南禅寺
(なんぜんじ)南禅寺は、鎌倉時代に亀山法皇が母の大宮院のために建てた離宮・禅林寺殿がその前身です。 禅林寺殿に頻出した妖怪を鎮めた無関普門(むかんふもん)を開山に迎え禅寺に改められました。 三門の楼上からは京都の街が一望できます。岡崎公園にも近く、周辺にはたくさんの観光スポットがあります。
三門
山号・寺号 | 瑞龍山 南禅寺(臨済宗南禅寺派) |
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住所 | 京都府京都市左京区南禅寺福地町 |
電話 | 075-771-0365 |
アクセス | 地下鉄 東西線「蹴上駅」下車徒歩10分 市バス 5系統 「東天王町」または「南禅寺・永観堂道」下車徒歩10分 32,93,203,204系統「東天王町」下車徒歩約10分 |
拝観時間 | 12/1~2/28 8:40-16:30 3/1~11/30 8:40-17:00 拝観受付は拝観時間終了の20分前まで 12/28~31は一般拝観なし |
拝観料 | 方丈庭園:一般600円 高校生500円 小中学生400円 三門:一般600円 高校生500円 小中学生400円 南禅院:一般400円 高校生350円 小中学生250円 (それぞれ団体30名以上で割引あり) 障がい者の方:障害者手帳の提示で無料(付添い1名様無料) |
公式サイト | https://nanzenji.or.jp/ |
亀山法皇を悩ませた妖怪と、それを鎮めた無関普門(むかんふもん)
亀山上皇は40歳で仏門に入り法皇となり、その2年後の正応4年(1291年)に、母大宮院のために建てた禅林寺殿(ぜんりんじどの)を寺に改めて禅林禅寺としました。亀山天皇はのちに南朝となる大覚寺統の最初の天皇になった人でありました。皇室が分裂するきっかけをつくったのは亀山天皇の父、後嵯峨天皇であったといわれています。
鎌倉時代の寛元4年(1246)、後嵯峨天皇は4歳の久仁親王(ひさひとしんのう・のち後深草天皇)に譲位して自らは院政を行います。しかし正元元年(1259年)、後嵯峨上皇は後深草天皇に皇子ができるのを待たずに、後深草天皇の弟である恒仁親王(つねひとしんのう・のちの亀山天皇)に譲位させました。その後、後深草上皇に熈仁親王(ひろひとしんのう)が生まれましたが、後嵯峨上皇は熈仁親王を差し置いて、亀山天皇の皇子である世仁親王(よひとしんのう・後宇多天皇)を皇太子としました。
そして後深草上皇と亀山天皇のどちらを後継者(治天)とするかを指名せずに後嵯峨上皇は崩御します。結局、亀山天皇が後宇多天皇に譲位して治天となりました。ないがしろにされた後深草上皇は不満を募らせたといわれています。
これがもとで皇室は、亀山天皇の流れをひく大覚寺統と、後深草天皇の流れをひく持明院統に分裂します。皇室の分裂は周囲の人々の分裂をも意味し、他の皇族や貴族、女院までもが対立することになりました。そこで鎌倉幕府が介入し、両方の皇統が交替で皇位につく両統迭立の制度が定められました。しかしこれがやがて南北朝の動乱へと発展することになります。
後宇多天皇に譲位して院政を執った亀山上皇の時代には2度の元寇がありました。九州を中心とする地方の武士や御家人たちが鎮西(ちんぜい)で奮戦する一方、亀山上皇は諸国の社寺に敵国降伏の祈祷を命じたといわれています。結果、蒙古は撤退しましたが、国の経済は疲弊し鎌倉政権も動揺しました。その後、霜月騒動によって、一時的に安達泰盛(あだちやすもり)と協調していた亀山上皇と幕府の間に不和が生じ、幕府は煕仁親王(ひろひとしんのう・伏見天皇)の即位と後深草上皇の院政を要求しました。大覚寺統から持明院統への皇位交替です。正応2年(1289)、亀山上皇は生母・大宮院の離宮として建てた禅林寺殿の持仏堂で出家し、法皇となりました。
それから間もなくして、禅林寺殿には昼夜問わず物の怪(もののけ)が現れ、戸障子が開いたり、人の気配がして、法皇や廷臣、女官たちが悩まされる事件が頻発しました。あまりに不気味なので、亀山法皇は怪異退散の法力に優れた西大寺の叡尊(えいそん)を招いて加持祈祷をさせましたが効果はなかったようです。
そこで今度は東福寺3世の無関普門(むかんふもん)が招かれます。無関禅師は20名の僧を率いて禅林寺殿に入り、二時の食事(じきじ)と四時の坐禅をして、清規に則り静粛に作務を行うと、それだけで物の怪は完全に鎮まったと伝えられています。禅師は『史記』から引用して「妖は徳に勝たず」と言いました。よろこんだ法皇は禅師に師事して、正応4年(1291)法皇自らの発願で禅林寺殿を禅林禅寺に改めました。これが南禅寺の始まりです。
同じ年の12月、開山の無関禅師が遷化。遺偈は「来たるに所住なく 去るに方所なし 畢竟如何(ひっきょういかん) 喝 当処を離れず」(過去や未来に居場所があるわけではない。すなわち、今この時この場に生きよ)でした。この直前、法皇は東福寺に臨幸して病に臥せる無関禅師を見舞い、自ら薬湯を勧めたと伝えられています。
無関普門のあとを嗣いだ規庵祖円(きあんそえん)は伽藍建立を一から始め、仏殿や法堂、三門や僧堂などを建立しました。当初、寺院としての堂塔は一宇もなかったようです。規庵禅師は入寺して以来、20年近く土木工事に明け暮れたので、この功績から規庵禅師は「創建開山」と呼ばれました。また亀山法皇も仏殿の基壇築造のために自ら土を運び石を曳いたといわれています。約100年後にはこれに倣って足利義満が相国寺の建設の際、自ら土を運んでいます。
法皇は「禅林禅寺起願事」という願文で、寺の創建は利生の悲願をめざすものであること、法皇自身が寄進した寺領を将来に減少させてはならないこと、住持の選定は、法流を問わず、学徳を兼ね備えた禅僧を住持とする十方住持制を貫くことなどを明記しています。その後、規庵禅師の奏上により、日本に伝わる禅は中国における南宗禅であることから、南禅寺と寺号が改められました。南禅寺の伽藍は延慶年間(1308-10)に完成しますが、亀山法皇はそれを待たずに嘉元3年(1305)に崩御しました。
後醍醐天皇の時代になると、南宋の五山に倣って南禅寺と大徳寺は禅宗寺院の第一に指定されています。室町時代には足利義満が自分の建てた相国寺を五山の第一とするために、義堂周信(ぎどうしゅうしん)に相談した結果、南禅寺は京都五山と鎌倉五山のさらに上に押し上げられて「別格」とされました。こうして最高の寺格を得た南禅寺は五山派の頂点に立ち、五山派の禅僧にとって、南禅寺の住持という地位は一種の勲章になっていったといわれています。その結果、実際に入寺せず、多額の礼金を払って幕府の発給する住持任命書「公帖(こうじょう)」を受け取る禅僧もあったようです。幕府が収入源とした時代なのでしょう。
その後、南禅寺は度重なる兵火により焼失と再建を繰り返しますが、応仁・文明の乱で炎上して寺全体が灰塵となり、復興は秀吉と家康の時代まで持ち越されました。
江戸時代に以心崇伝が再興。庭園と狩野派の襖絵を観る
南禅寺の中門を入って左に折れると、勅使門の正面にどっしりと三門が構えています。こちらの三門は伊賀の大名・藤堂高虎(とうどうたかとら)によって、大坂夏の陣で戦死した親族や家臣たちへの供養のために寄進されたもの。寛永3年(1626)から造営計画が始まり、翌年には材木や石材が用意され、翌寛永5年(1628)に旧三門を取り壊して新たに造営されました。
三門の階段は急なので足元が気になりますが、楼上に上がると京都の街が一望できます。歌舞伎狂言「金門五三桐(きんもんごさんのきり)」で、石川五右衛門が楼上から「絶景かな、絶景かな」と満開の桜を眺める台詞は有名ですが、三門が建てられたのは石川五右衛門が釜茹でにされた後なのでこの物語はフィクションです。楼内の須弥壇には宝冠の釈迦如来像と脇侍に月蓋長者像、善財童子像が安置され、左右に十六羅漢像が配置されています。また以心崇伝と家康、藤堂高虎の像も安置されています。
豊臣秀吉が天下を統一すると、戦乱で寺領が失われて窮乏状態にあった南禅寺に対し、秀吉は南禅寺門前と京都近郊の領地約700石を安堵しています。江戸時代に入ると、慶長10年(1605年)に徳川家康から南禅寺住持に任命された以心崇伝(いしんすうでん)が再興に奔走しました。崇伝は京都生まれの一色氏の一族で、幼いころから南禅寺で修行し、26歳で官寺の住職となり、37歳で南禅寺住持となりました。
崇伝は塔頭の金地院に住んだので金地院崇伝(こんちいんすうでん)ともよばれます。また「黒衣の宰相」とよばれ、徳川家康の側近として、家康没後は秀忠、家光にも仕え、外交文書の作成をはじめ、キリスト教の禁止や、寺院諸法度、武家諸法度、禁中並公家諸法度、檀家寺請制度など多くの法令を作成し、政治面でも活躍した敏腕僧でした。方広寺の鍾銘「国家安康」に難を見つけて豊臣家を追い込んだともいわれています。なお崇伝のライバルといわれる天海も家康の側近でした。
崇伝がつくった法令には、朝廷の反発もありました。崇伝の起草した寺院諸法度や、禁中並公家諸法度に規定された紫衣授与に端を発して、寛永4年(1627年)、幕府の命令に抗弁した沢庵をはじめとする大徳寺・妙心寺の禅僧5人が流罪に処された紫衣事件は有名です。これに対し、後水尾天皇は独断の譲位を決めて、その後しばらく朝幕に大きな確執をもたらしました。
また崇伝は寺院諸法度で、それまで相国寺鹿苑院に置かれていた僧録司を廃止し、元和5年(1619年)に崇伝が僧録となり、金地院に僧録司を置きました。僧録司は五山十刹以下全ての住職の任命権を持つ最高機関で、以降、金地院の院主が僧録を兼務することになります。
崇伝は南禅寺住持となって以降、南禅寺の復興に尽力し、まずは法堂を新造させました。この事業は豊臣秀頼を施主とし、片桐貞隆を普請奉行として着工、慶長11年(1606)に完成して落慶供養が行われています。また同時期の禁裏の造営に伴い、不要になった御殿を南禅寺に賜わるよう交渉して実現させています。
南禅寺の方丈は、大方丈とその背後に接続した小方丈からなっています。大方丈の建物は、寺伝によれば、慶長16年(1611)に御所から清涼殿を移築したものと伝えられますが、仙洞御所の対面御殿という説が有力だそうです。ちょうどそのころ御所も徳川幕府によって大改築がなされていました。初め、崇伝は旧清涼殿を所望して朝廷に交渉を続けていたのですが、清涼殿は女院御所として移築されることに決まったため、後陽成天皇の母・上東門院の旧殿である仙洞御所の対面所が下賜されたと考えられています。公家の日野輝資(ひのてるすけ)が崇伝に宛てた書状には、仙洞御所について「金のはり付えいとくの画にて候」と書かれ、仙洞御所なら狩野永徳の金箔張りの絵が一緒についてくるよ、と説明されています。
ただし、現存する永徳筆と認められる作品は少ないといわれ、現在の大方丈に飾られる障壁画についても、まだどれも永徳作とはっきり認定されたものはなく、美術史家の間で議論が続いているそうです。大方丈の広縁からは小堀遠州の作と伝わる枯山水の庭園を眺めることができます。石組みはいわゆる「虎の子渡し」と呼ばれています。また、広縁の欄間の両面透かし彫りは左甚五郎作といわれています。左甚五郎といえば、知恩院の仕事で「忘れ傘」を置いていったといわれる彫刻職人です。
小方丈には狩野派の障壁画(複製)がいたるところに飾られています。虎の間には狩野探幽筆とされる群虎図がめぐらされ、虎の間自体がもうサファリパークのようです。とりわけ「水呑みの虎」が有名です。また虎ではなく豹も描かれていますが、当時、豹はメスの虎だと考えられていたようです。廊下からは鳴滝庭、六道庭、華厳の庭、茶室などが鑑賞できます。