銀閣寺
(ぎんかくじ)大文字のある如意が岳の麓に建つ銀閣寺は、もとは室町幕府8代将軍・足利義政が隠棲するために自ら造営した東山山荘でした。寺域全体は東山文化を象徴する簡素枯淡な美が創出されています。東求堂には書院造の源流となった同仁斎があり、特別公開時に内部を拝観できます。
銀閣(観音殿)
山号・寺号 | 東山(とうざん)慈照寺(じしょうじ) (臨済宗相国寺派) |
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住所 | 京都市左京区銀閣寺町2 |
電話 | 075-771-5725 |
アクセス |
市バス 5,102,203,204系統「銀閣寺道」下車10分 32,100系統「銀閣寺前」下車徒歩5分 |
拝観時間 | 3月1日-11月30日 8:30-17:00 12月1日-2月末日 9:00-16:30 |
拝観料 | 大人・高校生500円 小中学生300円 特別拝観は別途 春季特別拝観:1名2000円 |
公式サイト (相国寺内) |
https://www.shokoku-ji.jp/ginkakuji/ |
室町8代将軍・足利義政と応仁の乱
足利義政の父、室町6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)は、赤松満佑(あかまつみつすけ)に謀殺され、あとを継いだ義政の兄、義勝はその後1年も経たないうちに夭折しました。弟の義政は8歳で次期将軍に選ばれ、13歳で元服を終えた後の文安6年(1449)、正式に室町8代将軍の宣下を受けています。
うら若い将軍義政のまわりでは、実母の日野重子や乳母の今参局(いままいりのつぼね)が政務に干渉して互いに対立していました。今参局を寵愛する義政でしたが、日野富子が義政の正室に迎えられると、富子は今参局を排斥しました。また義政の養育係であり幕府政所の執事であった伊勢貞親(いせさだちか)は、義政の側近として幕府の財政を執り仕切り、幕政に貢献しますが、たびたび守護大名の家督相続に関与して、それがもとで失脚します。
将軍宣下を受けた義政の後見職にあたったのは、管領になったばかりの16歳の細川勝元でした。室町幕府では細川氏、畠山氏、斯波氏(三管領)が交替で幕政を統括し、赤松氏、山名氏、一色氏、京極氏などの有力守護大名が幕府の重臣として仕えていました。なかでも謀反を起こした赤松氏を討って手柄をたてた山名持豊は、領地を拡大して急速に勢力を伸ばし、47歳で出家して山名宗全と名を改めてからも、その権勢は衰えることがありませんでした。細川勝元が宗全の娘を妻に迎えて同盟を結んだのは、勢力を盛り返しつつあった畠山氏に対抗するためだったともいわれています。
義政の父義教は、くじ引きで将軍に当選してしまった人でしたが、職に就くと辣腕ぶりを発揮して、兄義持の治世で揺らいだ室町幕府の権力回復に努めます。しかし幕府や義教自身の権威をおびやかす者には容赦なく制裁を加えたため、粛清に怯えた赤松氏は義教を屠ったのでした。伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王は、義教の政治を「万人恐怖」といい、義教の末路を「自業自得の果て」と日記に綴っています(『看聞御記』)。義教の没後、それまでの強力な締めつけが緩和されると各地で反動が噴出しました。
守護大名や領国の守護代、国人領主たちはそれぞれ自家勢力の復権拡大を主張して内紛がおき、家臣も分裂して自家に有利な派閥に加担しました。庶民もしばしば土一揆を起こして徳政を要求し、借金や年貢の減免を勝ち得たり、チャラにしたりしました。義政には制御不能な事件も多く、幕府の権威は失墜していきます。
しかし一転、芸術に関する分野では、義政の才能は当代随一と称賛され、諸大名の羨望を集めるほどでした。寛正元年(1460)、大飢饉で疫病が流行り、都は行き倒れる人で溢れても、義政は花の御所の改築や名石集めに熱中していました。後花園天皇は戒めを込めて「生き残った人々はわらびなどを食べて過ごしている。家々は火の気なく戸も閉まったままである。この2月は苦しい春だ。城中に咲く花や若葉は誰のためにこんなに豊かなのか」という意味の詩文を義政に宛てています(原文は漢文)。しかし義政はその後も母重子のために高倉御所の造営に取り組むのです。
将軍義政が、建築や作庭や花見や猿楽や連歌会に熱中している間、守護大名たちも公家や門跡衆と同じくそれにつきあう一方で、それぞれの御家の相続問題には真剣に取り組まなければなりませんでした。また足利義教の時代から、守護大名の家督相続は将軍が承認するのが慣例となっていましたが、ここでも義政は二転三転する態度で、結果として守護大名らの御家騒動はさらに混乱していきました。そしてそれらが応仁の乱への導火線となっていきます。
応仁の乱の原因として主なものに、畠山氏の義就(よしなり)と政長の争いがあり、斯波氏では義敏(よしとし)と義廉(よしかど)の争いがあります。それぞれの家の問題は家臣や関係諸氏まで巻き込んでいきました。また、斯波義敏は越前や関東でも問題を抱えており、将軍義政や鎌倉公方、朝倉孝景、山名宗全らも関わっていました。細川・山名両氏も各家の対立候補のどちらを擁護するかによって連携したり、対立したりしていたのです。
山名宗全にとって細川勝元は娘婿であり、共通の目的のためにはよく連携していました。しかし、宗全が討った赤松氏の再興を勝元が促したことに、宗全は我慢がならなかったといわれています。また長らく男子がなかった勝元は、宗全の子、豊久を養子にしていましたが、嫡男政元が生まれると、豊久を廃嫡して寺に入れ、宗全を怒らせてしまいます。
同じころ将軍家でも継嗣問題が起こりました。当初、子のなかった義政は、異母弟で浄土寺の門跡であった義尋(足利義視・よしみ)を還俗させ、この先男子が誕生しても家督を変更しないと約束して後継者に決めました。その義視も含め、宗全率いる西軍と勝元率いる東軍に分かれて対立し、御霊合戦を皮切りに応仁の乱へと突入します。しかしその対立の構図は固定的なものでなく、敵味方は何度も入れ替わりました。義視も然り、日野富子も然りです。
11年続いた戦乱で、両軍の陣地となっていた多くの寺社と、二条以北の上京を中心とする京都の町が焦土と化してしまいます。相国寺が焼けたとき、花の御所に煙がおよんでも、義政は騒がずお酒を飲み続けていたと伝えられています(『応仁記』)。義政は自らの無力を感じ、こんな歌を詠んでいました。
さまざまの 事にふれつつ嘆くぞよ
道さだかにも 治め得ぬ身を
義政は応仁の乱後、義視がかつて門主をしていた浄土寺跡地を隠棲の場として東山山荘の造営を始めます。普請のための費用は寺社などに臨時増税を課して賄いました。山荘内に日常を過ごす常御所(つねのごしょ)ができると、義政は将軍職を義尚に譲り、そこに移り住みます。
文明17年(1485)、禅室である西指庵(せいしあん)が完成したのち、義政は出家して喜山道慶(きざんどうけい)と名乗りました。その後、東求堂、東山殿会所、泉殿(弄清亭)を建立しますが、観音堂(銀閣)の完成直前に義政はこの世を去っています。
簡素枯淡で表現された義政の美の世界
応仁・文明の乱後、義政は政治から退き、文明14年(1482)から東山山荘の造営に残りの全人生をかけました。造営費の確保が難航して、工事に8年の歳月がかりましたが、義政自ら総指揮に当たり、延徳2年(1490)に亡くなる直前まで作事を続けたといわれています。その造形は、煌びやかな装いを排し、一切の余分なものをそぎ落とし、取り込まれた自然までも含めて人為的に調和させ、義政の精神世界を見事に映し出しています。
東山山荘は義政の没後、相国寺派の禅寺となり、慈照寺と寺号が改められました。銀閣寺とひろく呼ばれるようになったのは江戸時代からだといわれます。慈照寺は天文年間(1532-55)の戦火を受け、残った主な殿舎は東求堂と観音殿(銀閣)だけでした。近世初期に改修されていますが、山荘が造営された当初は、現在の庫裡と本堂のあたりに常御所と会所が並んで建ち、会所の南に泉殿がつづいていました。また月待山の麓の湧泉そばには漱蘚亭(そうせんてい)があり、山腹の平らな場所には一時義政が住んだといわれる西指庵があり、山頂近くには超然亭が建っていたといわれています。
月待山を背にして広がる苑池は、善阿弥(ぜんあみ)の子弟たちによって手掛けられたそうです。善阿弥は河原者とよばれた卑賎の出身でしたが、室町殿や高倉御所の造営にあたり、義政が最も信頼を寄せた庭師でした。善阿弥が室町殿の泉水造営中に病気で寝込んだとき、義政は使者に高価な薬を届けさせ、しきりに病状を気遣っています。銀閣寺境内の庭園は、夢窓疎石の作庭した西芳寺にならって造られたといわれますが、禅の要素と浄土思想が合わさった築山泉水です。また錦鏡池(きんきょうち)は回遊式で、どこからでも眺めることができます。池には7つの石橋がかかり、4つの浮石が配置されています。
池畔に建つ東求堂(とうぐどう)は、義政の持仏堂として文明18年(1486)に建立され、浄土信仰の象徴とされました。義政は京都五山派の禅僧らによって宗教的にも文化的にも大きな影響を受け、禅僧として出家しましたが、晩年は浄土往生を願う気持ちが強かったようで、東求堂の名も「東方人念仏求生西方」に由来します。また義政の臨終の席には禅僧たちに混じって天台系の称名念仏を広めた真盛(しんせい)上人の姿があったとも。正面向かって左が阿弥陀如来立像が祀られる仏間で、右は4畳半ひと間の「同仁斎(どうじんさい)」です。
同仁斎には、床の間、書画や書物を置くための違い棚や、座る高さに棚を設けて出文机(いだしふづくえ)とした付書院(つけしょいん)などが施されています。これは書院造の源流とも、日本家屋の書斎の源流ともいわれています。山荘に移ってからの義政は閑寂の暮らしを愛し、ここで書物を読み、和歌を詠み、茶を点て、香をたき、花を飾ったそうです。
同仁斎の名は、中国の韓愈による「聖人一視而同仁」の句にちなんでつけられました。「聖人はすべての人を平等に愛する」という意味だそうです。当初、義政の命で横川景三をはじめとする禅僧たちから出された3案がボツになり、再度追加された5案の中から義政が気に入ったのが同仁斎でした。実際、義政は身分にこだわることなく、卑賎出身の阿弥号をもつ時衆結縁者を同朋衆(どうぼうしゅう)として数多く登用し、能、連歌、立花、水墨画、菟集物の目利き、作庭など技芸の専門家として活躍させました。
錦鏡池の南西に建つ観音殿は、のちに銀閣と呼ばれるようになりますが、もともと銀は塗られていませんでした。義政は祖父義満が遺した金閣寺を気に入っていて何度も訪れています。金閣寺舎利殿の潮音洞や究竟頂(くっきょうちょう)についてゆっくり説明を聞いたこともあったようです。義政は亡くなる直前まで観音殿(銀閣)の設計を指示していました。
観音殿(銀閣)はこけら葺、宝形造(ほうぎょうづくり)の二層楼閣建築です。下層の心空殿は初期の書院造、上層の潮音閣は禅宗様(唐様)の仏殿になっていて、写真でしか見たことがありませんが、板敷きの床に岩屋観音像が安置されています。金閣寺舎利殿の潮音洞には岩屋観音(と四天王)が安置されており、観音殿潮音閣もそれに倣ったようです。池の対岸から観る観音殿の美しさは格別です。
方丈の南面に広がる段形の砂盛りは銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれています。灘は大海を意味し、大きく描かれた波形は大海原に立つ風波を思わせます。白砂に反射した日光や月光を、障子を通して取り入れたそうです。隣接する円錐台形の向月台は、如意が岳を望み、東山に昇る月を観るために作られたといわれています。銀沙灘と向月台はともに江戸時代後期以降に作られたものといわれています。境内全体はいつ訪れてもたくさんの庭師らしき人が丹念に手入れをされていて、気持ちよく眺めることができます。