻の間」や白書院などにはきらびやかな金碧障壁画が施されています。これらは狩野派の渡辺了慶(わたなべりょうけい)一門の筆によるもの。また、書院の南北には能舞台があり、白書院前の北能舞台は現存する最古のもので、対面所前の南能舞台は現存する最大のものといわれています。絢爛な書院とは対照的で、能舞台の簡素な美しさが際立っていました。
境内の東南隅にある飛雲閣は、池泉回遊式の庭園・滴翠園(てきすいえん)の池の中に建つ三層柿葺の楼閣で、池に建っているので1階には舟入の間があります。屋根は非対称の変化のある造りで、ほかに類を見ない珍しい建築物です。なお、寺伝によれば桃山時代の建築物とされていますが異説(江戸時代)もあるようです。通常非公開なので、中を観ることができません。また、庭園や建物の外観でさえ撮影できないのが少し残念でした。