相国寺
(しょうこくじ)相国寺は、室町3代将軍足利義満が花の御所に隣接して建てた臨済宗の禅寺です。かつては約144万坪の広大な寺域を擁し、七重塔も建てられていました。法堂の天井には狩野光信による播龍図が描かれています。また、境内の承天閣美術館では伊藤若冲の作品が常設展示されています。
庫裏(香積院)
山号・寺号 | 萬年山 相国承天禅寺 (臨済宗相国寺派) |
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住所 | 京都市上京区今出川通烏丸東入 |
電話 | 075-231-0301 |
アクセス | 地下鉄「今出川駅」下車徒歩5分 市バス 201,203,59系統「同志社前」下車徒歩3分 51系統「烏丸今出川」下車徒歩5分 |
拝観時間 | 10:00-16:00 |
拝観料 | 特別拝観:
一般800円 65歳以上・中高生700円 小学生400円 障害者手帳の提示で本人と付添1名無料 |
公式サイト | https://www.shokoku-ji.jp/ |
足利義満と相国寺
花の御所(室町殿)を建て、宝憧寺(現在の鹿王院)を建設中だった室町3代将軍足利義満は、次に一寺を建立し、志ある修行僧たちを住まわせ、義満自身も一緒に参禅に励みたいと願いました。夢窓疎石の高弟であった春屋妙葩(しゅんおくみょうは)と義堂周信(ぎどうしゅうしん)に相談すると「せっかく建てるなら祖父尊氏(たかうじ)が建てた天龍寺のような大きな寺を建てるべき」と勧められ、義満は相国寺建立を発願します。永徳2年(1382)、義満25歳のときでした。
寺号は春屋の提案で、宋代の中国五山発祥の寺「大相国寺」に倣い「萬年山相國承天禅寺」に決まりました。「相国」とは、中国で宰相を意味するそうです。義満は、春屋を開山に招請しますが、春屋は「師である夢窓疎石を開山に、私は第2世住持に」と申し出て、すでに亡き夢窓疎石が開山となりました。
室町一条の総門から北は上御霊神社の森まで、東西は寺町通から大宮通まで約144万坪の寺域が確保されました。そして着工から徐々に堂宇が建立され、10年経った明徳3年(1392)、ついに相国寺の中心伽藍が完成します。広大な境内には、法堂、仏殿、方丈、講堂、祖師堂、鐘楼、八講堂などが建ち並びました。けれども、春屋も義堂もその完成を見届けることなくすでに示寂していました。
同年8月の落慶供養には、大勢の公家や足利氏に臣従していた武士たちが華麗な装いで参列しています。『相国寺供養記』には参列者の装束や鎧や刀、馬の毛色などが事細かに記され「都の群衆が垣のように集まり着飾った人で埋め尽くされて市のようだった」と書かれています。
義満は臣下の装いについて、とくにTPO(時・場所・場合)をわきまえているかについてはうるさかったようです。また禅の教えから、行事への全員参加、時間厳守といった規律にも大変厳しかったといわれています。元で刊行された『勅修百丈清規(ちょくしゅうばじょうしんぎ)』を使って禅宗規則を義満に説いたのは、義堂周信でした。
義満は延文3年(1358)に生まれ、父の義詮(よしあきら)が病没した翌年の貞治7年(1368)に11歳で将軍となりました。18歳のとき日野業子と結婚し、朝廷に初めて参内しています。義満に宮廷文化を教え込んだのは二条良基(にじょうよしもと)でした。
武家の誰もが面倒くさがって尻込みするような儀式や祭祀に、義満は旺盛な好奇心をもって学んだようです。笙を習い、蹴鞠に熱中し、花瓶に生けた花を競う花御会(はなおんえ)などの宮廷行事にも夢中になって取り組んでいました。義満は将軍でありながら、21歳で右近衛大将、24歳で内大臣から左大臣へと官位も昇進、朝廷におけるさまざまな決定権を獲得していきました。一説に、義満は公家に憧れていたとも考えられています。
また寺社参詣や法会にも熱心だった義満は、興福寺や比叡山を積極的に保護して帰順させ、懐柔に成功しています。白河天皇が意のままにならぬものとして挙げた比叡山を、義満は簡単に支配下に収めたのです。これは失脚した細川頼之に替わって管領となった斯波義将(しばよしゆき)の手腕であったともいわれています。義満の執った政治は、自分に従順な者は手厚く保護し、歯向かう者は容赦しないという一貫性がありました。
相国寺落慶供養の前年には明徳の乱が起こり、義満は山名氏の勢力を削ぐことにも成功しています。強大化する守護大名を挑発して内紛を促す、というのは義満が得意とした手段だったようです。合戦では幕府軍は苦戦を強いられましたが、そんな時でさえ義満は装いに気を配ることを忘れませんでした。
義満は「家僕退治だから」といって武装せず、烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)姿で出陣し、戦場では、朝敵征伐のときに着る小袖ではなく、ふすべ革の腹巻に黒皮おどしの鎧をつけ、五枚兜の緒を締め、篠作りという帯刀、二銘(ふたつめい)という太刀を二振り、薬研通しという脇差しを差していたといわれています。また直属の御馬廻衆である一色詮範(いっしきあきのり)や今川仲秋も、義満の好み通り、馬具や鞍、具足に至るまで金銀を施した装いで、五枚兜には敵を威嚇するのに十分すぎる5尺2寸の銀の鍬形をつけていたと伝えられています(『明徳記』)。
相国寺落慶供養が行われたのはこの乱が平定された直後であり、さらに長年続いた南北朝の争いも終結目前でした。君主、義満の威光を示すに十分な機会となりました。
その後まもなく義満は相国寺境内に七重塔を建てはじめ、応永6年(1399)に完成、相国寺大塔供養が行われました。『相国寺塔供養記』には「さるはたかさも法勝寺の塔にはまさりたりとぞうけ給はる」と記されています。白河天皇が建てた法勝寺の九重塔はこの57年前に焼けていましたが、当時の人々にはその塔よりも高いと認識されていたように書かれています。
また『南朝紀伝(南方紀伝)』には「相國寺七重の供養塔。三百六十尺」と書かれていて、もしこれが本当なら109mあったことになります。しかし4年後にこの摩天楼は落雷で焼けてしまい、その後再建されますが、文明2年(1470)にまたも落雷で焼失し、以降、相国寺での再建はなりませんでした。
相国寺は京都五山の第2位に列せられ、全国の五山十刹などの禅宗寺院を統括する僧録司(そうろくし)も相国寺塔頭の鹿苑院に置かれました。その初代僧録司には春屋妙葩が任命されています。
狩野光信の「鳴き龍」が睨む法堂
相国寺は五山文化の中心として、多くの五山僧を輩出しました。春屋妙葩は南禅寺三門の建造をめぐり園城寺と延暦寺から抗議を受け、丹後の雲門院に隠棲して9年間を過ごしていますが、この間に中国語や漢詩文を極め、五山版などの五山文学の出版にも尽力したといわれています。また義堂周信と絶海中津(ぜっかいちゅうしん)は中国の文化や詩文に通じ、五山文学の双璧と呼ばれていました。
画僧には『瓢鯰図(ひょうねんず)』で有名な如拙(じょせつ)が出て、その門下には水墨画を大成した周文(しゅうぶん)がいます。さらに周文の門下からは小栗宗湛(おぐりそうたん)と雪舟が出て、周文と宗湛は将軍の絵師となりました。一方、雪舟は中国に渡り中国人以上の天才と称賛されています。雪舟は帰国後、周防や豊後、石見を拠点として京都には戻りませんでした。如拙も周文も宗湛も雪舟も相国寺の禅僧でした。ちなみに如拙の『瓢鯰図』は妙心寺塔頭の退蔵院で観ることができます。
こうして隆盛を極めた相国寺と花の御所でしが、応仁の乱で全焼しています。その後再建が進められますが、天文20年(1551)に細川春元と三好長慶の争いで再び全焼し、のちに、秀吉や家康の顧問をしていた相国寺第92世の西笑承兌(さいしょう じょうたい)により再建されました。慶長14年(1609)には境内に三門も建っていましたが、その11年後の元和6年(1620)に、またも火災で方丈や開山塔など多くの堂舎が焼けてしまいます。
この不運に手を差し伸べたのが後水尾上皇でした。寛永8年(1631)に旧殿が下賜されて方丈となり、貞応2年(1653)には宝塔が建てられ、後水尾院自ら出家落髪したときの髪を柱心に納められました。次いで開山塔も再建されています。しかし京都の町中を襲った天明の大火(天明8年・1788)では、またしても法堂以外の堂宇を焼失。現在の伽藍のほとんどは文化4年(1807)に、恭礼門院(きょうれいもんいん)の旧殿を下賜されたものです。
天明の大火による被災を免れた現在の法堂は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により再建されたもので、わが国禅宗様の法堂建築として最古のものといわれています。その天井には狩野永徳の長男、光信による蟠龍図(ばんりゅうず)が描かれています。この龍は「鳴き龍」として知られ、拝観時にひとりずつ手を叩いて龍を鳴かせることができます。やってみたところ、鳴く、というよりケタケタと笑うように聞こえました。狩野光信はこの龍を描いた3年後に亡くなっており、これが最後の大仕事だったようです。
相国寺には禅宗寺院によくみられる、いわゆるサウナ式の浴室があります。禅宗では日常の立ち振る舞いはすべて修行の場であり、入浴も修行の実践の場でした。浴室の脇にはお風呂の歴史や修行としての入浴の作法などが分かりやすくパネル展示されています。復元された浴室は、創建当時と同じく、蒸浴をしながら杓子で湯をとり、掛け湯をするという方式になっています。入浴順は「衆僧が一番先、次に頭首で、その後住持が入る」と書かれていました。最後にいちばん偉い人が入るというのでは、先に入る雲水たちは気が抜けなかったでしょう。
境内の鐘楼近くには宗旦狐(そうたんぎつね)を祀る「宗旦稲荷」神社があります。宗旦狐は江戸時代の初めごろに相国寺境内に住み着いて、ときどき茶人の千宗旦(せんのそうたん)に化け、雲水たちと坐禅を組んだり、近くの家に出かけてはお茶や茶菓子を食べていたと伝えられています。あるとき相国寺塔頭の慈照院で茶室開きがあり、宗旦狐が茶を点てたところ、点前が見事で、あとから遅れてきた本物の宗旦が、これはなかなかの狐と感じ入って蔭から見守っていたそうです。その後、宗旦狐は豆腐屋の油揚げを盗んで追いかけられ、井戸に落ちて死んだなどと伝えられ、雲水たちがその死を悼んで祠を建てて供養したと伝えられています。