八坂神社
(やさかじんじゃ)四条通りの東端、祇園の地に素戔嗚命(スサノオノミコト)を祀る八坂神社が建っています。八坂神社はかつて祇園感神院とよばれ、仏教色の濃い神社でした。疫病を鎮めるために始まった祇園祭は、やがて京都の町衆の支持により盛大な祭りとなり、今や京都の夏の風物詩です。
西楼門
社名・社号 | 八坂神社 |
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住所 | 京都市東山区祇園町北側625番地 |
電話 | 075-561-6155 |
アクセス |
市バス12,31,46,58,80,100,201,202,203,206,207 系統「祇園」下車すぐ 京阪電車「祇園四条」下車、徒歩約5分 阪急電車「京都河原町」下車、徒歩約8分 |
参拝時間 | 境内24時間自由 社務所:9:00-17:00 |
公式サイト | http://www.yasaka-jinja.or.jp/ |
疫神、牛頭天王(ごずてんのう)とスサノオノミコト
八坂神社は四条通の東の突き当りにあり、晴れた日の午後は朱塗りの西楼門に日が当たって眩しいくらいに美しく輝きます。石段を上がって楼門をくぐると参道が二手に分かれ、回り込むように本殿へと続いていて、普通は露店の出る右側を行きます。ちなみに西楼門前には鳥居はありません。
八坂神社は若い頃からお参りをするというより単にぶらぶらする場所でした。境内奥には円山公園があり、池のまわりを散歩したり、長楽館でお茶したり、お花見をしたり、手軽に暇つぶしできるのがよかったのです。今はありませんが以前は境内に怪しい見世物小屋まであって、「400年間生き続ける世にも恐ろしい蛇女」も公開されていました。友人と冷やかしに入ったら、水のない水槽で頭部にピンクのリボンが付けられたヘビがとぐろを巻いていました。
そもそも八坂神社には種々雑多なものを取り込んでいく空気があります。祇園界隈は人が寄り集まる京都一の歓楽街なので、人のさまざまなドラマを日々受け止めています。この場所が賑わうようになったのは八坂神社の門前町であったからとか、周辺に寺社が多かったからといわれていますが、もともと人が集まりやすい場所といえるかもしれません。平安京遷都に際して、山城盆地は陰陽道で四神相応の地とみなされました。東山の一帯は青龍にあたり、八坂神社の地はその龍穴にあたるとされています。
ところで八坂神社の正門は先ほど述べた西楼門ではなく、南楼門です。南楼門をくぐると正面に舞殿があり、その先に本殿があります。また南楼門の手前には石鳥居が建っていて、明治の神仏分離以前は「感神院」と書かれた額が掲げられていました。八坂神社の社号も明治以降のもので、それ以前は「祇園感神院」とか「祇園社」とか「感神院」などとよばれていました。つまり神社としては祇園社、寺院としては感神院だったのです。
古くは境内に薬師堂や鐘楼、多宝塔などが建ち並んでいました。今も円山公園の周辺には安養寺や長楽寺、双林寺などのお寺があり、あたりは寺院地帯だったことが窺えます。感神院は初め興福寺の末寺でしたが、南都北嶺の抗争のなかで仁平2年(1152)ごろに延暦寺の末寺に組み入れられたといわれています。
八坂神社の創祀について、社伝によれば、斉明天皇2年(656)に高句麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が、新羅の牛頭山(ごずさん)に降った素戔嗚命(すさのおのみこと)を八坂の地に勧請したことに始まるとしています。また、貞観18年(876)に興福寺の円如により薬師堂が建てられ、東山山麓の祇園林に牛頭天王が垂迹したともいわれています。
『日本書紀』第8段一書4によれば、高天原を追われたスサノオは、いったん新羅のソシモリに立ち寄ってから出雲に来たことになっています。また『書紀』には、斉明天皇2年(656)に使節として達沙と伊利之(いりし)以下81人が来朝したと記され、一行は八坂の地に根をおろして八坂造氏(やさかのみやつこ)の祖となったといわれています。
『新撰姓氏録』によれば、八坂造は「出自 狛国人之留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)也」と記され、意利佐(おりさ)は斉明期に来朝した伊利之(いりし)と同人とみられています。なお、当時の狛(こま)国は、一般的に高句麗のことと解され、縁起にある新羅の牛頭山とどう合致するのか分かりにくいのですが、山城国には狛からも多くの移住者がありました。八坂神社の周辺は八坂郷といわれ、この地名から八坂氏を称したといわれています。
また、平安時代の天長6年(829)に、紀百継(きのももつぐ)が八坂郷の丘の一部を賜って祭祀の地とし、これが感神院の始まりともいわれています。その後、紀朝臣氏が八坂氏の婿となり、その子孫によって感神院の職が嗣がれ、明治まで世襲されていました。紀百継は、桓武朝から淳和朝まで官人であった人で、官位は従二位、参議にまで昇っています。
伝えられる系譜によれば、紀朝臣氏の遠祖と母系でつながる紀直や紀国造は、その遠祖の神々とスサノオの子らとの強固な婚姻関係が伝えられており、紀伊国ではスサノオの子である伊太祁曽(イタキソ・イタケル)や大屋都姫(オオヤツヒメ)や抓津姫(ツマヅヒメ)が盛んに祀られていました。紀朝臣氏にも篤いスサノオ信仰が受け継がれたのかもしれません。
『日本書紀』本文に書かれるスサノオは、イザナギとイザナミの子で、天照大神の弟とされています。横暴だったために高天原を追放され、出雲の斐伊川の川上にやってきたとき、八岐大蛇(やまたのおろち)に食べられそうになっていた奇稲田姫(くしいなだひめ)と出会います。スサノオは、八岐大蛇をお酒で酔わせて退治し、奇稲田姫を無事に救って妻としました。泣き虫だったり、やんちゃなイメージのある個性的な神さまとして描かれています。
またスサノオには、青山を枯らすほど水を奪い、海を揺らし山を鳴動させる荒ぶる神、武神や製鉄と結びつく剣の神、長雨を降らす龍神など、さまざまな神格が備わっていますが、八坂神社のスサノオはもっぱら疫病鎮めの神さまでした。
八坂神社の本殿には素戔嗚命、櫛稲田姫命(くしいなだひめ)、神大市比売命(かむおおいちひめ)ほか、近親の神さまを合わせて13座が、そのほか境内には親類縁者の神さまがたくさん祀られています。しかし、平安時代から明治までは神仏習合により、祭神は牛頭天王(ごずてんのう)、頗梨采女(ばりうねめ)、八王子(または沙竭羅龍王・さがらりゅうおう)の三座でした。
牛頭天王は文字通り牛頭を載く異形の神で、木津川市の松尾神社所蔵の牛頭天王像の頭にも牛頭が載せられています(山城郷土資料館)。ただ、牛頭天王の由来は明らかではなく、韓国の春川牛頭山に起源を求める説や、『書紀』一書にある「ソシモリ」には高い柱の頂上という意味があり、関連する遺跡を朝鮮半島に求める説もあります。また『魏志』韓伝には、蘇塗(そと)とよばれる聖地において、大木を立て鈴鼓をかけて鬼神を祭る、とされ、その祭祀が祇園祭の鉾に通じるのではとも考えられています。
一方で、牛頭天王は天竺(インド)の疫病の神であり、天竺にあったといわれる釈迦ゆかりの祇園精舎の守護神といわれています。八坂神社はこの牛頭天王が鎮座したので祇園社と呼ばれるようになり、あたりの地名も祇園と呼ばれたともいわれています。
『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』には、牛頭天王は北天竺の国王で、またの名を武塔天神(むとうてんじん)といい、武塔天神は沙竭羅龍王(さがらりゅうおう)の三女、頗梨采女(ばりうねめ)を后として八王子を生んだと記されています。そして、この武塔天神が自らをスサノオと名乗る説話が「備後国風土記」に疫隅神社(えのくまじんじゃ)の縁起として書かれています(以下は大意)。
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北海の武塔天神が南海に嫁取りに出かけて日が暮れ、宿を探していたところ蘇民兄弟に出会った。そこで武塔天神は裕福な弟の蘇民巨旦(そみんこたん)に泊めてくれと頼んだが断られてしまった。けれども兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しいにもかかわらず粟飯と寝具を用意してもてなした。
何年か経ち、武塔天神が8人の御子神を連れて再び蘇民将来のところに現れ、以前泊めてもらったお礼にと茅の輪を授けた。疫病が流行ったとき、武塔天神にいわれたとおり、茅の輪を腰につけると、蘇民将来と1人の女の子は病気を免れた。一方、弟の蘇民巨旦とその家族は全員死んでしまった。このとき武塔天神は「吾はハヤスサノオの神なり。後世に疫病あらば蘇民将来の子孫なりといって茅の輪をつけ、病を免れよ」と言い残したという。
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蘇民将来は八坂神社の西楼門を入ってすぐの疫神社に祀られています。疫神社の祭礼では伝承に倣ってか、粟飯が供えられるそうです。また祇園祭では「蘇民将来之子孫也」の護符が付けられた「ちまき」が授けられます。これを軒先や屋内に吊るしたりする風習がかつて新羅にもあったといわれ、もとは中国に起源があるといわれています。天竺の武塔天神がスサノオと習合したのには、どちらも荒ぶる神で、恐ろしい一面をもちながら、英雄にも転じる疫神的性格をもっていたからとも考えられています。または、遥か昔にインドを源郷とした部族が長い時を経て中国や半島経由で日本に来ていたのかもしれません。
ところで、吉田兼倶が撰した『二十二社註式』には、牛頭天王は初め播磨国明石浦に垂迹し、廣峯に移り、その後、北白川の東光寺に移り、陽成院の元慶年中(877-85)に感神院に移ったと記されています。廣峯は姫路市の広峯神社のことで、牛頭天王の神霊は広峯神社から祇園社に分祀されたという説が唱えられてきました。東光寺というのはその鎮守社であった牛頭天王社(岡崎神社)を指すと考えられていて、岡崎神社の社伝では、貞観11年(869)に清和天皇によって社殿が造営され、広峯神社から牛頭天王が勧請されたといわれています。その後の八坂神社との関係は伝えられていませんが、このことに端を発して祇園社の本末論争があったようです。
広峯神社の大別当社務職を世襲した広峯氏は凡河内氏の後裔とされています。私見では、凡河内氏も紀国造の遠祖から枝分かれしたとみられる氏族で物部氏と同族です。また、牛頭天王が勧請されたという岡崎神社は八坂郷の北に接する粟田郷に位置し、勧請には粟田氏の協力があったのではないかとも考えられています。粟田氏は和邇氏から分かれた海神系氏族ですが、海神系氏族も牛頭天王やスサノオを盛んに祀っていました。また、八坂氏以外の渡来系氏族にもスサノオ信仰がみられます。もともとスサノオの神格の原型は何千年も遡るという見方があり、それぞれの氏族が列島に渡来する以前から、各々にとっての固有のスサノオ信仰があったのかもしれません。
平安時代の祇園御霊会と、中世以降に町衆が支えた祇園祭
八坂神社の祭礼である祇園祭は、大阪の天神祭、東京の神田祭と並んで日本三大祭のひとつに数えられ、毎年7月1日から1ヵ月間続きます。7月に入り、四条通のアーケードに祇園囃子が流れ出すと、京都特有の蒸し暑さとともに市民のお祭モードにスイッチが入ります。ハイライトは7月17日の前祭(さきまつり)と、7月24日の後祭(あとまつり)ですが、神事や関連行事は1ヵ月間ほぼ絶え間なくつづきます。以前は17日にすべての山鉾が巡行していましたが、2014年に古儀が復活、前祭と後祭に分かれました。
16日の宵山は四条通と烏丸通が歩行者天国になり、四条界隈は人で埋め尽くされ、夜遅くまで賑わいます。17日は23基の山鉾が巡行し、夕方から夜にかけて神幸祭の神輿渡御が行われ、四条寺町の御旅所に御祭神が迎えられます。また24日は10基の山鉾巡行と還幸祭が行われます。華やかな山鉾巡行と、勇壮な神輿渡御は対照的で、どちらも見ごたえがあります。
貞観11年(869)に「天下大疫」が起こり、神泉苑で御霊会が行われました。このとき祇園社は長さ2丈(約6m)ほどの鉾を諸国の数に従って66本立て、洛中の男児と郊外の百姓を率いて3基の神輿が神泉苑に渡御したと伝えられています。鉾先には疫病の悪精を依り憑かせたのでしょう。また『三代実録』貞観7年(865)6月14日条にも、御霊会に寄せて群衆が集まり走馬騎射することを禁じる、とあり、6月14日というのは祇園社の還幸祭の日にあたるため、貞観11年の「天下大疫」以前にも御霊会が行われていた可能性があると考えられています。
御霊会とは、疫病などの悪精や、非業の死を遂げた人々の怨霊や、「もののけ」などの悪霊を慰めて御霊とし、境域外に送り出す神送りの儀礼といわれています。そのためもともと御霊会には社殿や鎮座地は必要なく、その都度場所を選んで御霊を迎えるものだったようです。船岡山や衣笠の御霊会はその例で、八坂の御霊会も、はじめはそうした臨時祭的なものであったために、創祀伝承がいくつもあるのかも知れません。
祇園御霊会は、天延2年(974)に円融天皇の疱瘡平癒を祈願して行われたのち、官祭となります。御霊会の祭礼は歌舞音曲や散楽など風流を凝らしたものだったようです。また鉾は当初、祇園社が所有し、それを毎年氏子が預かって装飾し、祭りに使っていたと伝えられています。時代とともに町衆が力をつけると山鉾は町衆が管理するようになり、山鉾巡行が大きな行事となっていきました。
山鉾は豪華絢爛、壮麗な懸物(かけもの)などの装飾を凝らして巡行します。これは古くから織物を中心とする商工業に携わってきた山鉾町の人々が、八坂神社の氏子の中心であったからといわれています。中世に同業者集団である「座」が結成されると、朝廷や大社寺などの本所に所属して、貢納や奉仕をするかわりに商いの特権が認められました。祇園社に属した座は練絹座や綿座ほか数多くあり、その座の人々が神人(じにん)となり、祇園社の祭祀に奉仕することでそれぞれの商いが保護されていました。やがてその中でリーダーが生まれ、自治団結する町衆が形成されていきます。
しかし応仁の乱が起こると祇園祭は一時途絶えます。乱前に58基あった山鉾のほとんどが被害を受け、祇園祭で山鉾巡行を担った町衆は各地に離散しました。やがてもとの場所に戻った町衆たちが最初に望んだのは祇園祭の復興だったといわれています。「祭」には荒廃から立ち直るために人々が心をひとつにする推進力がありました。再開後も騒乱により幕府から幾たびか祭りの中止命令が出されたとき、町衆は「神事これなくとも、山鉾渡したし」と願い出たと伝えられています。
乱後23年経った明応9年(1500)にようやく山鉾36基が揃い、祇園祭が再開されました。このとき山鉾巡行の順番を巡って論争が起こったため、初めて六角堂でくじ取り式が行われ、巡行の順を決めるしきたりが始まります。
現在、くじ取り式は、7月2日に京都市役所の市議会議場で行われます。山鉾巡行ではそれぞれの山鉾が出発する前に、奉行(京都市長)にくじ順を確認してもらう「くじ改め」の儀式があり、見せ場のひとつになっています。氏子の代表は、くじ札が納められた文箱の結び紐を扇子を使って解き、蓋を開けて差し出します。くじの確認後も扇子を使って文箱に紐を巻き付けるのですが、くるくるっと上手く巻き付くと観衆から大きな拍手が起こります。
山鉾にはそのひとつひとつに故事にちなんだ装飾が施されています。懸物は由緒ある絵師の下絵をもとに織られたものや、舶来のタペストリー、絨毯、復元新調の染織物などさまざまで、動く博物館、歩く美術館などと呼ばれますが、懸装品は壁代(かべしろ)で、それに囲まれた中は神の御座所を意味します。山鉾に飾られる人形も神の姿であり、氏子の信仰を表しています。なお、古く貴重な懸物は文化財として保存され、適宜新調されて巡行されるので、毎年同じ懸物が見られるわけではありません。
それにしても、16世紀以降、中国、朝鮮、インド、トルコ、ペルシア、ムガール、ベルギー、フランス、イギリス、ロシアなどから輸入された懸装品は、本来の信仰とは結びつきそうにないものも多く、そこが面白いところです。しかしそれを呼び込んだのは、京都の豪商や町衆の知識・財力・国際感覚でした。一方で、山鉾の神の御座所はいずれも日本の故事や、中国の故事などが再現されていて、記・紀では語られることのない神代の世界も映し出されています。
また、17日の夕方からは神幸祭の神輿渡御が始まります。八坂神社の舞殿から出された3基の神輿に神霊が遷され、境内を出て西楼門前の祇園(東山四条)の交差点に集結し、その後、それぞれのルートで御旅所まで渡御します。このときは、車両の交通も、人の横断もシャットアウトされて祇園祭は最高潮に達します。