上賀茂神社
(かみがもじんじゃ)その1正式名は、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)。賀茂川の上流に位置する上賀茂神社は下鴨神社の祭神、玉依比売命(たまよりひめのみこと)から生まれた賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)が祀られています。社殿の創建は天武天皇の白鳳6年といわれ、下鴨神社に先駆けて創建された元祖・賀茂社です。
楼門と玉橋
社名・社号 | 上賀茂神社 (賀茂別雷神社) |
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住所 | 京都市北区上賀茂本山339 |
電話 | 075-781-0011 |
アクセス |
市バス 4,46,67系統「上賀茂神社前」下車 9,37系統「上賀茂御薗橋」下車徒歩5分 北3系統「御薗口町」 |
拝観時間 | 二の鳥居 5:30-17:00(楼門・授与所8:00-16:45) 本殿特別参拝:10:00-16:00 |
拝観料 | 本殿特別参拝:通常500円 特別企画(観光協会等)開催時は別途規定 |
公式サイト | https://www.kamigamojinja.jp/ |
上賀茂神社を奉祭した賀茂県主とは?
上賀茂神社は賀茂川の上流に架かる御薗橋(みそのばし)の東に位置しています。この「御薗」とは、神さまの食事(神撰)として野菜類を貢進するための園地を意味します。一の鳥居から二の鳥居までは広々とした芝生が広がり、参道がその真ん中を一直線に延びています。また、一の鳥居を東に行くと明神川に沿って社家町(しゃけまち)が今もその姿をとどめています。明神川は境内の北で御手洗川と御物忌川に分かれ、楼門前で合流して「ならの小川」になり、神社を出ると再び明神川とよばれます。
賀茂社といえば最も有名なのが葵祭(あおいまつり)。それに加えて上賀茂神社では「賀茂曲水宴」や「薪能」「烏相撲」など1年を通して多くの神事が行われます。そんな特別な日にはたくさんの人で賑わいますが、普段の境内はまったくのどかで、開放感たっぷりです。
千年にわたり京都の総鎮守社として崇敬されてきた上賀茂神社と下鴨神社は、2社合わせて賀茂社と呼ばれ、古くから一体とされてきました。両社は賀茂川の上流と下流に分かれ、賀茂氏の祖神が祀られています。上賀茂神社の祭神は賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)。一方、下鴨神社の祭神は、別雷命の母・玉依比売命(たまよりひめ)と祖父・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)です。
上賀茂神社の境内に初めて遥祭殿が建てられたのは、天武天皇の白鳳6年(678)と伝えられています。天武天皇は地方の祭祀を体系的に整え、国家の管理下に組み入れていった経緯があるため、この動きは政策の一端であったでしょう。もともと古代の祭祀は社殿を必要とせず、その都度、神籬(ひもろぎ)をつくって神の降臨が祈願されたといわれています。このとき造られた遥祭殿も、神体山の神山を遥拝するための扉が背後につけられていたそうです。そしてこの上賀茂神社の創建から約70年後に下鴨に神職が派遣され、下鴨神社が創建されたといわれています。
実際は、下鴨の祭祀の流れはもう少し複雑かもしれません。しかし社殿ができたという点で上賀茂神社は賀茂社の元祖です。上賀茂神社の境内とその周辺には鴨族が遷ってきた当初からの名残がたくさんあります。賀茂の神の由来について「山城国風土記」逸文には以下のように記されています(意訳)。
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可茂というのは。日向の曾の峰に天降った賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は神武天皇を導いたあと、しばらく大倭(やまと)の葛木山に宿り、やがて山代の岡田の賀茂に移り、さらに木津川をくだって葛野川(かどのがわ)と賀茂川の合流点に至った。賀茂川を見渡すと小さく狭いけれども、石川の清川があり、石川の瀬見の小川といった。そこからさらに上流の久我国の北山の基(麓)に鎮まった。そのときから名づけて賀茂という。
賀茂建角身命は丹波国の神野の神、伊可古夜日売(いかこやひめ)を娶って、兄の玉依日子と妹の玉依日売が生まれた。玉依日売が石川の瀬見の小川で遊んでいるとき、川上から丹塗矢(にぬりや)が流れてきたので、持ち帰って床の近くに置いたところ、懐妊して男子が生まれた。御子神が成長したとき、外祖父である建角身命が八尋屋(やひろや)を造り、八戸の扉をたて、八腹の酒を醸し、神々を集めて7日7夜の酒宴を開き、汝の父と思う神にこの酒を飲ませよ、と言ったところ、御子神は盃をささげて天に向けて祭り、屋根の甍を突き抜けて天に昇ってしまった。
このことから御子神は外祖父の御名によって賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と名づけられた。丹塗矢の正体は乙訓の郡に坐す火雷神(ほのいかづちのかみ)である。賀茂建角身命、伊可古夜日売(いかこやひめ)、玉依日売の三柱の神は蓼倉の里の三井の社に鎮座する。
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この「山城国風土記」逸文の原文は、用字や地名表記から霊亀3年(717)以前に書かれたものと推定されるそうです。それは和銅6年(713)に出された風土記撰進の命から間もない頃のこと。賀茂建角身命が主人公として書かれ、神武天皇をヤマトに導いたあと、葛城 → 山代岡田 → 乙訓周辺(葛野川と賀茂川の合流点)と移り、最終的に賀茂川の上流の久我国の北山の基に鎮まったとされています。賀茂建角身命が祀られる久我神社は、上賀茂神社の南西約600mほどのところにあり、もとは氏神社とよばれていました。風土記には大部分にわたって建角身命の家族のことが書かれ、最後にサラッと玉依比売の夫が火雷神であると述べられているだけです。この風土記を書いたのは、もしかすると賀茂建角身命の子孫だったかもしれません。
下鴨神社のページでは、下社の禰宜、鴨県主俊永の記録により「東の神殿の父君は事代主」と書かれていることなどから、玉依比売の父、賀茂建角身命は八重事代主であり、記・紀・旧事紀の伝承や、山代国造、三輪氏、出雲臣氏…らの系譜と対応させると、玉依比売の夫である火雷神は、天御影命(あめのみかげ)であり、三輪の大物主(小蛇)、天目一箇命(あめのまひとつ)、天櫛玉命(あめのくしたま)、出雲建子、伊勢都彦命、天事代玉籖入彦(あめのことしろくしいりひこ)、饒速日命、天日鷲翔矢命、少彦名神…である可能性が高いと推測しました。つまり、賀茂県主は、物部氏らと極々近縁の氏族のようなのです。
一方、建角身命である八重事代主(アジスキタカヒコネ)は、大己貴神(おおなむち)の子とされていますが、綿津見豊玉彦(わたつみとよたまひこ)でもあるようだと述べました。下鴨神社の摂社、河合神社では、玉依姫は神武天皇の母として祀られているからです。また、玉依比売は、活玉依姫(いくたまよりひめ)であり、稚日女尊(わかひるめ)かもしれないとも書きました。
そして、かつての賀茂社は火雷神と玉依比売の子孫である鴨県主(賀茂県主)が中心となって奉祭し、鴨県主にとって外戚である建角身命の直系子孫(玉依比古の子孫)も賀茂社に奉仕していたと述べました。一般に賀茂氏と呼ばれてきたのは鴨県主(賀茂県主)でしょう。しかしそのような姻戚関係があるため、建角身命は鴨の元祖として鴨県主によって篤く崇敬されていたようです。つまり鴨の神の男系と女系を合わせて鴨族です。
綿津見豊玉彦の子孫からは、穂高見(ほたかみ)を祖とする阿曇連や、振魂命(ふるたま)を元祖とする倭国造、海直、吉備海部氏らが起こったとする系譜があり、その本宗は臣姓を賜った和珥氏とみる説もあります。『新撰姓氏録』によれば和珥氏は皇別氏族で、皇族から出たとしても、火雷神と玉依比売の血をいくらか引いていることになります。鴨県主と建角身の家系は強固な姻戚関係で結びついているので、同族といってもよいくらいですが、建角身命の子孫からはワニ系と思われる丈部(はせつかべ)や西埿土部(かわちのはつかしべ)らが出ており、賀茂社神領の愛宕郡小野郷・粟田郷も、ワニ氏から起こったといわれる小野臣、粟田臣に関係しているように思われるのです。
鴨県主俊彦が撰した『鴨県纂書』によれば、下鴨神社の東を流れる高野川流域に沿って松ヶ崎の一帯や、一乗寺からさらに高野川上流の八瀬・大原に至るまでの広い範囲は、八咫烏の領域であったことが記されています。これは粟田郷・小野郷をすべてカバーし、さらに比叡山を越えると和邇氏や和邇氏(春日氏)から起こった小野氏や真野氏が拠点を置いた近江湖西に出ます。またそこには安曇族が足跡を伝えた安曇川(あどがわ)や志賀(しが)の地名が残っていて、賀茂社の御厨(みくりや)が置かれたところでもあります。
上高野の崇道神社の境内社・小野神社には小野妹子と小野毛人(おののえみし)が祀られ、付近には小野毛人の墓があります。近江で生まれたといわれる小野妹子は推古天皇15年(607)に遣隋使として随に渡り、その子といわれる小野毛人も天武朝で活躍した人物です。また境内社の出雲高野神社も鴨族に関係する神社とみられ、伊多太神社の伊多太は「鴨明神の兄」とも伝えられています。そして、八瀬の御蔭山の麓には小野氏が水の祭祀を行っていたという磐座があり、その祭庭は下社の御生(みあれ)神事に引き継がれます。
つまり、小野氏や粟田氏が衰えたり移動した跡地にいつしか賀茂氏が入ったのではなく、もともと小野氏や粟田氏も八咫烏の関係者であり、いつしか賀茂県主(鴨県主)に祭祀の主権を引き渡したと考えられるのです。下鴨神社の摂社はそのほとんどが建角身命系の神社なので、鴨県主によって下社が奉祭される以前から下社の基盤を築いていたのは八咫烏の子孫と思われるのです。風土記に書かれる「三井の社」も然りです。
また賀茂社の荘園は全国に分布しますが、丹波国氷上郡の小野庄をはじめ、摂津の小野庄、近江の高島郡、若狭、越前、加賀、越中、越後、遠江、備前、備中、備後…などワニ氏が展開した地域と重なっていて、賀茂県主の同族分布とも近接しています。
上賀茂神社は平安末期に源頼朝から熱烈な支援を受け、寄進された荘園が数多いのですが、住民は漁や農業や商いを保護され、神社の経済基盤のために奉仕した人々でした。その神に縁の深い人々が多いほど結束力があり、神社経営が安定するので、無意味に遠方にある各地の荘園が選定されたわけではないようなのです。のちに賀茂系の神が勧請されて、地方でも祭りが盛行され、民衆の篤い信仰がみられる地域もたくさんあります。
若狭の遠敷郡(福井県小浜市加茂)には事代主命を祀る加茂神社があり、霊亀元年(715)に山背国の賀茂下上社から事代主命が勧請されたといわれています。八重事代主(建角身)も、天事代玉籖入彦(饒速日)も賀茂の神なので、事代主命が祀られることに不思議はないのですが、どちらの事代主でしょうか。
平城宮から出土した木簡のひとつには、遠敷郡遠敷郷丸部臣(わにべおみ)真国の名があり、事代主命が勧請された霊亀元年ごろに丸部臣が遠敷郡の郡司だった可能性があります。また、加茂神社の西には彌和神社(みわじんじゃ)があるので、最初にこの地に祀られたのは建角身命である八重事代主の可能性が高いと思われるのです。その後の平安時代中期にこのあたりは上賀茂神社の荘園となり、上賀茂神社から神霊が遷されて一社二宮制の神社になります。おそらく加茂神社でも祭祀の主権の移り変わりがあったものと考えられるのです。
また、伴信友の『瀬見の小河』には「小野賀茂明神と称ふもあり」と書かれ、現在のどの神社にあたるのかは不明ですが、同じく若狭にあったとみられます。湖西の小野神社の境外摂社、樹下神社には鴨玉依比売が祀られ、京都市伏見区の飛鳥田神社の古伝では建角身命が祭神とされ、柿本社とも呼ばれます。柿本氏もワニ氏です。みればみるほど建角身命の系統はワニ氏と密着してきます。和珥氏と関係の深い彦坐王(ひこますのみこ)の後裔から鴨君や鴨県主が出ているのも無関係ではないでしょう。ただし、建角身命が海神の祖なら、和珥氏以外にも多くの氏族に分かれています。いわゆる葛野主殿県主部と呼ばれた人々もその一流でしょう。
上賀茂神社のすぐ東には大田神社があります。おそらく鴨県主より先に上賀茂に到達し、大田神社や原初の鴨の神を奉祭したのは建角身命系の子孫であったと考えています。ワニ氏系の人々には篤い猿田彦(比良明神・白鬚明神)信仰があり、古伝によれば、大田神社の祭神は猿田彦とされています。猿田彦は天孫を道案内したことからやがて道祖神・導きの神としても広く民衆に浸透していきます。また、大田神社は賀茂の最古の神社といわれ、賀茂県主によって篤く崇敬されたとも伝えられています。
一方、賀茂県主は鴨県主と同祖とされ、『先代旧事本紀』によれば、鴨県主は天櫛玉命を祖とする氏族です。下鴨神社の頁でも述べていますが、天櫛玉命(天御影命・天日鷲翔矢・饒速日命…)の祖先の源流は紀直・出雲臣らの遠祖と共通しているように思われるのです。出雲臣の系譜によれば、天櫛玉命の父に位置づけられるのが天夷鳥命(あめのひなとり)で、天御鳥命、天背男命(あめのせお)、天津彦根命らと同神または同系統の可能性が高いとみています。上賀茂神社の摂社には、その先祖の天石門別(あめのいわとわけ)や天太玉命など賀茂県主の男系の先祖が祀られていて、下鴨神社と異なるところです。
現在、大田神社の主祭神とされる天鈿女命(あめのうずめのみこと)は猿田彦とペアになる女神で、天鈿女命は猿女氏の遠祖とされていますが、忌部氏の祖、天太玉命の子孫ともいわれているので、賀茂県主系の女神でしょう。また、天鈿女命は稲荷神社などでは大宮売神(おおみやのめ)に当てられることがあり、『三輪叢書』「大三輪鎮座次第」によれば大宮売神は宮部造の祖とされています。その宮部造は天背男命の後裔とされているのでそれも頷けます。
また、建角身命(事代主)は天背男命の娘・天津羽羽神(あまつははのかみ)を娶っているので、建角身命の子孫は天背男命の祖先である神魂命を祖とした可能性が高いとみています。それが『旧事紀』に書かれた「天神魂命、葛野鴨縣主らの祖」や、『姓氏録』和泉国神別の「神直 神魂命五世孫生玉兄日子命之後也」で、生玉兄日子(いくたまえひこ)を建角身の孫と伝える系譜があるのです。神直(みわのあたい)は和泉国のほか山城国愛宕郡や大和国、遠江国、美濃国、伊予国などに分布し、「遠江国浜名郡輸租帳」に載る和爾神人飯麻呂(わにのみわひといいまろ)や和爾神人部古麻呂(こまろ)もおそらく同祖と思われるのです。
平安時代初期の上賀茂神社の社領は、賀茂郷、小野郷、錦部郷、大野郷の四郷で、その後、郷が再編されて、河上郷、大宮郷、小山郷、中村郷、岡本郷、小野郷が賀茂六郷となります。そのなかで小野郷の氏人たちは上社に奉仕し、神事を執り行っていたものの、他の五郷と異なり国から往来田(おうらいでん)の支給を受けず、管轄も別だったようです。ことの詳細は不明ですが、もともと小野郷は下社に近く、氏人の系統が違ったのかもしれません。
また小野郷は松ヶ崎から八瀬・大原にかけての山地にあったため、氏人の配下にあった地元の人々は薪炭の生産などを託されたかもしれません。のちには大原女が薪を頭に載せて売り歩くようになります。一方、小野郷はミアレ神事の榊(さかき)や葵を採取する郷であったともいわれています。上高野には小野窯遺跡(おのがようせき)があり、岩倉の栗栖野(くるすの)窯遺跡とともに、平安時代、瓦をつくる官営工場となっていましたが、小野郷も栗栖野郷も賀茂社の社領でした。
三島溝咋と建角身命の濃い~関係?
ところで、建角身命は神武東征のあと、ヤマト葛城から木津の岡田を経由して山城国に移動したと伝えられています。けれども、玉依比売の娘・姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)が神武の正妃となっているようなので、建角身命が伊可古夜日売(いかこやひめ)と結婚したのはそれよりずっと以前の話になります。
また、建角身と伊可古夜日売(いかこやひめ)の娘・玉依比売は活玉依姫でもあるので、八重事代主(建角身命)が娶った玉櫛媛(たまくしひめ/『記』勢夜陀多良比売)と伊可古夜日売は同神とみることができ、その玉櫛媛は三島溝咋(みしまのみぞくい)の娘とされています。そこで三島溝咋を追いかけてみると、天櫛玉命(饒速日)自身の可能性があり、三島溝咋の娘を建角身が娶って、生まれた娘を三島溝咋が娶った、という稀なタイプの異世代近親婚だった可能性が浮上します。いいかげん濃いですが。
『旧事紀』国造本紀には、成務朝で、長阿比古(ながのあびこ)と同祖である三嶋溝杭命の9世孫の小立足尼(おたちのすくね)が都佐国造に任命され、また、観松彦色止命(みまつひこいろと)の9世孫の韓背足尼(からせのすくね)が長国造に任命されたと記されています。
そこで長公(ながのきみ)の系図により、小立足尼から9世遡ると、天八現津彦命(あめのやうつひこ)に行き着きます。つまり、三嶋溝咋=天八現津彦命と仮定。また、観松彦色止命の色止(いろと)は弟を指すので、観松彦(みまつひこ)と兄弟で、韓背足尼から9代遡ると観松彦に行き着き、国造本紀の記事と系譜は一応合っているようにみえます。
長公系図の最初の部分は、大国主命-事代主命-天八現津彦命-観松彦命-建日別命とつづきます。天八現津彦命である三島溝咋の娘・玉櫛媛を事代主命が娶って生まれたのが活玉依姫(玉依比売)なので、天八現津彦命は事代主の舅になるはずですが、子に位置づけられています。これは活玉依姫(玉依比売)を娶って八重事代主の娘婿になったから? 往古の系図は女系が入り混じってネジレていると思われるものがかなりあります。なお、天八現津彦命は三輪氏の系図に対応させると天事代玉籖入彦です。
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さらに賀茂県主系図のひとつ(原典不明『賀茂の歌人群』所収)には、別雷命の譜に「一名 建日別命ト記ス」という註記があり、もしそうなら世代が間延びするので、観松彦と観松彦色止命は、八重事代主からみて実子の長脛彦・玉依彦の兄弟(どっちが兄かは不明)が置かれたのかもしれません。一説に、天八現津彦命と観松彦は同一ともみられていますが筆者は別人とみています。『新撰姓氏録』によれば、和泉国の長公は「大奈牟智神児積羽八重事代主命之後也」とされ、積羽八重事代主命を祖としています。また「播磨国風土記」に登場する大三間津日子命や彌麻都比古命(みまつひこ)の記述は、鹿(安曇族の志賀)や葛(くず・蛇を思わせるつる性の植物)や御井に関連づけられているようで、海神性が高いのです。「観松」も海藻の海松(みる)かもしれません。
なお、隠岐国造家の系譜も、大国主命-味鉏高彦根命-天八現津彦命-観松彦伊呂止命-大日腹富命と伝えているので、たぶん事代主とアジスキタカヒコネは同神とみてよいのでしょう。
つまり、天櫛玉命(饒速日)にとって建角身命は娘婿、建角身命にとって天櫛玉命(饒速日)も娘婿…。これは、日本の古代によくみられる叔姪婚(しゅくてつこん)や、異母兄弟姉妹婚や、いとこ婚でもないので、早婚だった古代には年齢的に大丈夫でもかなり怪しいです。三島溝咋や饒速日と呼ばれた人物は武内宿禰のように何代かの人物が集約されているかもしれません。でも、正史にはストレートに書けないから、遠まわしに表現されたのかも?
また鴨県主系図で、天櫛玉命が建角身の父に位置づけられているのは、このことを示しているとも思えるのです(義父)。松尾大社の大山咋神の神像だって玉依比売に比べてエラく年寄りです。八咫烏なのに小烏ともいわれたのは義理の親烏がいるからかも? 一方『姓氏録』によれば、賀茂県主や鴨県主、そのほか賀茂社に関わりのある氏族のほとんどは「鴨建津身命之後也」を名乗っていて、西埿部(かわちのはつかしべ)だけが「鴨玉依彦命之後也」を主張しています。鴨県主が天櫛玉命を祖とし、直系ではないけれども建角身命の後裔を称したり、玉依彦を遠祖とする理由はそこにあるのかも。そしてこの逆転可能な義理の親子関係や、同時に義理の兄弟でもあることによって、大己貴神が入れ替わったりしたのかも?
結局ナゾは深まるばかりですが、伊可古夜日売の名は、父(天日鷲翔矢・あめのひわしかけるや)の神格の一面である雷と矢を表した「雷こ矢姫」だと思っています。別名が勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)なら「タタラ」で製鉄に関係があり、それも父、天目一箇命の神格を受け継いでいると考えられるのです。
ここで少し余談ですが、長脛彦と玉依彦は兄弟の可能性が高いと思っています。饒速日の妻・三炊屋媛は事代主の娘と物部氏側に伝えられているからです。なので、奥州安倍氏の祖といわれ、長脛彦の兄ともいわれる安日彦(あびひこ)は、玉依彦かもしれないと勝手に考えています。一説に、安倍元総理のご先祖様は奥州安倍氏に繋がるとか繋がらないとかで、玉依彦がご先祖様かも…?とちょっと妄想してみました。妄想です。失礼しました。※追記:2022年7月8日にわかに信じられない事件が起き、安部元総理が逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
なお、伊可古夜日売は丹波の神野の神といわれ、日子坐王(ひこますのみこ)に誅された丹波の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)との関係が指摘されています。久我氏の祖・天世平命(たぶん天世乎命・天背男命)の家系と八咫烏は関係が深いので、天背男命・天日鷲翔矢命の親子も丹波に関係する可能性は十分にあるでしょう。ただ、子孫は伝承をもって移動するので順序が分かりません。三島も丹波も、ついでに瀬見の小川も、移動した子孫によってあたかもその地で起こった出来事として伝えられることはままあるはずです。摂津も鴨族が居住した地で、茨木市の溝咋神社や高槻市の鴨神社には一族が祀られていますが、三島にしても福岡市の御島や今治市の御島だったかもしれません。一族は九州から四国、出雲や畿内や北陸の各地に伝承を残し、子孫は全国に散っています。
鴨県主系図の3つの流れ
建角身命の後裔を名乗った賀茂県主・鴨県主ですが、玉依比古の後とは称していませんでした。「山城国風土記」逸文には「玉依日子は、今の賀茂県主らの遠祖なり」とされていますが、「始祖伝要訣」には 「玉依彦命に斎祀を委ね賜へりしとそ、玉依彦の傳、別に猶有之、此後十世、五十手美より馬波乃耳まで」と書かれているのです。玉依比売や玉依比古の呼称は神霊の依り憑く巫女・巫覡を表しており、祀られる神というより、まさに「祀る神」とみられるので祭祀をお任せしたのかもしれませんが、その後に鴨県主が祭祀を継承したようにもとれます。「玉依彦の傳、別に猶有之」が何なのか知りたいところです。
現在、ネットや『古代豪族系図集覧』などで閲覧できる鴨県主の系図は、賀茂建角身の子の玉依彦のあとにつながれています。もともと賀茂社の系図は下社梨木流の「賀茂神官鴨氏系図(続群書類従所収)」をもとに各流に伝えられた諸本が合わされ、鎌倉時代以降に書き継がれたものがベースになっているそうです。宝永年間(1704-1711)に、上社の岡本清茂ら5名が系図の新写に携わった際、平安時代の男床以前の系譜に行き詰まり、今のあやまるところは後の人またこれをただせ、と託したまま、現在に至るまで探求されていますが、上古の部分はなお混乱があるといわれています。玉依彦から馬波乃耳までは『鴨県主家伝』に系譜が書かれていますが、下社では大伊乃伎命を鴨県主の祖としているような印象があるのです。
では、第11代大伊乃伎命のあとは整合しているのかというと、各社家の伝承が一致しないのでやはり混乱しています。とりあえず系譜を眺めると、大伊乃伎命の子の代から大きく3流に分かれ、大伊乃伎命の次男とされる小屋奈世命の子の小止知乃命の子孫がのちに賀茂社の社家となったようにみえます。『鴨県主家伝』には「小止知乃命 是 別雷大神斎官 白髪部始祖」とあります。白髪部とは、第22代清寧天皇(雄略天皇の第3皇子)が生まれつき白髪で、皇子も皇后もなかったため、その御名代として定められたといわれ、延暦4年(785)に真髪部に改姓されています。清寧天皇の時代といえば5世紀後半ごろです。
そして『家伝』に従えば、清寧天皇の御世に白髪部となった小止知乃命の子孫が、天武天皇の白鳳6年(678)に上賀茂神社の社殿(遥拝殿)を造営した氏人らと考えられそうです。いつから鴨県主の氏姓があったかは不明ですが、天平4年(732)の『山城国愛宕郡計帳』残巻には鴨県主が存在しています。時系列で見ると、その後の天平18年(746)ごろに下鴨に封戸の給付があり、主国が下鴨神社の禰宜となって下社が分立したと推測されています。
『続日本紀』宝亀11年(780)4月条には「山背国愛宕郡正六位上鴨禰宜 真髪部津守等十一人 賜姓賀茂県主」とあり、じつは宝亀11年の時点では白髪部津守のはずなので、真髪部津守は誤記と思われますが、それまで白髪部だった津守を含めて11名が「賀茂県主」を賜姓されています。ただしこの記述だと津守だけが白髪部氏なのか、ほかにも白髪部氏がいるのか不明です。なお鴨脚家に伝わる「賀茂朝臣本系」によれば、津守の後裔がそのまま上社の神職となったわけではなく、津守やその近縁は弘仁2年(811)に賀茂朝臣を賜姓されています。
一応、白髪部氏がどんな人々かというと、『新撰姓氏録』によれば、山城国の真髪部造は「神饒速日命七世孫大売大布乃命之後也」とされています。なお、造(みやつこ)は部を統率するカバネです。真髪部はほかに、大和に吉備武彦の後を称する真髪部と、和泉に天穂日の後を称する未定雑姓の真髪部があります。神亀3年の『山背国愛宕郡出雲郷雲上・下里計帳』には、白髪部2名、白髪部造3名がみえ、天平4年の『山城国愛宕郡計帳』残巻には、安倍氏系白髪部造5名のほか、白髪部造3名がみえます。 賀茂県主との関係は不明ですが、概ね系統は同じようにみえます。
ちなみに『鴨県主家伝』や『鴨県纂書』では、白髪部氏の祖は白石神とされています。賀茂系統の神で白石神といえばアジスキタカヒコネ(建角身命)や妹の下照姫を指すので、これは想像ですが、天櫛玉命(饒速日)の男系が、建角身やその兄弟姉妹の子孫の娘を妻に迎え、建角身の直系(玉依比古)からつづく系譜にくっつけたように思われるのです。生活実態が入婿だったのかもしれません。
また、上賀茂の賀茂六郷のうち本郷とされたのは岡本郷で、岡本家は早くから上社社家の中心となっていました。『大和志料』下巻(下部にリンク有)所載の「岡本家系図」によれば、岡本氏は天神立命を祖とし、葛城直・鴨県主・久我直は同祖とされています。天神立命のまたの名が八咫烏とされ、玉依毘売の子に剣根命が位置づけられるなど独特な系譜ですが、上社社家の岡本家と同族のようです。
岡本家系図の所伝では葛城で高天彦神社を奉祭していたといい、『三輪叢書』所収「社記」などによれば、大神神社の摂社・神宝神社を奉祭していたのも岡本氏と伝えられています。近世までの神宝神社の祭神は少彦名神とされていました。そして系譜によれば、玉依毘売から16世孫の針麻呂直は、遠祖の神慮を慕い、一時、山背加茂岡田郷に住み、葛木郷に戻ったのち葛城直から鴨県主が興ったとされているのです。系譜も所伝も独自すぎてウラが取れませんが、針麻呂直は岡田鴨神社の近くに住んで岡田国神社を創祀したのかも?
また、上社の有力な氏人を多く抱えていたのが小山郷です。小山郷は上賀茂の南の広い範囲に位置していました。郷名との関係は不明ですが『姓氏録』によれば、小山連が摂津国と左京にあり「高御魂命子櫛玉命之後也」とされています。宝亀11年に賀茂県主を賜姓された11人とは、白髪部津守と同祖関係にある人々の集まりだったのかもしれません。つまり饒速日の子孫です。
一方、『鴨県主家伝』や「河合神職鴨県主系図」「賀茂神官鴨氏系図」に照らすと、大二目命・小二目命の後裔が建角身命の直系子孫のようです。大二目命の譜には「子孫等鴨建津身命社奉祭。主水司爲名負仕奉」とあり、また、玉依比古は西埿土部の祖とされ、小二目命の後裔から出たとされています。なお『家伝』によれば、大止知乃命は、成務朝で山守部を賜った葛野県主とされていますが、葛野県主は八咫烏の苗裔の葛野主殿県主部とは区別されていて、鴨県主系の久我氏と推測しています。こちらも玉依比古の後裔として接合されたようにみえますが、例によって八咫烏の家系とは濃すぎる縁があります。『旧事紀』に書かれた「葛野鴨県主」の実体はこの流れかもしれません。
そしてさらに、3つの流れのうち、大伊乃伎命の子の阿波伎之命の後裔から祝部氏が出ています。祝部氏の上祖といわれる宇志は、天智天皇7年(668)3月3日に日吉大社に三輪山の大己貴神(大国主・大物主)を勧請したと伝えられる人物です。
宇志の経歴はかなり特異で、『鴨県主家伝』やその他の系図では、大伊乃伎命の孫の伊多足尼(いたすくね)の子の鴨賀氐の数代孫とされていますが、『日吉社禰宜口傳抄』によれば、鴨鹿島8世孫を称し、また『日吉社神道秘密記』には「社務上祖、琴御館宇志丸宿祢(ことのおだてうしまるのすくね)、本国常州鹿島郡より上洛」とあり、『巖神鈔』にも常陸国からやってきたと書かれ、『耀天記』では、敵に誅されそうになり、常陸国から近江に逃げてきたと書かれます。また琴御館というのは琴を代々家に伝えてきたからだとも。琴は神を呼ぶツールなので祭祀の専門家でしょう。鹿島神宮の物部氏?それとも中臣鎌足の関係者とか…(妄想)
祝部氏は建角身命の後裔を称していますが、初代の宇志は神皇産霊尊-活魂命(いくむすひ)の後と伝えられ、その子孫は20世つづいた後、身内の凡河内氏に社司の職を譲ったとされています。もし祝部氏が凡河内氏と同族なら鴨県主とも同族で、祝部氏は日吉山王のほか、乙訓社や上社の神職も務めたようです。また三輪の神を勧請したという天智天皇7年3月3日は松尾大社の創祀とも関係がありそうで、これはまだ上賀茂に社殿ができる以前の出来事なのです。
ところで、上社の神職に賀茂県主が賜姓されたのち、下社の神職は鴨県主と区別され、平安時代以降、上社の社家は世襲ではなく血族・縁者から広く人材を登用して、鎌倉時代までに16流に分かれていきます。系譜を見る限り、賀茂上下社の社家は久治良の後裔となるようですが、下社の「鴨県主」は建角身命の正流を称していました。荘園をめぐっては上下社で争いが起きたこともあったようです。一方、江戸時代後期に上社から出た梅辻規清(のりきよ)は建角身の後裔を誇り、烏伝(からすのつたえ)神道を説いています。葛城の岡本氏も堂々と玉依毘売のあとに系譜をつなげていました。母系の血を大事にした一族なのでしょう。
葛城での建角身の子孫と磯城県主
海神出身の建角身ですが、下社の社伝によれば、神武天皇が橿原に在位中、建角身命は葛木に留まり、第2代綏靖天皇3年に下鴨に鎮座したと伝えられています。けれども、同族性の高い和珥氏らはその後に出たことになっているので、子孫の一部はヤマトに残ったようです。もちろん和珥氏だけに留まりません。葛城国造も子孫の一流のようで、子孫は断絶しない限りどんどん枝分かれしていきます。
一方、天櫛玉命を祖とする賀茂県主も、大雑把な言い方をすれば物部氏と同族といえそうですが、岡本氏宗家のように葛城やヤマトに残った氏族もあったでしょう。神代からの激しい通婚を経て、葛野主殿県主部をはじめ、建角身の直系子孫ともほぼ同族のようになったのかもしれません。そして混血が進むと氏族が大切にしてきた信仰や祭祀なども混ざり合いますが、子々孫々かなりの代を経ても血の濃淡により独自の信仰が守られてきたように思います。また、女系はその都度、系統が変わり得るので、子孫に与える影響は大きかったでしょう。お互いの本宗ともいえそうな物部氏や和珥氏も女系を通じて皇統に関わりつづけていました。
和珥氏は第5代孝昭天皇の子の天足彦国押人命(あめのたらしひこくにおしひと)を祖としています。そして、神武天皇から欠史8代といわれる初期の皇統で多くの皇后を出したといわれるのが磯城県主(しきあがたぬし)です。磯城県主は異伝を含めると第2代綏靖天皇から第7代孝霊天皇までの皇妃を出したことになっています。女系が代々続けて同じ一族から出るということは、子孫は次第にその女系の血に同化していくことを意味するので、大王家にとって影響力は大でした。
一説に、天日方奇日方命(鴨王)は、神武東征で八咫烏に促されて帰順し、磯城県主を賜った弟磯城(おとしき)とみられています。『旧事紀』によれば、天日方奇日方命は八重事代主の子ですが、筆者は玉依姫と天事代主籖入彦命(饒速日)の子と解釈していて、別雷神と同一の可能性も高いと考えています。また、弟磯城の別名が黒速と呼ばれることから、やはり饒速日と同じような雷神性が窺えるので、弟磯城=天日方奇日方命と考えていいのかも。
そして『旧事紀』によれば、天日方奇日方命と日向の賀牟度美良姫(ひむかのかむどみらひめ)との間に生まれた渟中底姫命(ぬなそこひめ・『書紀』渟名底仲媛)が第3代安寧天皇の皇后となったとされますが、賀牟度美良姫を綿津見豊玉彦(建角身)の孫娘とする系譜があるのです(『諸系譜』第2冊 大和宿禰・海直系図)。もしこれが本当なら建角身の孫同士が結婚しています。アジスキタカヒコネは神度剣(かむどのつるぎ)を持っていたとされるので、突拍子もないことではないでしょう。
建角身命の直系は、陶津耳(建角身)-玉依彦-剣根命-夜麻都俾命…と始まる葛城国造の系譜があり、剣根命(つるぎね)の兄弟には生玉兄日子がいて、子孫は賀茂社の大伊乃伎命と繋がっています。先に挙げた葛城の岡本氏も剣根命の後裔を称し、その剣根命は玉依毘売の子とされているのでどちらが正しいとはいえないのですが、ここでは鴨県主系図の玉依彦の後裔と共通部分をもつ難波田使首の系譜(『諸系譜』第11冊)を重視します。また前述のとおり、長脛彦・玉依彦兄弟は、観松彦・観松彦色止の可能性があります。一方、和珥氏の遠祖・天足彦国押人命(あめのたらしひこくにおしひと)の父である第5代孝昭天皇は、観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)と書かれ、観松彦の名を襲名しているようにみえるのです。孝昭天皇の母、天豊津媛は何者?
さらに、玉依彦の子とされる剣根命に注目すると、孝昭天皇の妻となった世襲足媛(よそたらしひめ)の母は、剣根命の娘・加奈知比咩と尾張連の遠祖・天忍男命との間に生まれたとされています。つまり観松彦香殖稲天皇と世襲足媛との子である天足彦国押人命は、父系と母系から建角身命の血を継承しているともとれるのです。また、剣根命は神武東征で葛城国造を賜ったとされる人物ですが、孝昭天皇は即位に際して宮を橿原の軽境崗宮から葛城掖上に遷しています。葛城掖上は御所市にあり、都美波八重事代主を祀る鴨都波神社や建角身系と思われる葛木御歳神社があります。鴨族の一部が高鴨から掖上に移ったとされるので、鴨の男系、女系の子孫は葛城の中で住み分けていたのかも。
一説に、女系を多く出して母系社会を築くのは海神族の風習とみられていて、初期の王権の実態は、八重事代主が遺した母系集団だったかもしれません。皇妃を述べる異伝は数多くありますが、古事記の書かれ方に着目すると、どうも女系を重視しているように思われるのです。「山城国風土記」によれば、別雷命は大きくなるまで母の実家で育てられていました。別雷命のために八尋殿を建てたのも外祖父の建角身命です。賀茂の祭祀についても、祀る側の巫女の位は伝統的に重くみられてきたのです。
その後、剣根命の子孫は尾張氏と続けて通婚し、さらに開化天皇の妃、鸇比売(わしひめ)を出し、葛城国造荒田彦を出し、その娘の葛比売は、葛城襲津彦命(かつらぎのそつひこ)の母にあたります(父は武内宿禰)。葛城襲津彦は、仁徳朝の時代に秦氏を連れてきたと記・紀に書かれる葛城臣の祖です。なお、襲津彦以降の男系が葛城臣となり、葛城国造とは別の氏族です。一般に葛城氏といえば葛城臣を指します。それでも襲津彦は母系の葛城を名乗ったのですから、母の血を大事にしたのでしょう。
ところで、『書紀』一書で第2代綏靖天皇の皇妃にあげられる春日県主大日諸(おおひもろ)の娘・糸織媛は、大和国五群神社神名帳略解の「十市縣主系図」によれば、鴨主命の子とされ、第3代安寧天皇の皇妃とされる大間宿禰の娘・糸井媛とともに、それぞれ綏靖天皇妾妃、安寧天皇妾妃と書かれます。そしてその兄弟らが原初の春日県主となったようです。また、孝昭天皇の時代に春日県は十市県と改められたと注記されています。のちに和珥氏は春日氏と改称して本拠を天理から春日に移したと考えられています。
ただ、春日県主大日諸命という人物は、中臣氏の系譜によれば、天児屋根命の子の天種子命の子とされています(『諸系譜』第32冊・第33冊)。もうごちゃごちゃですが、中臣氏の系譜も数多くの氏族との通婚がみられ、他の氏族の系譜と重なるところがかなり多いのです。中臣氏は饒速日命の家系とも縁が深く、穂積臣氏の一流、亀井家の「亀井家譜」によれば、饒速日の母は天児屋根命の弟ともいわれる武乳速之命の娘と伝えられているのです。
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