真如堂
(しんにょどう)真如堂こと真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、永観2年(984)に比叡山の戒算(かいさん)により阿弥陀如来像が比叡山から東三条女院の離宮に遷されたのがその始まりです。本尊の阿弥陀如来は「うなずきの弥陀」と呼ばれ、戒算より100年前に円仁によって彫られたものです。「もみじの真如堂」と謳われる紅葉の名所です。
三重塔
山号・寺号 | 鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺(天台宗) |
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住所 | 京都市左京区浄土寺真如町82 |
電話 | 075-771-0915(9:00-16:00) |
アクセス |
金戒光明寺北門から徒歩2分 市バス5,93,203,204系統「真如堂前」または「錦林車庫前」下車徒歩8分 |
拝観時間 | 9:00-16:00(15:45受付終了) |
拝観料 |
本堂・庭園:大人500円 高校生500円 中学生400円 小学生 無料 障がい者手帳の提示で本人様無料 |
公式サイト | https://shin-nyo-do.jp/ |
とりわけ女性に救いの手を差し伸べる「うなずきの弥陀」
真如堂は観光というよりのんびり散歩するように拝観できるお寺です。約1万坪といわれる広い境内には、大きな本堂があり、三重塔まで建つのに大寺院といった趣きはありません。多くの参拝者を集める紅葉のシーズンでさえそれほど喧騒を感じない、ゆったりとした居心地のいいお寺です。寺の正式名は鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)。その本堂「真如堂」を通称して寺全体をそう呼んでいます。
真如堂は永観2年(984)に延暦寺の戒算(かいさん)上人が、東三条女院(藤原詮子・ふじわらのせんし/あきこ)の離宮に堂を建て、比叡山常行堂にあった本尊・阿弥陀如来立像を遷して安置したのが始まりとされています。その場所は現在の真如堂の北端から丘を東へ下ったところで、今では元真如堂(換骨堂)と呼ばれる小さな尼寺となっています。なお、寺の開創を発願した東三条女院は藤原道長の姉であり、後円融天皇の女御であり、一条天皇の母にあたります。
その後、真如堂は一条天皇の勅願寺となり、不断念仏の道場となります。天台宗の寺ではありましたが、一宗一派の枠に留まらず、のちには法然や親鸞をはじめ多くの念仏行者が参堂し、庶民の信仰を集めて、とりわけ女性たちから篤く帰依されたといいます。それには伏線となる伝承がありました。それはこの寺の創建より約100年前の出来事として『真如堂縁起』に述べられています。
延暦寺で最澄に師事していた円仁(えんにん・慈覚大師)は、天長年間(824-833)のある日、近江の苗鹿明神(のうかみょうじん)の助けにより霊木を見つけ、割ってみると木目の鮮やかな阿弥陀如来の坐像と立像の形をした2つの木片が現れました。円仁は一片の阿弥陀坐像を完成させて日吉大社念仏堂の本尊とし、もう一方の阿弥陀立像の木片はそのまましまっておきました。
その後、円仁は承和5年(838)から10年間、唐に留学し、五台山にのぼって天台教学と密教を極め、さらに生身の文殊菩薩から節のついた引声念仏(いんぜいねんぶつ)を授けられたといいます。帰途、荒れ狂う海で引声念仏の一節を忘れてしまった円仁が焼香礼拝すると、帆船の上に小さな阿弥陀如来が現れたので、円仁はその一寸ほどの阿弥陀如来の化仏を持ち帰ったと伝えられています。
帰還した円仁は、しまっておいた木片の阿弥陀如来立像を彫り、船中に現れ持ち帰った小さな阿弥陀如来を立像の胎内に納め、いよいよ完成というところまで仕上げます。ところが、円仁が「比叡山の修行僧のための本尊になってください」と言って、眉間に白毫(びゃくごう・渦巻き状の白い毛)を入れようとすると、如来は首を振って拒否したというのです。「では都に下ってすべての人を、特に女人をお救いください」と頼んだところ、如来はうなずきました。以来この如来は「うなずきの弥陀」と呼ばれ、比叡山常行堂に安置されていました。
時代は下り、永観2年(984)のある日、戒算(かいさん)上人の夢に阿弥陀如来の化身である老僧が現れ「私は比叡山の常行堂からやってきた。私を都に下山させなさい。万人を、なかでも女人を救うためです」と告げられました。比叡山ではこの阿弥陀如来の遷座をめぐって激しく議論が交わされましたが、都の東三条女院の夢にも老僧が現れ「私は常行堂からやってきた。女人済度のため、まずは汝の宮中に迎えよ」とのお告げがありました。こうして正暦5年(994)、「うなずきの弥陀」は女人禁制の比叡山を下り、真如堂の本尊として安置されたと伝えられています。
仏教では、女性は生まれながらに五障の宿命を負うという思想がありました。女人の五つの障りとは、梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏のいずれにも成れないことをいいます。つまり女性は成仏できず、成仏するには浄土に往生して一旦男性に生まれ変わる必要があると説かれていました。今だったら訴えられそう…。
当初、阿弥陀如来像が東三条女院の離宮に迎えられたのは、そんな不自由な存在といわれた女性を救うためだったのかもしれません。けれども離宮の中にお堂が建てられたというのだから、まだ「うなずきの弥陀」の救いは万人に開かれたとはいえなかったでしょう。ちなみに比叡山の恵心僧都源信が『往生要集』で念仏の教えを説いたのも同じころですが、それは主に貴族を対象にしたものでした。しかしやがて念仏信仰はもっと下層の庶民にまで浸透していきます。教えが簡単だったからでしょう。
真如堂のすぐ南には法然が最初に専修念仏の教えを開いたという金戒光明寺があります。法然はたびたび念仏修行のために真如堂に参籠していたといわれています。法然が比叡山を下りたのは43歳の頃といわれているので、「うなずきの弥陀」が元真如堂に祀られてから180年ほど経ってからのことで、そのころには真如堂は現在の辺りにあったのでしょうか。法然の三回忌法要は真如堂で厳修されています。その後、親鸞や多くの僧も真如堂に参堂しています。真如堂は念仏道場の草分け的存在で、やがて僧俗男女貴賤の別なく念仏が信仰されていきました。
真如堂はその後、応仁の乱や火災などで幾度も場所を移し、現在の地に戻って再建されたのは元禄6年(1693)のことといわれています。元禄6年(1693)から享保2年(1717)にかけて建立された本堂には、本尊の阿弥陀如来立像(伝・円仁作)と、脇侍に陰陽師・安倍晴明の念持仏であった不動明王と最澄作と伝わる千手千眼観音が安置されています。
脇侍の不動明王は、安倍晴明が突然死したとき、閻魔王に懇請したため、閻魔王は晴明を蘇生させ、あまねく人々を導くようにと「決定往生之印」を晴明に授けたと伝えられています。安倍晴明は平安時代に活躍した陰陽師で、藤原道長や一条天皇からも頼りにされていました。この極楽浄土行の切符である印紋は7月25日の「宝物虫払会」の参拝時に僧侶の方から直接授けていただけます。またその日以外でも参拝者は本堂で求めることができるそうです。
ところで、浄土宗で行われるお十夜(おじゅうや)の法要は、足利義教の執権であった平貞国が真如堂で10日10夜の念仏を修めたことに始まるといわれています。その後、後土御門天皇の勅許をうけ、鎌倉光明寺でも行われるようになり、浄土宗の重要な仏事となったようです。
一方、真如堂のお十夜の法要は毎年11月5日から15日にかけて厳修されます。また15日の結願法要の日には一般の人も本尊を間近で参拝できるほか、中風除けの小豆粥が参拝者に授けられます。