京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。

下鴨神社

(しもがもじんじゃ)その1

正式名は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。賀茂氏の祖神、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とその娘にあたる玉依日売命(たまよりひめのみこと)を祀る京都最古級の神社です。市街地ありながら原始の植生を残す「糺の森(ただすのもり)」に足を踏み入れるとタイムスリップしたような気分が味わえます。

下鴨神社・楼門 楼門

INFORMATION
社名・社号 下鴨神社
住所 京都市左京区下鴨泉川町59
電話 075-781-0010
アクセス 京都市内から 市バス 1,4,205系統
「下鴨神社前」または「糺の森」下車
京阪電車 「出町柳」下車徒歩8分
拝観料 境内自由
大炊殿拝観:500円 中学生以下無料(10:00-16:00)
公式サイト http://www.shimogamo-jinja.or.jp/
※↑2023年2月更新。

玉依日売(たまよりひめ)の結婚伝承と鴨県主(かもあがたぬし)

下鴨本通のバス停「下賀茂神社前」で下車すると西参道が近いですが、出町柳方面から「糺の森(ただすのもり)」を歩くほうが趣き深くておすすめです。昼間でも太陽を遮る深い木立の中を参道がまっすぐ北に伸び、両脇に小川が流れています。東側は泉川。西側の小川は、その昔、玉依日売命(たまよりひめのみこと)が遊んでいると丹塗矢(にぬりや)が流れてきたという「瀬見の小川」で、玉依日売はその矢を持ち帰り、床に置いたところ懐妊し、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)が生まれたといわれています。

下鴨神社は、賀茂氏の祖神といわれる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依日売命(たまよりひめのみこと)を祭神に祀ります。賀茂建角身命と丹波の神、伊可古夜日売命(いかこやひめのみこと)との間に生まれたのが、兄の玉依日子(たまよりひこ)と妹の玉依日売命でした。下鴨神社の正式名が賀茂御祖(かもみおや)神社と呼ばれるのは、玉依日売が別雷神の母だからでもありますが、その名の通り、賀茂の祖という意味のようです。

また、賀茂建角身命は神武東征のとき八咫烏となって天皇を導いたと伝えられています。八咫烏はゴールを導いてくれるというので日本サッカー協会のシンボルマークにもなっています。

上賀茂神社の神体山が神山(こうやま)であるのに対し、下鴨神社の神体山は八瀬の御蔭山(みかげやま)です。上社では賀茂川の上流が重視されたのに対し、下社では高野川の上流が意識されたようで、さらにその延長線上には比叡山が位置します。比叡山を越えると下鴨神社と関係の深い日吉大社があります。下鴨神社では、祭祀によって迎えられた若々しい神は樹木を依り代として現れるといわれています。糺の森の原生林は神の出現にぴったりで、賀茂社が国の管理下に移ったあとも、氏族だけの内輪の神事が糺の森で行われていたそうです。泉川周辺にはその遺跡が見い出されています。古代の人々は、暮らしにとって重要な自然の神々を崇めると同時に、祖先を祀ってきたのだといわれています。

上賀茂神社と下鴨神社は合わせて賀茂社と呼ばれ、京都と国家の総鎮守社として、平安時代以降とりわけ皇室に篤く崇敬されてきました。葵祭の通称で知られる賀茂祭は、平安時代には国家の祭礼となり、朝廷や貴族をはじめ、民衆が待ち望む娯楽にまでなりました。その華麗な祭礼のようすは『源氏物語』や『枕草子』をはじめ、さまざまな文学に描かれ、また高貴な人々の日記に綴られ、和歌にも詠まれました。現在の葵祭は毎年5月15日に行われ、平安時代の古式に倣ってその伝統が継承されています。

上賀茂神社では、今も皇室と国家安泰の祈願が毎月行われ、神武天皇を遥拝する式典もあります。日本の初代天皇である神武天皇は、高天原から降臨した天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子孫と伝えられています。一方、下鴨神社では、1月と10月に大国主命の祭典が行われ、境内には大国主命の別名とされる7躰の名を配した言社(ことしゃ)があります。記紀神話によれば、大国主命は葦原中国(あしはらのなかつくに)を造り、その後、高天原に国を譲ったとされています。神話にもとづけば、賀茂社はデュアル、パラレルな神社といえるでしょう。そして実際は、別の意味でも二重になっているようです。

賀茂社の由来は「山城国風土記」逸文に断片的に伝えられていて、社伝も同様の説話を由緒としています。ただし、賀茂社の本縁は秘中深秘とされ、限られた神職にのみ口伝で相承され、文字に書き記すことも許されなかったそうです。賀茂社の社家は早くから諸流に分かれ、神職は嫡流のみならず、血族・縁者から広く人材が求められたといわれているので、重要な神事や縁起に関しては有資格者によって厳格に守られたのかもしれません。でもそれが氏族らの意志だったかは疑問なところもあります。

またそんなお約束があっても、賀茂上下社の神職のなかには、何とか秘密を書き残そうとした人たちがありました。現実は、多くの古社と同様、中世の戦乱と荒廃を経た近世の賀茂社では、神職の間で相伝された内容が食い違っていて、本宮や摂社の祭神でさえ比定するのに苦労されています。そのなかにあって、下鴨神社泉亭の禰宜、鴨縣主俊永・俊春親子の記録(『鴨県主家伝』『神道大系8賀茂』所収の記録等)や、幕末に出た鴨俊彦による「鴨県纂書」はとても貴重な史料だと思っています。

そして、これらの記録と諸家の伝承を合わせると、わかりにくい賀茂社の二重構造がおぼろげながら輪郭をもって浮かび上がってきます。神話の世界に正解はないのでしょうが、各々の神の子孫を称する氏族が存在したことは、その後の人間世界への影響を示しています。どんな人々によって何が伝えられ、信仰されてきたのか、その過程で誰がどう関わったのか、歴史の観点から追いかけてみました。内容は少々ややこしく、長くなったのでページを分けています。推測も含みますが、古代の氏族のつながりが見えてくるように思われます。

まず、賀茂の由来について、「山城国風土記」には、次のように伝えられています(大意)。

-----
可茂というのは。日向の曾の峰に天降った賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は神武天皇を導いたあと、しばらく大倭(やまと)の葛木山に宿り、やがて山代の岡田の賀茂に移り、さらに木津川をくだって葛野川(かどのがわ)と賀茂川の合流点に至った。賀茂川を遠く見渡して「小さく狭いけれども、石川の清川がある」といって「石川の瀬見の小川」と名付けた。そこからさらに上流の久我国の北山の基(もと)に鎮まった。そのときから名づけて賀茂という。
-----

この伝承には、神武天皇をヤマトに導いた賀茂建角身命が、その後、山代に移動した順路が説明されています。でも、ここには賀茂建角身が八咫烏であるとは書かれていません。『日本書紀』神武紀の記事はそれをつないでいます。

『書紀』によれば、頭八咫烏(やたがらす)は神武天皇率いる皇軍を熊野から宇陀のあたりまで導き、ときには高天原の命を受けて抵抗勢力に帰順を促し、ヤマト建国に大きく貢献したことが伝えられています。ヤマト入りした神武天皇は、それまでヤマトを治めていた饒速日命(にぎはやひ)に、その妻の兄であり、武将でもある長脛彦(ながすねひこ)を討たせて降伏させています。そして東征後に八咫烏は褒賞され、その苗裔(子孫)は葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)となったとされています。風土記はこの出来事のあとの建角身の移動を語り、ヤマト葛城から山代に移ってきたというのです。

ところが『書紀』神武紀の記事を読んでも八咫烏が建角身命とは書かれていません。八咫烏が建角身命だとわかるのは、『新撰姓氏録』の鴨県主の項で、賀茂県主と同祖とし「鴨建津之身命は八咫烏の号を賜った」と記されたことによります。また、斎部広成(いんべひろなり)が『古語拾遺(こごしゅうい)』に「賀茂県主の遠祖、八咫烏」と書いたことによって、八咫烏は建角身であり、賀茂県主はその子孫であることが公言されたことになります。

でも『古語拾遺』は、『書紀』に八咫烏の苗裔と記された葛野主殿県主部については触れていません。だから葛野主殿県主部と賀茂県主・鴨県主はなんとなく同じ氏族と思ってしまうけれど、関係は不明なのです。ちなみに奈良時代の末期以降のいつ頃からか、上社の神職は賀茂県主、下社の神職は鴨県主と区別して表記されたようです。

神武東征のあと、八咫烏の一族がしばらく定着したといわれる葛城の地は、葛城の賀茂氏(鴨君/賀茂朝臣・かものあそん)の根拠地でもあります。賀茂氏には、山城の鴨県主と葛城の賀茂氏の2つの系統があり、山城の鴨県主の系統は天神系、大国主の後裔とされる葛城の賀茂氏は地祇系として区別され、両氏は別の氏族とされています。天神とは記・紀の神話のなかで高天原から降臨した神、地祇とは天孫が降臨する前から国を治めていた神とされています。

大和と河内の境に連なる葛城山系の東麓は、鴨族発祥の地と呼ばれ、鴨三社と呼ばれる高鴨神社(たかがもじんじゃ)、鴨都波神社(かもつばじんじゃ)、御歳神社(みとしじんじゃ)など、葛城の賀茂氏が奉祭した神社が鎮座します。なかでも阿遅志貴高日子根命(あじしきたかひこね)を祀る高鴨神社は、京都の上賀茂神社・下鴨神社をはじめ、全国の鴨社の総本社ともいわれ、八咫烏伝承が伝えられています。なので、別系統といっても、京都の賀茂社と大和の鴨系の神社は深い関係にあるのです。

下鴨神社の宮司さん(新木直人氏)のお話によれば、全国の鴨族の22の系統は、最終的には鴨県主系と賀茂朝臣(鴨君)系に集約され、下社の氏人たちの先祖は、鴨県主、賀茂朝臣、葛野主殿県主部の系統からなるそうです。また、鴨県主は出雲の神と祖先を同じくする一族ともいわれます。さらに葛野主殿県主部とよばれた氏族は鴨県主と同族だそうです。ちなみに、下鴨神社の社家、鴨脚家(いちょうけ)に伝わる『新撰姓氏録』逸文には、鴨県主本系と賀茂朝臣本系の2流が書き残されています。

葛野主殿県主部と鴨県主が同族といわれるわけは、記・紀のいう神代に強固な姻戚関係で結びついたためと考えています。しかし源流は別の氏族のようです。服属なのか、同盟なのか、大恋愛なのか、その結びつきの象徴が別雷命の誕生であり、別雷命の再生と降臨を祈願するのが上賀茂神社のミアレ神事だと思われるのです。記・紀や伝承によれば、両氏族はそれ以前から何度も結びついていると思われますが、この縁組はことのほか大切にされたようです。上記の「山城国風土記」にはつづきがあり、玉依日売の家族関係や結婚伝承が語られます(意訳)。

-----
賀茂建角身命は丹波国の神野の神、伊可古夜日売(いかこやひめ)を娶って、兄の玉依日子と妹の玉依日売が生まれた。玉依日売が石川の瀬見の小川で遊んでいるとき、川上から丹塗矢(にぬりや)が流れてきたので、持ち帰って床の近くに置いたところ、懐妊して男子が生まれた。御子神が成長したとき、外祖父である建角身命が八尋屋(やひろや)を造り、八戸の扉をたて、八腹の酒を醸し、神々を集めて7日7夜の酒宴を開き、汝の父と思う神にこの酒を飲ませよ、と言ったところ、御子神は盃をささげて天に向けて祭り、屋根の甍を突き抜けて天に昇ってしまった。このことから御子神は外祖父の御名によって賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と名づけられた。丹塗矢の正体は乙訓の郡に坐す火雷神(ほのいかづちのかみ)である。賀茂建角身命、伊可古夜日売(いかこやひめ)、玉依日売の3柱の神は蓼倉の里の三井の社に鎮座する。
-----

これは有名な丹塗矢伝承で、賀茂の神産みは、女神の夫である男神を「矢」に例える特徴があります。丹塗矢は火雷神の化身とされているようです。別雷命はなぜか外祖父の名の「賀茂」を冠しますが、父の雷神の神格も受け継いでいて、「賀茂旧記」には稚雷神(わかいかづち)とも記されます。また、別雷命は「吾は天神の御子なり」と言い残して昇天したとも書かれます。雷神は雨を降らせるので農耕の神でもあります。

賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神
賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神

ところで下鴨神社は、奈良時代中期に上賀茂神社から分社されたといわれています。下鴨の地に社殿を建て、上賀茂神社から神官を移して祭祀にあたり、朝廷から封戸を賜った経緯があるそうです。しかし、下鴨神社の社殿が造営される以前から、三井社は蓼倉の里に祀られていました。はじめは三身社と書かれ、のちに三井社とされたことが別の「山城国風土記」逸文に記されています。下鴨神社のすぐ北東に蓼倉町の地名が残っていて、三身社の旧地と伝えられています。現在の下鴨のあたりは中賀茂と呼ばれていた時代があったようです。

また『鴨県主家伝』によれば、賀茂河と葛野河の合流地点である河合の地は下鴨なり、と記され、八咫烏の子孫が住んでいたと書かれています。これは乙訓郡から紀伊郡の境あたりまでを指します。そしてこの八咫烏の子孫がいわゆる葛野主殿県主部とされ、河合神を祭ったと記されているのです。河合神とは建角身の家系の宅神とされる多々須玉依日売命(たたすたまよりひめ)のこと。下鴨神社の第一摂社となっている河合神社の原型がまず乙訓周辺にあり(式内社の神川神社)、『家伝』によれば、桓武天皇の平安遷都のときに現在の地に遷ったとされています。つまり賀茂の神の女系の家族が葛野主殿県主部の系統と思われるのです。また乙訓には玉依日売の夫、火雷神が祀られる乙訓社もあり、大宝2年(702)に奉幣されています。

下鴨神社境内の糺の森(ただすのもり)とは、多々須玉依日売命の名に関係するのかもしれません。『古事記』には「朝日の直刺す(たださす)国」という表現があり、直す(ただす)は太陽の光がさすことを意味するといわれています。なお、日光に当たった女神が妊娠するという日光感精神話が北方アジアなどにみられますが、下鴨神社の祭祀にその影響がみられるという説もあります。

また『家伝』によれば、玉依日売の兄、玉依日子は西埿土部(かわちのはつかしべ)の祖とされ、蓼倉神これなり、と書かれています。蓼倉神とは三身社(を祀った神)のことでしょう。玉依日子の子孫は、先祖である建角身、伊可古夜日売、玉依日売、(玉依日子)らを奉祭していたようです。

一方、『家伝』の鴨県主の項には『姓氏録』云、として、武津之身命の後裔を称し、さらに「天皇本紀(天神本紀の誤り?)」云、として天櫛玉命(あめのくしたま)の後とも記されます。また『先代旧事本紀』「天神本紀」には「天櫛玉命、鴨県主らの祖」「天神魂命、葛野鴨県主らの祖」の2流の鴨県主が書かれています。じつは後者は複雑なのですが、出どころは神魂命の孫と伝えられた建角身の系統と思われるのです。つまり『家伝』によるなら、鴨県主とは天櫛玉命を祖とし、なおかつ、建角身命の家族に関係した氏族と考えられるのです。そうすると天櫛玉命とは玉依日売の夫である火雷神で、その嫡流の別雷命の後裔が鴨県主では?という推測に行き着きます。どうみても、別雷命は玉依日子の子ではないからです。

なお、一般的な鴨県主の系図では、天櫛玉命は建角身命の親として現れています。これには理由がありそうですが、鴨県主系図は葛野主殿県主の系統である玉依日子の子孫として始まっていて、不可解な部分がたくさんあります。「山城国風土記」逸文のひとつには「玉依日子は、今の賀茂県主らの遠祖なり」とされていますが、「始祖伝要訣」には「玉依彦命に斎祀を委ね賜へりしとそ、玉依彦の傳、別に猶有之、此後十世、五十手美より馬波乃耳まで」と書かれているのです。鴨県主はまるで第11代大伊乃伎命を祖としているようにさえ思えます(系図については上社の頁で考察)。またこれにより、玉依彦から馬波乃耳までの10神はおそらく建角身命の直系と思われ、鴨氏の祖として河﨑総社十神に数えられています。河﨑総社とはかつて下鴨神社の東の田中村一帯に建てられていた神社です。

一方、天櫛玉命について「伊勢国風土記」によれば、出雲の神の子、出雲建子命(いづもたけこ)、またの名は伊勢都彦命(いせつひこ)、またの名は天櫛玉命(櫛玉命とも)と記されます。神武天皇の命を受けた天日別命(あめのひわけ)に伊勢国を譲れと迫られて、伊勢から東国へ去ったとされています(信濃に住まわされたとも)。去り際に、暴風を起こして波を打ち上げ、光り輝いて東に向かったと書かれています。暴風神であり、光り輝く雷神のようです。

また、出雲建子(天櫛玉命・伊勢都彦命)は、出雲国造の元祖・天穂日命(あめのほひ)の子の天夷鳥命(あめのひなとり)の子という系譜が伝えられています。それによれば、出雲建子の兄弟の伊佐我命の後裔から出雲臣や土師氏らが起こり、出雲建子の後裔からは武蔵国造など多くの氏族が出ています。

西角井従五位物部忠正家系などに基づく天櫛玉命(伊勢都彦命)の系譜
【参考】天櫛玉命(伊勢都彦命)の系譜(タップで拡大)

現在、下鴨神社の東西本殿の祭神は、玉依日売命と建角身命とされています。しかし、卜部兼倶(うらべかねとも)が撰した『神名帳頭註』では、賀茂御祖二座は、玉依日売と大山咋神とされています。大山咋神(おおやまくいのかみ)とは、のちに乙訓社から松尾大社に丹塗矢の神霊が遷されたといわれる神の名で、実体は火雷神と同躰。鴨県主が祖先である火雷神と玉依日売を祀るのは、むしろ自然とも思えます。でも実際は、火雷神でも、天櫛玉命でも、大山咋神でもなく、下社にとってもっと身近な神の名で祀られていたような記録があります。

玉依日売の夫は天御影命(天目一箇命)

江戸時代(正徳2年-天明5年)の下鴨神社社家泉亭の鴨県主俊永が記した「泉家玄櫛」はとても難解ですが、次のような示唆的な記述があります。重要と思われる部分のみ抜き出します。

「御神體モ御在位ノ有様ヲ表示ス 鏡 照臨 天御影 天鏡也、御蔭宮 高皇産霊」とか「サテ艮ニ天ノ御影ノ宮」とか「御蔭宮(社務祐直卿ノ記ニ 御影ト書ケリ)高皇産霊尊一神ナレドモ二殿ニ建テ…」などです。

「御神体も御在位のありさまを表し示す」と書かれています。また、天御影(あめのみかげ)の「御影」自体に鏡や光の意味があり、神宝の鏡に神霊が遷されて御神体となり、礼拝の対象となります。そしてここでは、御蔭宮は高皇産霊尊(たかみむすひ)の宮殿と説明されていますが、天ノ御影ノ宮とは、その名の如く天御影命の宮殿と思われるのです。天御影命は近江の三上祝(みかみはふり)氏が奉祭した神さまです。艮(うしとら)というのは、方角からすると八瀬の御蔭神社のことでしょう。「高皇産霊尊一神なれども二殿に建て」とありますが、『鴨県纂書』では「天御蔭の降臨所ナリ天御蔭宮二座」「御蔭祭トハ御生ニシテ天ノ御蔭ヲ祭ルノ義ナリ」と書かれているのです。

「御蔭祭とは御生(みあれ)にして天御蔭を祭るの義なり」。現在、御蔭神社の祭神は建角身命と玉依日売命の荒魂とされています。けれども過去において、とくに鴨県主が下社の祭祀を行うようになって以降は、天御影命と玉依日売命の荒魂が祀られていたのかも? その荒魂を下社の本殿に迎えるのが御蔭祭(みかげまつり)です。

また「泉家玄櫛」によれば、「御蔭山神事ハ朝日ノ出ル時、御迎ニ参ル也矣」と書かれ、朝日を仰ぐ太陽信仰のようです。さらに俊永の「筥傳授(はこでんじゅ)」には「御祖神ヲ招禱シ奉レル月ハ往時玉依姫ノ御懐孕四月ナル事ヲ勘ヘ、さて招禱奉ルヘキ日時ハ彼午年ヲ引用キ、午の日ヲ以て、彼御影ノ山ヨリ招キ禱ルトソ、是傳々極密ノ大切ノ口授是也」とも記されています。御生神事は御祖(みおや)の荒魂を迎える神事ですが、同時に玉依日売の懐妊も願われたようです。

そして「泉家玄櫛」には「斎王祭ニ参リ玉フ時、左殿ニ着キテ西ノ神殿ニ向ハシメ玉フ亦此意也」と記されます。 迎えられた御祖神(みおやがみ)の天御影命の神霊は西本殿に遷され、玉依日売の神霊は東本殿に遷されたのでしょう。玉依日売は祭祀を司る巫女的な神ですが、後世、玉依日売の代わりとなって天御影命に奉仕した巫女が斎祝子(いつきのはふりこ)で、のちに皇女から出た斎王がこの役目を果たします。

なお、現在の御蔭神社は宝暦8年(1758)の土砂崩れによって旧地から移転されたそうですが、その地はいずれも上社の神領となっていた八瀬の小野郷です。古くは小野氏の根拠地のひとつとなっていたところで、小野氏の水の祭庭がやがて下社の分立とともに、鴨氏の祭祀場にとって替わったとも考えられています。しかし、もともと八瀬の御蔭山には八咫烏(の子孫?)の宅地があり、のちに烏谷(からすだに)と呼ばれたと伝えられていて、じつはこのことは重要な意味をもっていると考えられるのです。

一方、天御影命は、近江国野洲郡三上郷の三上山に天降ったと伝えられ、御上神社(みかみじんじゃ)に祀られています。天御影命の父とされる天津彦根命(あまつひこね)は、天照大神とスサノオの誓約で生まれた男神5柱のうちの1柱で、三上祝氏は天津彦根命の嫡流を称し、天津彦根命・天御影命(天目一箇命)の後裔からは山代国造、河内国造・額田部湯坐連・茨木国造など多くの氏族が出ています。

三上祝氏系図から天御影命の子孫
【参考】天御影命の子孫(タップで拡大)

また天御影命の別名とされる天目一箇命(あめのまひとつ)は、鍛治の神で、溶鉱炉の火色を見て温度を確認する際、目がやられるので象徴的に一つ目と表現されます。製鉄には火と風を送るふいごが必要とされるため、火神・風神の神格ももっています。「播磨国風土記」には、「道主日女命(みちぬしひめのみこと)は父のわからない子を産んだので、稲を実らせ、米を作り、盟酒(うけいざけ)を作って神々を集め、酒宴を開いて、御子神に酒をささげさせると、御子神は天目一箇命にささげたので父が判明した」と書かれ、酒宴で父を問う「山城国風土記」逸文とそっくりな説話が収録されています。判明した別雷命の父とは天目一箇命(天御影命、天櫛玉命、火雷神)といえるでしょう。

さらに、俊永の「筥傳授(はこでんじゅ)」には「建津乃身命の招禱奉れる渾沌殿の事跡は今の乙訓の地にて、其の處に八尋殿を造れり、それを大雷社(おおいかづちのやしろ)と称するなり」と記されます。後世になり、大雷社には火雷社これなりと註記されていますが、大雷(おおいかづち)とは、三上祝氏の系図によれば、天御影命(天麻比止都・あめのまひとつ)の子に置かれる意富伊我都命(おおいかつ)=大雷で、別雷命のことと考えられるのです。

別雷神は大雷として祀られる神社がいくつかあります。そしてその母は御上祝家系図によれば「針間道主日女命」とされ、先の「播磨国風土記」と符号します。やがて乙訓坐大雷社はなぜか火雷神社に名前が変えられてしまいますが、「筥傳授」によればもとは建角身命(渾沌殿)と大雷(別雷命の八尋殿)を祀った神社と思われるのです。

賀茂川と高野川の合流点
賀茂川と高野川の合流点
高野川
高野川の上流に神体山御蔭山がある。
京都 下鴨神社の鳥居
下鴨東通から参道へ
御蔭通の下鴨神社の参道入口
御蔭通の参道入口
京都 下鴨神社の世界遺産の碑
世界遺産の碑
下鴨神社の糺の森(ただすのもり)
糺の森(ただすのもり)
京都 下鴨神社境内、切芝横の御神木
切芝横の御神木
下鴨神社境内の切芝は神事が行われるところ
切芝
神事が行われるところ。
下鴨神社の切芝横を流れる泉川
切芝横を流れる泉川
下鴨神社の参道東側を流れる泉川
泉川
参道東側を流れる。木津川は古くは泉川と呼ばれた。建角身命(の子孫?)は相楽郡木津の岡田を経由して山代に入ったと伝えられている。
下鴨神社、泉川周辺の祭祀跡
泉川周辺の祭祀跡
祭祀跡は泉川に臨んでいることから水に関係する祭祀が行われていたと考えられている。
下鴨神社、祭祀遺跡
祭祀遺跡
玉依日売が遊んでいると1本の丹塗矢(にぬりや)が流れてきたという瀬見の小川。参道西側を流れる
瀬見の小川
参道西側を流れる。玉依日売が遊んでいると1本の丹塗矢(にぬりや)が流れてきたという瀬見の小川。
下鴨神社の瀬見の小川
瀬見の小川
泉川に比べて水量が少ない。
下鴨神社の南口鳥居
南口鳥居
下鴨神社境内のさるやの申餅
さるやの申餅
明治初期まで人々に親しまれていた「葵祭の申餅(さるもち)」が復元された。
さるやの申餅
申餅
下鴨神社境内のさざれ石
さざれ石
さざれ石とは小さな石という意味で、火山の噴火により石灰岩が分離集積し、凝固して岩石となったもの。神霊が宿り、年とともに成長して岩となると信仰されてきた。
下鴨神社境内の舟形の手水舎
手水舎
船の形をしている。
賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神
賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神
下鴨神社境内の烏の縄手(からすのなわて)
烏の縄手
烏は建角身命であり、太陽を表すという。また、縄手には狭いという意味があり、古くは糺の森に幾筋もの狭い細い参道があったが、その参道のひとつが復元された。
下鴨神社境内の奈良の小川
奈良の小川
発掘調査で「鴨社古図」に描かれた古代の流路がみつかり復元された。
下鴨神社境内の奈良殿神地跡
奈良殿神地跡
葵祭の前に解除(祓)の神事が行われた祭場であり、歴代賀茂斎王が大祭を前に祭祀を行ったところでもある。四月に行われたので卯の花神事とも呼ばれた。祭神、難良刀自之神(ならとじのかみ)はお供え物や器などを司る神という。
下鴨神社境内の舩島(ふなじま)
舩島
案内板には、当社御祭神の神話伝承により、川の中の「舩」の形の島を磐座とした、とある。川は奈良の小川のこと。
下鴨神社境内の奈良殿を抜けた楼門脇
奈良殿を抜けると楼門脇に出る
双葉葵の神紋
双葉葵の神紋
双葉葵の由来は「逢ふ日」と古くから伝えられる。
下鴨神社に奉納された酒樽
奉納された酒樽
下鴨神社に奉納された初穂
奉納された初穂
相生の社(あいおいのやしろ)
下鴨神社境内の相生社(あいおいのやしろ)
相生社(あいおいのやしろ)
神魂命(かんたまのみこと/神皇産霊尊)を祭神に祀る縁結びの神。
下鴨神社境内の相生社 本殿
相生社 本殿
下鴨神社境内の相生社前のカップルの神像
相生社前のカップルの神像
下鴨神社境内の相生社のおみくじ
相生社のおみくじ
下鴨神社境内の相生社 連理の榊
相生社 連理の榊
相生社の隣に御神木・連理の榊(れんりのさかき)がある。3本のうち2本が途中でつながっていてこちらも縁結びのシンボルになっている。
下鴨神社境内の連理の榊の御生(みあれ)綱
相生社 連理の榊
連理の榊から御生(みあれ)綱が玉垣の両側につながれている。お参りのときにこの綱をひくようになっている。
下鴨神社の楼門
楼門
下鴨神社の楼閣
楼閣
下鴨神社境内の剣の間
剣の間
賀茂祭(葵祭)のとき勅使が剣を解いた場所。
下鴨神社境内の舞殿
舞殿
賀茂祭(葵祭)のとき、勅使が御祭文を奏上し、東遊(あずまあそび)が奉納される。
下鴨神社境内の橋殿
橋殿
御蔭祭のとき、御神宝が奉安する御殿。古くは御戸代会神事、奉楽、里神楽、倭舞が行われた。現在は、名月管絃祭、正月神事等で神事芸能が奉納される。
西角井従五位物部忠正家系に基づく天櫛玉命(伊勢都彦命・伊勢津彦命)の系図
【参考】天櫛玉命(伊勢都彦命・伊勢津彦)の系図(クリックで拡大)
三上祝氏系図から天御影命の子孫をみる)
【参考】天御影命の子孫(クリックで拡大)

関連メモ&周辺

鴨社資料館秀穂舎
(しゅうすいしゃ)

下鴨神社の学問所絵師であった浅田家の旧宅・秀穂舎。下鴨東通の参道脇にある。 秀穂舎

下鴨東通の参道脇に鴨社資料館「秀穂舎」がある。下鴨神社の学問所絵師であった浅田家の旧宅。期間を定めてさまざまな展示がされている。

みたらし団子

西参道近くの加茂みたらし茶屋 加茂みたらし茶屋のみたらし団子
下賀茂神社の御手洗川で湧き出る水の泡をかたどって作られたのが始まりとされるみたらし団子。西参道近くの加茂みたらし茶屋はみたらし団子発祥の店として知られる。焼いた団子に甘い醤油ダレをつけて食べる。お土産に持ち帰りも可能。

ふたばの豆もち

出町柳にある豆餅の老舗「出町ふたば」 「出町ふたば」の豆餅
いつも長い行列のできる老舗「出町ふたば」の豆餅は、ローカル京都人も観光客も愛してやまない美味しさ。こしあんのほどよい甘さと塩味、大粒の赤えんどうのバランスが絶妙。

主な参考資料(著者敬称略):

『風土記 上』中村啓信 角川ソフィア文庫 /『賀茂御祖神社 下鴨神社のすべて』賀茂御祖神社 編 淡交社 /『下鴨神社と糺の森』賀茂御祖神社 淡交社 /『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社・下鴨神社』淡交社 /『古代豪族系図集覧』近藤敏喬 東京堂出版/『京都の歴史を足元からさぐる』森浩一 学生社 /『秦氏とカモ氏』中村修也 臨川選書 /『神游の庭』新木直人 経済界 /以下、国会図書館デジタルコレクション『瀬見の小河』伴信友 /『御上神社沿革考』『諸系譜』第15冊 中田憲信編 『神社啓蒙』 7巻目録1巻. [3]史料通信叢誌 第9編『日吉社禰宜口伝鈔』史料通信叢誌 第10編『日吉社禰宜口伝鈔』『三輪叢書』大神神社社務所編

TOP