妙心寺
(みょうしんじ)妙心寺は、建武4年(1337)、花園法皇が自らの離宮を禅刹に改め、関山慧玄(かんざんえげん)を開山に迎えたのが始まり。四方約500mの広大な山内に、山門、仏殿、法堂などの中心伽藍と46の塔頭を置く日本最大の禅寺です。一番の見どころに狩野探幽の『雲龍図』があります。
放生池と三門
山号・寺号 | 正法山 妙心寺(臨済宗妙心寺派) |
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住所 | 京都市右京区花園妙心寺町64 |
電話 | 075-466-5381(参拝課) |
アクセス |
JR嵯峨野線「花園駅」下車5分 市バス 10,26系統「妙心寺北門前」下車 91,93系統「妙心寺前」下車 京都バス 62,63,65,66系統「妙心寺前」下車 JRバス「妙心寺北門前」下車 |
拝観 | 境内自由 法堂(雲竜図・梵鐘)、大庫裏:自由拝観(ガイドなし)。 9:00-12:00、13:00-16:00 受付:大方丈入口 拝観中止日等については公式Webサイト参照 |
拝観料 |
法堂・大庫裏:大人700円 小・中学生400円 (団体30名以上で1割引) (拝観チケット販売:15:30まで、お昼12:00-13:00販売なし) |
公式サイト | https://www.myoshinji.or.jp/ |
林家の寺、妙心寺の歩み
臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺はJR花園駅から徒歩数分のところにあります。下立売通りに面する南総門を入ると、勅使門から放生池の先に、山門、仏殿、法堂が一直線に並び、さらにその向こうに大方丈、小方丈、微妙殿、大庫裏などが建っています。そしてそれらを取り囲むように40余りの塔頭がところ狭しと群立しています。塔頭の多くは非公開です。
一方で、大方丈での早朝坐禅や近くの研修センターでは週末に1泊の坐禅体験ができるなど、一般の人々にも教えが開かれています(詳しくは公式サイト参照)。また、北総門を出てさらに北へ行くと石庭で名高い「龍安寺」があり、こちらも妙心寺の塔頭のひとつです。
妙心寺を開いた花園天皇は、鎌倉後期、南北朝時代の持明院統の天皇です。ちなみに花園天皇の次は大覚寺統から後醍醐天皇が出ています。花園天皇は12歳で即位、22歳で上皇となりました。健康に恵まれなかったため、書道や歌道、読書などに傾倒していくなかで学問と仏道信仰を深め、禅を志して宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師に篤く帰依したといわれています。宗峰妙超は南浦紹明(なんぽじょうみょう・大応国師)の法嗣で、大徳寺を開いた大燈国師(だいとうこくし)のことです。
建武4年(1337)、病気で余命いくばくもない大燈国師に花園法皇は「このあと誰に帰依すればよいのか」と尋ねたところ、大燈国師は関山慧玄(かんざんえげん)を推挙しました。ただし関山慧玄という男はひと処に定住することがないので詔を下して探し出すように、と付け加えたそうです。その後、法皇は自らの離宮である仁和寺花園御所を禅寺に改め、妙心寺としました。寺の命名は大燈国師によるものです。
関山慧玄は建治3年(1277)、信濃国高井郡の高梨家に生まれ、30歳のころに鎌倉建長寺の南浦紹明(大応国師)に師事し、慧眼(えげん)の法名を授けられました。嘉暦2年(1327)、京都大徳寺の宗峰妙超(大燈国師)の弟子となり、2年後に悟りを認められて関山(かんざん)の道号を賜り、「慧眼」を「慧玄」に改めます。その後、関山慧玄は美濃の伊深(いぶか)の里に遁世して、村人に混じり農作業をしたり坐禅を続けるなどして聖胎長養(しょうたいちょうよう・悟りを開いたあとの修行)につとめていました。
大燈国師が遷化したあと、花園法皇の使者に探し出された関山慧玄は、暦応5年(1342)、法皇の招請を受けて妙心寺の開山に迎えられました。なお臨済禅は、臨済義玄(りんざいぎげん)-松源崇岳(しょうげんすうがく)-虚堂智愚(きどうちぐ)-大応国師(だいおうこくし)-大燈国師(だいとうこくし)-関山慧玄へと相伝され、大応国師以降のわが国での臨済宗の法系を「応燈関(おうとうかん)の一流」と呼んでいます。
開創当初の妙心寺は離宮を寺と称しただけのささやかなものだったようです。法皇は方丈の後方に一院を建て、玉鳳院と名付けて住まい、そこから関山のもとに参禅したといわれています。承和3年(1347)、重い病に臥した法皇は、心残りであった大燈一流の再興と妙心寺の伽藍造営を願う宸翰をしたため、関山慧玄に下賜しました。これは「往年の宸翰」と呼ばれ妙心寺に伝えられています。その翌年の承和4年(1348)11月11日に法皇は崩御しました。
関山慧玄は、胸中こだわることがなく俗世間の粘着さを嫌う人であったといわれています。読経や規則にもこだわらず、堂内の飾りつけにも身の回りにも頓着せず、居室には花園法皇と光明天皇の宸翰以外、余分なものは何もなかったそうです。一方で弟子の指導は手荒く峻烈で、関山の法を嗣ぐことができたのは授翁宗弼(じゅおうそうひつ)ただひとりでした。延文5年(1360)12月12日、関山は行脚の旅姿をして授翁宗弼を呼び、風水泉(玉鳳院庭園)のそばの大きな樹の下で話し終えると立ったまま息を引き取ったと伝えられています。
法堂の東には玉鳳院と開山堂があります(通常非公開)。玉鳳院は花園法皇の禅宮御殿で、渡り廊下で結ばれた開山堂は「微笑庵(みしょうあん)」と呼ばれる関山慧玄の塔所です。その正面には室町時代に建てられた四脚門が建っています。また玉鳳院庭園の片隅にある井戸が風水泉で、関山慧玄が立ったまま亡くなったといわれる場所です。
以後、妙心寺では関山禅が受け継がれ、規則や儀礼なども整い、寺地も拡大していきましたが、6世の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)のとき大事件が起きます。応永6年(1399)、拙堂宗朴と応永の乱で幕府に反乱を起こした大内義弘が師檀関係にあったという理由で、将軍足利義満は妙心寺の寺地や寺領をすべて没収してしまいます。拙堂宗朴は青蓮院(しょうれんいん)に幽閉され、寺領は青蓮院の義円に与えられました。義円は義満の子でのちの将軍義教です。その後、義満は寺領の一部を叔父にあたる南禅院徳雲寺の廷用宗器(ていようそうき)に与え、廷用宗器は妙心寺を竜雲寺と改めたため、ここに妙心寺は一時中絶しました。
それから30年余り経った永享4年(1432)、廷用宗器から寺地の一部を返還され、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)が細川持之・勝元父子の外護を得て妙心寺の復興につとめました。また細川勝元は日峰の法をついだ義天玄詔(ぎてんげんしょう)を開山に迎えて龍安寺を開きます。しかし、応仁の乱で妙心寺も龍安寺も焼けてしまい、文明9年(1477)、後土御門天皇の綸旨を受けて9世の雪江宗深(せっこうそうしん)が再興に努めました。
さらに雪江宗深は『正法山妙心禅寺記』を著して妙心寺の歩みを書き遺し、「米銭納下帳(べいせんのうげちょう)」を作って寺の会計制度を確立しました。また関山禅の法を嗣ぐ弟子4人を輩出し、妙心寺住持を1期3年で順次交替させます。これがやがて龍泉派、東海派、霊雲派、聖沢派の妙心寺四派四本庵を形成し、それぞれに優れた禅僧が出て教えを広めました。また、武田信玄、今川義元、織田信長、徳川家康など妙心寺僧に帰依する戦国大名も増えて、教線は一気に地方に拡大します。家康の名が出るのは意外なようですが、妙心寺の住持になった鉄山宗鈍(てつざんそうどん)は家康の支援で妙心寺の三門を建てています。
なお、妙心寺はもともと宗峰妙超が開いた大徳寺の支配下にあり、末寺的な立場であったため、妙心寺の住持は大徳寺に出世して紫衣を賜ったのちに妙心寺に入るしきたりがありました。しかし永正6年(1509)に、後柏原天皇の綸旨により、紫衣勅許の禅寺となり大徳寺と同格の寺として大徳寺から独立しています。
永正6年(1509)、東海派の祖、悟渓宗頓(ごけいそうとん)に帰依した利貞尼(りていに)から土地の寄進を受けて寺地が現在の規模に拡大しました。利貞尼は一条兼良(いちじょうかねら)の娘で、美濃の戦国武将、斉藤利国の妻です。夫の戦死後に出家しています。
江戸時代初期の「方広寺鐘名事件」では妙心寺は豊臣氏を擁護しました。また、徳川幕府が朝廷から僧侶への紫衣の授与を規制した「紫衣事件」では、幕府に反抗して大徳寺の沢庵らと同様、妙心寺の単伝士印(たんでんしいん)や東源慧等(とうげんえとう)も配流されました。
江戸時代に妙心寺の塔頭は70を超え、末寺は5000ヵ寺にも達していたといわれます。朱印高は491石あまりでしたが、常住や塔頭に分与すると財政は苦しく、塔頭の修繕、僧侶の困窮、僧侶出世の儀式などに対しては、寺が利子付きで融資するなどの金融制度が設けられました。「妙心寺の算盤づら」といわれるとおり、中世の「米銭納下帳」ができて以来、妙心寺は独自の財政システムでやり繰りされていたのです。
探幽の傑作『雲龍図』、梵鐘、浴室の拝観
以前、お寺の方の案内で、法堂の雲龍図と日本最古の梵鐘、浴室の拝観をさせていただきましたが、その後、法堂と大庫裏にコースが変わり、新型コロナ渦中の2021年1月12日からはガイドなしの自由拝観となっています。以下は法堂と浴室拝観のときの記述です。
妙心寺法堂の『雲龍図』は、徳川幕府の御用絵師であった狩野探幽が8年をかけ、55歳で完成させた渾身の作です。龍神は水を司り火災から堂塔を護る神とされ、また仏の教えを助ける八部衆のひとつともいわれて、多くの禅寺の法堂の天井に龍が描かれています。
明暦2年(1656)に建立された法堂の天井を見上げると、直径12mの円のなかに墨と金で描かれた龍がド迫力でこちらを睨み付けてきます。これは「八方睨みの龍」と呼ばれ、どの方向から見ても龍と目が合うように描かれているのです。龍と目を合わせたまま堂内を一周するとフラフラしましたが、龍は視線をこちらに向けたまま様々に表情を変えました。妙心寺の龍は力感が凄いので気に入っています。
龍は架空の生き物であるため、角は鹿を、眼は牛を、口は鰐を、胴体は蛇を、ひげは鯰を、爪は鷲を、鱗は鯉を参考にして描かれたといわれています。探幽が最後に龍の瞳に点を入れたとき、一天にわかにかき曇り風雨が起こったという伝えがあります。龍神は雨を呼ぶといわれるので龍に生命が吹き込まれた瞬間だったのでしょう。探幽は寺が用意した画料を受け取らなかったといわれています。
法堂の隅には日本最古といわれる「妙心寺の鐘(国宝)」が置かれています。高さ約150cm、口径86cm、唐草文様が刻まれた釣鐘で、文武天皇2年(698)の作とされています。もとは亀山殿の浄金剛院(じょうこんごういん)にあったものと伝えられていますが、造られたのは筑前国の糟屋(かすや)郡と刻まれています。
この梵鐘は昭和48年まで大晦日の「ゆく年くる年」の一番最初に登場していたそうです。その黄鐘調(おうじきちょう)といわれる音色(A・ピアノのラとほぼ同じ)をCDで聞かせていただきましたが、生で聴いてみたいと思いました。この梵鐘が釣られていた鐘楼が法堂の北西にあります。
三門の東にある浴室は、天正15年(1587)に明智光秀の叔父の密宗紹儉(みっそうしょうけん)が光秀の菩提を弔うために建立したもので「明智風呂」と呼ばれます。現在の建物は明暦2年(1656)に改建されたもの。ちなみに織田信長の墓所もこの妙心寺にあります。信長を討った光秀は、自刃するつもりで妙心寺塔頭の太嶺院にいた叔父の密宗紹儉を訪ねたところ、思いとどまるよう説得されると布施を遺して寺を出たと伝えられています。その布施で浴室が建てられたそうです。
浴槽(風呂屋形)には3つの窓がついていて、一番上が採光のための窓、真ん中が蒸気を抜くための調節窓、一番下は出入り口で、くぐって出入りします。浴槽といっても蒸し風呂で、浸かるためのものではありません。
背面には湯沸し用の大釜があり、そちらで沸かしたお湯を床下に流し、床板の隙間から出る蒸気で汗をかく。その時間は線香1本分が燃え尽きるまでとされていました。そのあと浴槽手前の洗い場で桶3杯だけのお湯で汗を流します。冬だったら風邪をひきそうです。洗い場の板敷部分は傾斜がつけられていて、流した水が下へ落ちるよう溝が設けられていました。禅宗では入浴も修行のひとつで入浴日時や順序、入浴の作法も厳格に定められています。浴室の北側には鐘楼が建っていて、入浴の時間を知らせるために撞かれたそうです。