北野天満宮
(きたのてんまんぐう)北野天満宮は「天神さん」と親しまれる天満宮の総社です。平安時代の文人であり政治家であった菅原道真は、大宰府へ左遷されたのち、帰郷かなわず無念の死を遂げました。その後、怨霊となった道真の霊を鎮め、神として祀られたのが北野天満宮です。学問の神様として絶大な信仰を集めています。
楼門
社名・社号 | 北野天満宮 |
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住所 | 京都市上京区馬喰町 |
電話 | 075-461-0005 |
アクセス |
市バス
10,50,51,55,203系統 「北野天満宮前」下車すぐ 京福電車 北野線「北野白梅町」下車徒歩5分 |
拝観時間 | 開門 7:00-17:00 もみじ苑ライトアップ期間中:9:00-20:00 |
拝観料 | 境内自由 |
公式サイト | http://kitanotenmangu.or.jp/ |
怨霊となった道真の復讐
子供の頃「北野の天神さん」はいつもの公園よりちょっと遠い遊び場であり、25日に金魚すくいをするところであり、お正月に書き初めをするところでした。菅原道真の名前は幼いころから知ってはいたものの、天神さんに「お詣り」をした記憶はほとんどありません。ただ、牛がいっぱいいるな、とは思っていました。
東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花
あるじ無しとて 春を忘るな
これは大宰府に左遷された道真が、都の紅梅殿の梅を偲んで詠んだあまりにも有名な歌です。
菅原家は裕福ではありませんでしたが、学問に優れた家系でした。道真も頭脳明晰、勤勉、努力家で文人として頭角を現しますが、宇多天皇のもと政治家としても異例の昇進を果たし、右大臣にまでのぼり詰めます。また道真は三女、寧子を宇多天皇の皇子である斉世親王(ときよしんのう)のもとへ嫁がせてもいました。
これに危機感を抱いたといわれるのが左大臣の藤原時平です。時平は妹の穏子(やすこ)を醍醐天皇の中宮にして対抗していました。ちなみに醍醐天皇の父が宇多上皇です。そして醍醐天皇に「道真は天皇を廃して斉世親王を皇位につけようとしている」と讒言したことで、醍醐天皇は昌泰4年(901)、道真を太宰権帥(だざいごんのそち)として左遷します。2年後の延喜3年(903)、道真は失意のまま太宰府で59年の生涯を終えました。
ここから怨霊となった道真の凄まじい復讐劇が始まります。まず延喜9年(909)、時平が39歳の若さで病死すると、人々は道真の仕業だと噂しました。前後して都では落雷や天変地異が頻発し、疫病が流行しました。
さらに延喜23年(923)には天皇家を恐怖に陥れる事件が起こります。2月に醍醐天皇の三女、慶子内親王が21歳で亡くなると、翌3月21日、皇太子であった保明親王までもが21歳の若さで病死しました。
道真の死から20年も経っていましたが、人々の衝撃は大きく、『日本紀略』では一連の事件を「菅帥霊魂、怒を宿してなすところ」と道真の仕業を確信しています。保明親王の死の翌月、醍醐天皇は道真の左遷の詔を破棄して元の右大臣の地位に戻し、さらに正二位を追贈しました。しかしその2年後、皇太子に立てられた慶頼(よりのり)親王もわずか5歳で夭折します。慶頼親王は時平の孫にあたります。
それでもなお怨霊の猛威は収りません。延長8年(930)、清涼殿に落雷があり、藤原清貫(ふじわらのきよつら)が即死、平稀世(たいらのまれよ)は顔を焼かれ、紀蔭連(きのかげつら)が狂乱したといわれています。
そしてこれを見た醍醐天皇はショックで倒れ、3ヵ月後に崩御しました。承平4年(934)、吉野金峯山で修行していた道賢上人(のちの日蔵)は1度亡くなって地獄の六道を見て回り、太政威徳天(だじょういとくてん)となった道真や、醍醐天皇の霊に出会い、13日目に蘇生したそうです(『扶桑略記』所引「道賢上人冥土記」)。その後まもなくの承平6年(936)には、時平の長男、保忠が物の怪に憑かれて変死、三男の敦忠も天慶6年(943)に38歳で亡くなりました。
とはいえ、時平の身内で無事に長生きした人もたくさんいました。弟の忠平は摂政・関白を経て70歳まで生き、時平の次男の藤原顕忠(ふじわらのあきただ)は、従二位(正二位追贈)右大臣となり68歳まで存命しています。顕忠は道真の霊を深く畏れ、用心していたといわれています。また、三井寺の心誉、興福寺の扶公、岩倉の文慶(もんけい)など仏道に入った者も高い位にまで昇り、みんな長生きしました。
天慶5年(942)、都に住む多治比文子(たじひのあやこ)という巫女に天神から託宣があり、文子は自分の卑しい身分をはばかって家の敷地に小祠を建てたと伝えられています。天暦元年(947)、近江国比良宮の禰宜、神良種(みわのよしたね)の7歳の子、太郎丸にも再び託宣があり、朝日寺(東向観音寺)の最鎮(さいちん)の協力を得て、北野の右近の馬場に社殿が遷されました。これが北野天満宮の始まりとされています。なお道真の墓所となった大宰府安楽寺には、すでに延喜5年(905)に道真の門下生である味酒安行(まさけのやすゆき)によって神殿が造られていて、これがのちに大宰府天満宮に発展します。
当時北野は遊猟の地でしたが、北山に近く、雷雨の多い土地柄で、古くから地主の雷神が祀られていたといわれています。荒ぶる神である雷神を慰め崇めることで災難を鎮め豊穣をもたらす神に転じると信じられていました。境内に建つ地主社はその頃からのものといわれています。
平安時代、都では天変地異や疫病が起こると、非業の死を遂げた人々の怨霊の仕業であると恐れられました。そのため御霊会が盛行しましたが、道真の霊は北野の地で火雷神に結びつき、さらにこの時代に進められた神仏習合や、託宣によって御霊の神格が押し上げられ、古代の天神信仰から独自の発展を遂げていきます。道賢が冥土で出会った道真は「太政威徳天」を名乗りましたが、そのとき道真は16万8千の眷属を率いていると言ったそうです。
その後、藤原師輔(ふじわらのもろすけ)が自邸を寄進して北野に壮大な社殿が造営されました。師輔は時平の甥にあたるので、怯える心があったのかもしれません。やがて北野社の祭礼も始まり、一条天皇の永延元年(987)には官祭となります。正暦3年(992)、一条天皇は菅原道真に正一位を追贈しますが、これではまだ神慮かなわず、と託宣されて、さらに最高官位である太政大臣の称号が贈られました。すると、今後は末永く皇室と朝廷を守護しましょう、という趣旨の託宣が下りました。実に道真の死から90年が経っていました。
天に満ちる神となった道真と北野天満宮
道真の曽祖父は菅原古人(すがわらのふるひと)で、もとは土師姓を名乗っていました。土師氏は埴輪の製作や陵墓の造営にあたったといわれる古代雄族で、天穂日命を祖とします。私見ですが、道真が火雷神と結びついたのは、火雷神が土師氏の遠祖とつながるからだと考えています(賀茂社ほか関連神社のページで詳述)。古人の子であり道真の祖父にあたる清公(きよきみ)は苦学をして文章生(もんしょうせい)となり、早良親王に侍従した経歴があります。また延暦22年(803)には遣唐使で判官として参加しています。
さらに清公の子であり道真の父である是善(これよし)も文章博士で参議を務め、文徳天皇、清和天皇の家庭教師も務めました。このように菅原家は貧しく家格は低かったのですが代々学者を出す頭のいい家系でした。当の道真も菅原家の期待を一身に受けて勉学に励み、18歳で文章生となり、23歳で得業生となり、26歳で最高官吏任官試験の「方略試(ほうりゃくし)」に合格、天慶元年(877)、33歳で文章博士となりました。
漢詩や和歌にすぐれ、書家でもあった道真が私塾を開くと門人が数多く集まり、文人として注目を浴びますが、宇多天皇に重用され政界でもトントン拍子に出世して右大臣にまで昇進しました。宇多天皇は近臣を多く登用して、道真とのコンビで「寛平の治」を実現しています。
しかし早くから道真に対して嫉妬するものが多かったといいます。元慶4年(880)に朝議により道真が大学寮の講師になったとき、早くも3日目で誹謗されたようです。道真は「四年有朝議 令我授諸生 南面纔三日 耳聞誹謗声」と詩を詠んでそれを嘆いています。また、官人として朝廷に仕え、文章博士としての職に誇りをもつ道真は、仁和2年(886)に讃岐守を拝命されたとき、地方長官になった自分を殊のほか悲しんでいました。讃岐に赴いてからも気持ちは晴れず「涯分浮沈更問誰 秋来暗倍客位悲」などと暗い詩ばかり詠んでいます。道真は誠実でしたが、生真面目で繊細、落ち込むとなかなか開き直れない人だったようです。
一方、道真の失脚を謀ったことですっかり悪者扱いの藤原時平ですが、延喜2年(902)には荘園整理令を出し、班田を行って税制改革を成し遂げるなど、醍醐天皇とタッグを組んで行われた「延喜の治」は理想的な治世と謳われています。また『日本三大実録』や『延喜式』を編纂するなど大きな仕事をやり遂げた人でもありました。
さて、永延元年(987)に「天満天神」の勅号が与えられて以降、天神道真への信仰は急速に広まったといいます。天満天神はまた「天満大自在天神」とも呼ばれました。天神の霊威はさまざまなところに現れ、豊穣祈願はもとより、国家鎮護、家系安泰、冤罪からの守護、約束の履行、往生守護、文道・碩学の加護など多様なご神徳を顕したというのです。かつて道真の怨霊に苦しめられた藤原氏までもが子孫繁栄を祈り、その加護を讃嘆したといわれています。
ところで平安末期から鎌倉初期にかけて成立した『北野天神縁起』には「建久本」と「建保本」、それに現存する最古の「承久本(国宝)」がありますが、承久本は道真の生涯から怨霊時代、天満宮の創建、天神の信仰・霊験などのエピソードが絵と詞書(ことばがき)による壮大な絵巻となって語られています。また時代を経るにしたがって数多くの『北野天神縁起絵巻』が近世まで制作され続けました。
その『北野天神縁起』(承久本)をみれば、いきなり5、6歳の幼児に化現した権者・道真が、菅原是善の自邸の庭に現れて、我には住むところも父母もない。是善を父にしたいと言うのです。道真は生まれながらに人間ではなかったという登場のしかたになっています。
また、天神道真の本地は十一面観音菩薩ともいわれてきました。このことは菅原陳経(のぶつね)の『菅家御伝記』や菅原為長の『天神講私記』、『天神縁起』などに記されていますが、天台座主・慈円の『愚管抄』にも「天神はうたがいなき観音の化現にて…」と書かれています。道真は幼少のころ病弱だったため、母の大伴氏が願をかけ、病気が治ったなら観音像を造りましょうと誓い、これが機縁となって道真は深く観音を信仰し、観音像を彫らせたといわれています(『菅家文草』)。
寛弘元年(1004)、比叡山西塔に東尾坊(とおのおぼう)を建てた延暦寺の是算(ぜさん)が北野天満宮の別当に任じられました。これは是算が菅原氏出身だからといわれています。東尾坊とはのちの曼殊院で、是算を初代として曼殊院の門主は明治維新まで北野社の別当を兼任しています。さらに曼殊院下に祠官三家として松梅院、徳勝院、妙蔵院が置かれ、祠官は北野社に法体で奉仕し、その職は世襲されました。つまり北野社は延暦寺の管理下にありました。
『北野天神縁起』では、道真が怨霊となったあと真っ先に現れたのが天台座主・尊意の僧房であり、地獄で道真と醍醐天皇に会って蘇生した道賢も天台密教僧でした。また多治比文子とともに北野社を創始した最鎮も天台僧で、北野社は創立当初から天台宗の影響を強く受けた神社だったのです。なお、明治の神仏分離までは境内に多宝塔や鐘楼も建っていたそうです。鐘楼は八坂の大雲院に遷されています。
中世になると『渡唐天神』なる伝説が流布しました。天神道真は宋に渡り径山(きんざん)の無準(ぶじゅん)に参禅して受衣したということになったようです。渡唐天神は当初、五山文学に励む禅僧たちの文学神として崇敬され、のちに一般にも浸透して、仙冠道服に袈裟を着け、手に梅一枝をかざす渡唐天神像の画が流行しました。さらにこれらの画像は中国に渡った禅僧たちによって中国にも伝播して売買されたといわれています。
室町時代には北野社を本所とする神人(じにん)も多数にのぼり、織物、酒、油、麹など商いごとに座をつくって団結しました。神人とは神社に属する商工業民で、祭祀や供御に奉仕するかわりに神社によって商いや工業を保護された人々をいいます。なかでも西ノ京麹座は北野社神人として朝廷により優遇を受け、麹作り・販売を独占しました。北野天満宮には、京の酒屋が自分の店に麹室を一切持たないとした誓文が数多く伝わっているそうです。しかしこの独占を巡ってのちに延暦寺や幕府と北野社の間で紛争も起きています。
また北野社はたびたび芸能の舞台となり、連歌会や猿楽、田楽、能などが催されてきました。歴代足利将軍の崇敬は篤く、とくに足利義持が主催した応永20年(1413)の猿楽には貴賤老若を問わず見物が許され、大いに賑わったといわれています。近世には連歌会が盛行しますが、連歌は天神道真への供物であり、北野各坊の社僧はみんな連歌師であったといわれています。
秀吉の時代では「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」が有名です。天正15年(1587)10月1日、九州平定から凱旋直後の秀吉は北野神社で大々的に茶会を催しました。このとき、茶の湯を好む者は、国籍、身分を問わず参集するように、というお触れが出されています。拝殿には、秀吉、千利休、津田宗及、今井宗久が茶席を設け、約800人に茶が振る舞われました。境内の右近の馬場などでは武士、公卿、神官、僧侶、町人らによって1,500あまりの簡素な茶席が設けられ、自慢の茶器を持ち寄って茶が点てられました。秀吉は組立式三畳の黄金茶室を持ち込み、高価な茶道具を自慢したそうです。
江戸時代になると各地に寺子屋や藩校が普及し、それぞれに天神社が勧請されていきます。都への参詣がままならない地方の人々にも天神信仰が浸透して、学業成就や武道・芸能の上達などが広く祈願されるようになりました。また、慶長8年(1603)には、出雲の阿国が社頭で歌舞伎を演じたことから、北野社は歌舞伎発祥の地ともいわれています。