西明寺
(さいみょうじ)三尾のひとつ、西明寺は、平安時代に空海の高弟であった智泉大徳(ちせんだいとく)により創建された真言宗の寺院です。神護寺や高山寺からも徒歩圏内。本堂には清凉寺式の生身の釈迦如来立像が祀られています。紅葉の名所として有名です。
表門
山号・寺号 | 槙尾山 西明寺(真言宗大覚寺派) |
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住所 | 京都市右京区梅ケ畑槙尾町1 |
電話 | 075-861-1770 |
アクセス |
JRバス高雄・京北線 JR京都駅からJRバス「栂ノ尾」「周山」行 「槙ノ尾」下車徒歩5分 市バス 四条烏丸から8系統「槙ノ尾」下車徒歩5分 |
拝観時間 | 9:00~17:00 |
拝観料 | 大人500円 中高生400円 |
公式サイト | https://www.saimyoji.or.jp/ |
清凉寺式、生身の面影が残る釈迦如来像
清滝川のせせらぎを聞きながら、指月橋を渡って少し坂を登ると西明寺の表門が見えてきます。三尾(さんび)のひとつである西明寺は、天長年間(824~34)に弘法大師空海の高弟、智泉大徳(ちせんだいとく)により神護寺の別院として創建されたと伝えられています。
智泉は空海の十大弟子のひとりで、空海の甥(姉の子)にあたると伝えられています。9歳で大安寺の勤操(ごんそう)につき、14歳で空海の従者となり、延暦23年(804)に16歳で授戒。唐から帰国した空海により両部潅頂を受け、河内高貴寺をへて高雄山寺(神護寺)に入り、諸事万端を任されました。最澄は智泉に宛てて空海へのとりなしを願う書簡を送ったことがあり、手紙のなかで「伏して乞う、法兄、好(よろ)しく大阿闍梨に聞せしめよ」と書いています。空海がもっとも信頼をおいた弟子であり、他人の非と過ちを決して口にせず、怒りを顔に表さない人柄であったといわれています。
37歳の若さで急逝した智泉について、空海は「影のごとくに随って離れず」「吾れ飢えれば汝もまた飢え、吾れ楽しめば汝も共に楽しむ」と記し、釈迦の弟子、阿難(あなん)のようだったと述懐し、「哀れなる哉(あわれなるかな)哀れなる哉 復(また)哀れなる哉 悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉」と慟哭しています(『性霊集』巻第8)。
その後、荒廃していた西明寺を建治年間(1275-78)に中興したのが和泉国槙尾山寺の我宝自性(がほうじしょう)上人でした。このとき境内には本堂、経蔵、宝塔、鎮守社などが建てられ、正応3年(1290)には後宇多法皇から平等心王院の号を賜り、神護寺から独立しています。戦国時代になり、兵火に遭って堂宇を焼失していますが、慶長7年(1602)に明忍律師(みょうにんりっし)により再興され、戒律が重んじられました。法然院を建てた忍澂(にんちょう)も、修行時代に西明寺の戒律に憧れて2度ほど訪れたことがあります。
現在の本堂は元禄13年(1700)に桂昌院の寄進により建てられたもので、表門の薬医門も同時期に造営されました。なお桂昌院は明忍(にんちょう)律師に帰依していたといわれています。また本堂と渡り廊下でつながる客殿は本堂より古く、江戸時代前期に建てられたそうです。当時は食堂(じきどう)と呼ばれ、僧侶の修行や生活の場として使われていました。
秋の日、端正な薬医門をくぐると、手入れの行き届いた境内にもみじが燃え盛り、陽光を照らしてきらきらと揺れていました。本堂には本尊の釈迦如来像が須弥檀の厨子内に安置されています。こちらは嵯峨にある清凉寺の「生身のお釈迦様」に倣った清涼寺式木造の立像で、鎌倉時代に運慶により彫られたものと伝えられています。50cmほどの小さなお釈迦様で、ぴったりと身体に沿う流麗な衣も、手のポーズも清凉寺の釈迦如来とそっくりですが、顔は穏やかで、より日本的になっています。鎌倉時代、清涼寺式釈迦如来像の造立は流行りだったそうです。
脇陣には平安時代の作と伝わる千手観音立像と、鎌倉時代に彫られた愛染明王像、弘法大師像が祀られています。千手観音像は、宝冠の上に十面を戴き、合掌する真手2手と40手の脇手をもっていて、脇手は生身のようにリアルです。顔の表情はとてもやさしく女性的で、この観音さまは子授けの霊験があるといわれています。一方、愛染明王像は大きな蓮台に安置される坐像で、眼をいからせ、口を開き、六手は法具や武具を携えています。自性上人の念持仏といわれ、愛の力を授けてくれるそうです。なお弘法大師の坐像は観音像の脇にとても控えめに祀られていました。