松尾大社
(まつおたいしゃ)京都屈指の古社のひとつ、松尾大社は、秦氏ゆかりの神社といわれ、大山咋神(おおやまくいのかみ)と市杵島姫命(いちきしましめのみこと)が祀られています。古くからお酒の神様として名高く、全国の酒造業者から尊崇されています。
本殿
社名・社号 | 松尾大社(まつのおたいしゃ・まつおたいしゃ) |
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住所 | 京都市西京区嵐山宮町3 |
電話 | 075-871-5016 |
アクセス |
阪急電車嵐山線「松尾大社」下車すぐ 市バス 28,29系統「松尾大社前」下車すぐ 3,67,71,特71系統「松尾橋」下車徒歩5分 京都バス 63,73,83系統「松尾大社前」下車すぐ |
拝観時間 | 庭園・神像館 平日・土曜 9:00-16:00 日曜・祝日 9:00-16:30 本殿特別参拝(お祓・案内付):10:00, 11:30, 13:30, 14:30 |
拝観料 | 庭園・神像館:大人500円 学生400円 子供300円 本殿特別参拝:1名1,000円 |
公式サイト | http://www.matsunoo.or.jp/ |
松尾大社と賀茂の神
松尾大社は嵐山の渡月橋から桂川に沿って南東に約2kmのところにあります。言い換えれば、京都市を東西に横切る四条通の西端で、桂川に架かる松尾橋のたもとに位置します。ちなみに四条通の東端には八坂神社が建っています。
松尾大社は「まつのおたいしゃ」とも「まつおたいしゃ」とも呼ばれますが、もっと身近に「まつおさん」とも呼ばれます。そのすぐ東を流れる桂川は、古くは葛野川(かどのがわ)と呼ばれていました。その上流は大堰川(おおいがわ)、さらに渡月橋より上流になると保津川(ほづがわ)とも呼ばれます。
葛野は古くから秦氏が勢力を伸ばした地域で、最初に桂川を堰き止めて田畑に水を引いたのも秦氏といわれています。その大堰の造営は、5世紀末とも6世紀前半ともいわれ、葛野大堰(かどのおおい)として早くから知られていました。おかげで桂川流域は肥沃な土地となり、生産性が一気に上がって秦氏は富み栄えたといわれています。
松尾大社の大鳥居をくぐり参道を行くと二ノ井川が流れています。さらに立派な楼門を抜けると一ノ井川が流れます。これらの水路は渡月橋の南側を流れる大溝から引かれていて、もとは秦氏が灌漑用にめぐらせたものだそうです。
秦氏は古代に日本に移住した氏族で、土木工事や金工、養蚕など、大陸の高度な技術をわが国にもたらしたといわれています。古代の最もよく知られている人物は、太秦の広隆寺を建てた秦河勝(はたのかわかつ)で、彼は聖徳太子のパトロン(後援者)であったと伝えられています。官僚や高僧や世阿弥のような芸能人も秦氏から出ました。この松尾の地にも秦氏のものと推測される後期古墳が見つかっています。とはいえ、葛野がそれまでまったく未開の地であったわけではなく、秦氏が進出してくるずっと以前から豪族たちが暮らしていました。
松尾大社の背後にそびえる松尾山山頂近くの大杉谷には、秦氏が居住する以前の太古からこの地に住む人々によって崇められてきた磐座(いわくら)があります。秦氏も葛野に移ってからは、この磐座に降臨する神を崇めてきたといわれているのです。
松尾大社の主祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)です。『古事記』によれば「大山咋神は、またの名を山末之大主神(やますえのおおぬしかみ)といい、近江の日枝山(ひえのやま)と、葛野の松尾山に鎮座する神、そして鳴鏑(なりかぶら=矢)をもつ神」とされています。大山咋神はスサノオの子の大年神の子にあたり、日枝山と松尾山を司るいわば山の神です。また市杵島姫命は、福岡の宗像大社に祀られる宗像三女神のひとりで海の神です。なお日枝山とは比叡山を指します。
『古事記』に書かれるように、松尾大社は近江の日枝山王(日吉山王・日吉大社)と関わりが深く、賀茂社とは祭祀・儀礼において歴史的にもっと深い関わりがあります。現在も松尾大社は賀茂社と同じ葵の神紋を用い、祭礼のときには葵桂で髪が飾られます。賀茂社の祭礼を葵祭と呼ぶのと同じく、松尾大社の松尾祭も、別名、葵祭といわれています。
松尾大社の創建について、秦氏出身の惟宗公方(これむねきんかた)が撰述した『本朝月令』所引の「秦氏本系帳」には次のように記されています(意訳)。
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正一位勲一等 松尾大明神の御社(おやしろ)は、筑紫胸形坐(ちくしのむなかたにます)中部大神。戊辰(天智天皇7年・668)3月3日に、松崎日尾(日埼岑・ひさきのみねとも云う)に天下り坐す。
大宝元年、川辺腹男・秦忌寸都理(はたのいみきとり)が日埼岑よりさらに松尾に奉請し、田口腹女・秦忌寸知麻留女(はたのいみきちまるめ)が初めて御阿礼(みあれ)を立てて奉仕した。
知麻留女の娘、秦忌寸都駕布(はたのいみきつがふ)が戊午(養老2年・718)年に祝(はふり)となり、子孫相承し大神を祈り祭った。それより以降、元慶3年(879)に至るまで234年。
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筑紫胸形坐中部大神とは、宗像三女神のひとり、中津宮に鎮座する市杵島姫命とされています。また松埼日尾とは、一般的には松尾山山頂と考えられていますが、高野の松ヶ崎という説もあります。さらに川辺腹男、田口腹女とは、葛野郡河辺郷の地名があることから、それぞれの出生地を指して川辺に住む一族の男性、田口に住む一族の女性と考えられていますが、川辺・田口は氏ではないかという説もあります。
松尾大社の創建は大宝元年(701)。それ以前の天智天皇7年(668)3月3日に松崎日尾というところに市杵島姫命が天降ったと「秦氏本系帳」は述べています。大宝元年に秦都理(はたのとり)が松尾の地に社殿を建て、市杵島姫命を勧請し、その際、秦知麻留女が巫女として奉祭し、その後、元慶3年(879)に至るまで、知麻留女の娘、都駕布(つがふ)から代々大神を祀ってきたとされています。
なお、元慶3年(879)に至るまで234年と記されていますが、引き算すると645年になり、計算が合いません。単なる間違いなのか、645年とは中大兄皇子と中臣鎌足が『乙巳の変』でクーデターを行った年でもあります。気になるところですが、それはさておき。
社伝によれば「大宝元年(701)に、文武天皇の勅命を奉じて秦忌寸都理が神殿を建てた」といわれているので、松尾大社は官社的に始まった神社といえます。なお、この「秦氏本系帳」の記事には大山咋神の名はみえず、松尾大社は秦氏が元慶3年(879)まで市杵島姫を祀ってきた神社という説明になっています。一般的には、大山咋神は秦氏が祀る神なので、それ以前から祀られていて当然と考えられていますが、やや疑問なところもあります。
『続日本紀』延暦3年(784)11月20日条には、長岡京遷都に際して「叙松尾乙訓二神従五位下」と記され、松尾大社はこの年初めて神階を授けられました。ただ、叙位されたのは、松尾一神と、乙訓一神の合計二神のように受け取れるのです。もっとも、このとき神階を授けられたのが、勅命で祀られた市杵島姫だったということかもしれません…? 延長5年(927)に成立した『延喜式』神名帳には、松尾大社の祭神は2座となっています。
ところで、市杵島姫命が松崎日尾に天降ったと伝えられる天智天皇7年(668)3月3日は、日吉大社の西本宮に三輪の大己貴神(おおなむち)が勧請された日でもあります。 大津朝を開いた天智天皇は、国家鎮護を祈願し、天智天皇7年(668)3月3日に、鴨県主と同族とされる祝部(はふりべ)氏の宇志に勅して、三輪山から大己貴神(日吉社『巖神鈔』ではスサノオの御子の大物主神)を勧請させています。 つまり、市杵島姫命と三輪の大己貴神(大物主)は一対になっているのです。
『日吉社禰宜口傳抄』によれば、別雷神(わけいかづちのかみ)が昇天の時、丹塗箭(にぬりや)が鳴動し飛び去って比叡社に在り、その後、飛び去って乙訓社に在り、また飛び去って松尾社に在り、とされています。丹塗箭(にぬりや)と玉依姫から生まれたのが別雷神なので、この伝承によれば、日吉社・乙訓社・松尾社の男神は大山咋神であり、別雷神の父、火雷神(ほのいかづちのかみ)ということになります。またどこから飛び去って比叡山に来たかといえば、ヤマトの三輪山です。三輪山から大物主を勧請した祝部氏の宇志の子孫は乙訓社の神職も務めています。
一方で、日吉大社の東本宮には大山咋神が祀られ、すぐそばの樹下宮には鴨玉依姫が祀られています。その創祀は西本宮よりも古く、崇神天皇の時代といわれています。 おそらく国家の祭祀として三輪の神が勧請される以前に、鴨族らは奥宮で祭祀を行っていたのでしょう。
賀茂社のページで、下社社家の鴨俊永の記録により、「東殿(玉依日売)の父君は事代主」と書かれていることなどから、賀茂建角身(かもたけつぬみ)は八重事代主であり、一方、大山咋神は火雷神であり、天御影命(あめのみかげ)であり、天目一箇命(あめのまひとつ)、天櫛玉命(あめのくしたま)であり、三輪の大物主(小蛇)であり、そのほかさまざまな別名をもっていますが、神武前代にヤマトを治めていた饒速日命(にぎはやひ)であると述べました。饒速日命の子孫の一流はオオタタネコへとつづき、三輪山で大物主を祀った三輪氏や、高鴨でアジスキタカヒコネ(建角身)を祀った賀茂朝臣にもその血を伝えていたと思われるのです。また、鴨県主も天櫛玉命(三輪の大物主・饒速日)を祖とする氏族です。
つまり、三輪の大物主(饒速日)と一対になる市杵島姫命は玉依日売に対応し、賀茂社と日吉社と松尾社には、いつ頃からか同じ神が祀られたようなのです。 江戸時代の上賀茂神社禰宜、賀茂経千によって書かれた「賀茂社本縁秘抄」によれば、当時の上賀茂神社の権殿は、御客間とされ、神事のときには御祖(みおや)、氏神、松尾、日吉の神が御坐す(おわす)と記されています。また、松尾大社社家の東家所蔵の『松尾皇太神宮記』には北畠親房の説を引く形で「松尾ハ、賀茂・日吉一躰也」と記され、『諸神記』にも、大山咋神 丹塗矢是也 松尾日吉同体と記されているのです。
一方、賀茂社のページで、建角身命は八重事代主であり、綿津見豊玉彦でもあり、海神族の祖としてたくさんの氏族を出し、『日本書紀』神武紀に八咫烏の苗裔と書かれた葛野主殿県主部や、和珥氏や同族の小野氏・粟田氏などもその一流と述べました。また、鴨県主の祖である天御影命(饒速日)の子孫は物部氏・忌部氏らと同族とも書きました。そして、葛野主殿県主部と書かれた氏族と鴨県主は別系統ではあるものの、姻族として深い関係にあり、建角身命の娘である玉依姫が饒速日命の妻となったため、その子孫である鴨県主は玉依姫とその家族を祀ったようなのです。さらにこのことは、秦氏のもうひとつの伝承にも関係しています。
秦氏の伝承と山城国風土記の玉依姫伝承
「秦氏本系帳」には、建角身命の娘、玉依日売が瀬見の小川で遊んでいたとき、丹塗矢が流れてきたのでそれを持ち帰り、床の辺に置いたところ別雷神が生まれた…という「山城国風土記」逸文を載せ、それに続けて以下のような秦氏の伝承が記されています(意訳)。
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秦氏の女子(めのこ)が葛野河で洗濯をしているとき、1本の矢が上流から流れてきた。女子はそれを持ち帰り戸に刺して置いたところ、懐妊して男子(おのこ)が生まれた。
女子の父母は夫が誰なのか問いただしても女子は知らないといったまま月日は流れた。
あるとき諸人を招き集めて宴会を開き、祖父母は男子に盃を取らせ、父と思う人に献じよ、といったところ、男子は戸の上の矢を仰ぎ見て、指さしたとたん雷公となり、屋根を突き抜けて天に去ってしまった。
ゆえに、鴨上社は別雷神を祀り、鴨下社は御祖神(みおやがみ)を祀る。戸の矢は松尾大明神なり。これをもって秦氏は三所大明神を奉祭する。
また鴨氏人は秦氏の愛婿なので、鴨祭を譲り与える。今、鴨氏が禰宜となって奉祭するのはこの縁なり。
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この「山城国風土記」逸文とそっくりな伝承では、秦氏の女子と玉依姫が重ね合わされて同一視されています。つまり、玉依姫の祭祀的役割を、「秦氏の女子」が引き継いだように受け取れるのです。 加えて、鴨氏人は愛婿なので、鴨祭を譲るというのは、秦氏を介して建角身命の系統(葛野主殿県主など)から、玉依姫の夫側である鴨県主の系統へと祭祀権が移ったことを物語っているように思われるのです。 実際、いつ頃からか賀茂社で祭祀の中心を担ったのは鴨県主であり、河合神社をはじめ賀茂社の女系家族(玉依姫の実家)の神社はいつしかすべて賀茂社の摂社となっていったのです。
また三所大明神とは、賀茂社でいえば下鴨神社の三所社の神々にあたると思われますが、寛政11年(1799)に成立した『鴨縣纂書』によれば、祭神は別雷神と玉依姫と建角身のようです。でもなんで秦氏が祀ったのでしょう??
秦氏の移民の経緯
秦氏の出自は、中国秦の王族の末裔という説や、祝融の後裔で、秦から逃れた人々の秦韓国からやってきた説、金官伽耶国からやってきたという説などいろいろあって定説はありませんが、紀元前後の朝鮮半島には、西方や北方から移った人々によっていくつもの国らしきものができていました。また扶余や高句麗、百済の建国神話も、東明の始祖伝説が共有され、日本神話にもいくらか影響がみられます。中国が管轄した楽浪郡も含めて、そのころの朝鮮半島は多民族がひしめき合い、異文化が交流する土地であったとみられています。
秦氏の移民には何度かの波があり、すべてが血族ではないという説もあります。移民集団に対し「ハダ」とか「ハタ」を賜姓したのはときの朝廷なので、大挙して海を渡った人々のなかには秦氏の配下にあった隷属民も含まれていたでしょう。それに加えて、秦徐福の伝説も各地にあり、秦氏の実態はよくわかりません。ただ、血縁はなくても、伝えられた技術や、祭祀・信仰には共通点もみられるので、民族的な連携があったのかも?
なお、ヤマト王権が成立したあとに日本に移住した人々を、昭和になってから渡来人と呼ぶようになったわけですが、遠い昔から島国の日本は、神代に登場する日本の神々も、縄文人も含めて祖先のほとんどは渡来人の集まりといえるでしょう。個人的には、グローバルになった現代よりも国際色豊かで多様な民族が暮らしていたと思っています。そして、列島の恵まれた風土のなかで、争いや融合を経てやまと化が進み、独自の感性が磨かれ、独自の文化を築いてきたのが日本人だと思っています。
『日本書紀』応神紀14年条には、「弓月君が百済から来朝し、自国の人夫120県を率いて帰化しようとしたが、新羅の妨害に遭って加羅国に留まっていると奏上した。そこで王権は、人夫を加羅より招致すべく葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を派遣したが、襲津彦は3年経っても戻らなかった。そのため、応神天皇16年8月に、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に兵を授けて新羅に派遣すると、新羅は服して、弓月の人夫と襲津彦は帰還した」という内容が記されています。
一方、『新撰姓氏録』によれば、山城国の秦氏は、秦の始皇帝の後裔である功智王、弓月王(ゆづきのきみ)を祖とし、応神天皇14年に来朝、上表したのち一旦戻り、金銀玉帛など献上品を携え、127県の伯姓を率いて帰化。大和朝津間腋上(あさつまわきがみ)の地を賜って居住し、仁徳天皇の御世に波陁(はだ)の姓を賜った、とあります。『書紀』の記事と山城国秦氏の『新撰姓氏録』の内容はほぼ一致します。
このとき秦氏を連れ帰ったといわれる葛城襲津彦は、武内宿禰(たけうちのすくね)と葛比売(かずひめ)を両親とする系譜があり、父の武内宿禰は、孝元天皇の孫か3世孫といわれ、紀国造の遠祖、宇豆比古(うずひこ)の妹の山下影日売を母としています。一方、襲津彦の母の葛比売は、建角身の孫のひとりである剣根命(つるぎね)の後裔という系譜をもっています。『書紀』によれば、剣根命は神武東征の褒賞として葛城国造を賜ったとされる人物で、その子孫である葛比売の子・葛城襲津彦は、母方の葛城を名乗り、葛城臣の祖となっています。つまり、秦氏を呼びよせた葛城襲津彦は建角身命の子孫と母系でつながるのです。秦氏が賜ったとされる大和朝津間腋上は葛城にあり、建角身の子孫たちが居住し、祖先を祀った地でもありました。
その後、秦氏の人民は、葛城、摂津、河内のほか各地に分散して居住したようです。なかでも河内は仁徳期に茨田堤の工事に携わった秦氏の一大拠点であったとみられています。『書紀』雄略天皇15年条によれば、秦造酒(はたのみやつこさけ)が、それまで各地に散って豪族の配下となっていた秦の民の再編成を求め、絹などをうず高く積み上げ天皇に献上したところ、禹豆満佐(うずまさ)の姓を賜ったとあり、この系統が『姓氏録』大和国左京(諸藩・未定雑姓)の太秦公宿祢とみられています。この集団には先発隊があったようで、仲哀天皇8年に来朝しています。その後の応神朝で大量移民があったわけで、まず移民(亡命?)申請を取り付けたのかもしれません。
秦造酒が禹豆満佐(うずまさ)の姓を賜った翌年の16年条には、雄略天皇が養蚕などを奨励し、庸調を貢がせたとされるので、それを受けて間もなく太秦公宿祢の系統から本宗二流が立ち、一流が山代国に移ったとみられています。時代にして5世紀後半頃でしょうか。山城国の秦氏も太秦公宿祢同祖としています。とすると、秦氏のこの流れは建角身の子孫らが居住した大和朝津間腋上から、年月を経て再び建角身の子孫らが居住した葛野郡にやってきたのです。
彼らは葛城から一緒に移ってきたとも考えられますが、古墳群の時代のズレや、秦氏が来る前から祭祀が行われていたという大杉谷の磐座が気になります。それに葛野といっても葛野川流域だけではありません。 秦造酒はウズマサ公と呼ばれたことや、考古学的見地から、まず秦氏は太秦(うずまさ)に拠点を置いたとも考えられています。先住民の領地を避けたとみられるためです。 そしてその過程で、秦氏は建角身の子孫や、饒速日の子孫と姻戚関係を結んだようなのです。
葛野郡や丹波に居住した鴨族の子孫
松尾大社からは、嵐山の渡月橋もそれほど遠くはありません。大堰川は丹波の分水嶺から南に流れ、やがて桂川となり、鴨川と合流し、その後、東から流れる宇治川や木津川ともかつては巨椋池を経由して合流し、淀川となって大阪湾に注ぎます。出雲や丹後や近江と、山城や大和を結ぶ淀川水系を利用して、早くから人々が往来していました。鴨族とよばれた建角身命と饒速日命の子孫らも、早くからこの水系一帯に居住していたと考えられるのです。
神代には丹波の神・伊可古夜日女(いかこやひめ)を建角身命が娶った伝えがあり、その伊可古夜日女は天御影命(饒速日命)の身内の可能性が高いことを上賀茂神社のページに書いています。また、崇神天皇の御世には和珥氏の遠祖・彦国葺命(ひこくにふく)と饒速日の子孫の欝色謎命(うつしこめ)を母にもつ大彦命(おおびこ)が、武埴安彦命(たけはにやすひこ)の鎮圧のために山代国に派遣されていました。
鴨県主の祖である天御影命(天櫛玉命・饒速日命)の後裔は、たくさんの氏族に分かれていますが、そのひとつ、物部氏の本宗は臣姓を賜った穂積臣といわれています。饒速日命は河内の哮峰(いかるがのみね)に天降ったと伝えられ、一説に、子孫はまずヤマトの添下郡から十市郡に移動したと考えられています。その地は奈良県磯城郡田原本町保津といい、保津は穂積氏に由来するそうです。桂川を遡ると大堰川、保津川とよばれ、亀岡市には保津町の地名もあります。さらに保津川を遡ると、大国主命(この大国主命は御影大神)と三穂津姫を祀る出雲大神宮があります。じつは饒速日命の子孫らは丹波にも由緒があったと考えられるのです。
また、渡月橋から大堰川の右岸を少し遡ると、松尾大社の摂社である櫟谷宗像(いちいだにむなかた)神社があります。松尾大社、月読神社とともに、松尾三社に数えられた櫟谷(いちいだに)神社には、奥津島姫命 (おきつしまひめのみこと・田心姫)が、また宗像神社には市杵島姫命が二社同殿に祀られています。ただし『松尾社譜』によればその逆で、櫟谷神社の祭神が市杵島姫命、宗像神社の祭神が奥津島姫命とされ、『松尾七社略記』では櫟谷社の祭神は、事代主神とされるそうです。
建角身命は八重事代主なので、松尾大社に残る記録はいずれも理解できます。そしてこの女神らも、天智天皇7年(668)に筑紫の宗像から勧請されたといわれています(大宝元年とも)。 かつて嵯峨には櫟原郷があり、櫟原(いちはら)の地名は櫟井臣に由来するといわれます。また櫟原はやがて市原とも書かれ、市原や静市、静原まで氏族が分布していきますが、賀茂社の氏子地域でもあります。 櫟井臣はワニ氏の春日臣から分かれた小野臣の近縁で、櫟谷の付近にも建角身の子孫の櫟井臣が居住していたのかもしれません。小野氏に至っては周山街道の山奥にまで分布しています。 『松尾社譜』による櫟谷神社の祭神・市杵島姫命は、建角身命の娘である玉依日売に対応します。この市杵島姫命の神霊が、大宝元年(701)に松尾大社に勧請されたのでしょうか??
建角身系の子孫と秦氏の姻戚関係
鴨県主の系図は、建角身の子の玉依彦の後裔として一流で始まり、第11代大伊乃伎命の子孫から多くの支流に分かれていきます。 なので、天御影命(饒速日)の系統は建角身の女系に接合されたものとみていますが、少なくとも大伊乃伎命までは建角身の直系(玉依彦の後裔)と考えています。また、宝賀寿男氏著の『古代氏族の研究11 秦氏・漢氏』によれば、大伊乃伎命の娘は秦酒公の妻となり、意美と忍君の2人の子を設け、その際、秦意美に葛野県を譲ったという所伝があるそうです。原典未確認ですが、このとき、大伊乃伎命のもうひとりの子も秦氏の娘を娶ったことになっていて、これは同盟関係を結んだと考えられるかもしれません。
大伊乃伎命は崇神朝から垂仁朝の時代の人とされているので、雄略紀に書かれる秦造酒の時代はかけ離れていてそのまま信用するのは無理ですが、大伊乃伎命が玉依彦から11代目なら、本当は雄略期の人物なのかもしれません。
下鴨神社では、大伊乃伎命は猿田彦にあてられ、大伊乃伎命を仮の初代としているような印象があります。 猿田彦が天孫を案内したのは敗北側の服属儀礼ともいわれますが、八咫烏の役目も似ています。玉依彦の後裔は猿田彦を第一奥玉神として大切に祀っていました。 もし大伊乃伎命が建角身命に模されているとすれば、秦氏の伝承の「秦氏の女子」は大伊乃伎命の娘であり、玉依姫を映したものではないでしょうか。 また、この伝承をもとに、松尾大社と関係の深い伏見稲荷大社の記録では、建角身は秦氏の祖とまで書かれているのです。
建角身の系統と秦氏は、信仰や民族的に近似性や親和性があったのでしょう。建角身の系統は女系の祭祀者(巫女)を出し、その地位が高いという特徴があります。 秦氏との姻戚関係でそれがどこまで影響したかは不明ですが、秦氏も伝統的に巫女を出し続けていました。水神信仰も共通点です。 また、天之日矛(あめのひぼこ・天日槍・海檜槍)の伝承地域と、秦氏の居住地域が一致するという平野郁雄氏の研究もあり、天之日矛も、建角身系の祭祀も牛を神聖視するという点で似ています。
葛木御歳神社の御歳神は『旧事紀』によれば、高照光姫大神命で八重事代主の妹で、下照姫の可能性があります。男神とみられることもありますが、本来は女神のようです。 その御歳神は天之日矛と同様に、牛を食べることに対して怒ったり祟ったりするのです(『古語拾遺』)。天之日矛の妻となったアカルヒメが下照姫と同一視されたりするのは混同かもしれませんが、似たような日光感精信仰や卵生信仰があったのかもしれません。
たしかに天之日矛と建角身系は信仰や祭祀に近いものが窺えますが、秦氏に直結するのでしょうか。海神の亀信仰は共通しますが、秦氏が事代主のように八尋鰐になった伝えは見当たりません。山代の秦氏は建角身よりかなり新しい時代の人々であり、渡来前の部族間交流は不明です。また、渡来後も秦氏はこだわりなくさまざまな氏族と結びついています。新天地に馴染むには姻戚関係を結ぶのが手っ取り早かったのかも知れません。けれども、本当にお互いの子ども同士を娶わせたのなら、その意味は大きかったでしょう。
一方、事代主の血を受け継いだとみられるワニ氏は往古から多くの皇妃を出していますが、その同族らには、百済や新羅、随や唐や渤海国へ派遣された人もあり、新羅国王の娘と結婚した人(大矢田宿禰)や、唐の女性と結婚した人(羽栗吉麻呂)もいます。狛系の人々とも接触があったでしょう。遣隋使や遣唐使となった人も複数あり、活動はグローバルです。また、軍事氏族でもあったので、陸奥国や出羽国に赴任した人々もありました。
物部氏と秦氏の姻戚関係
秦氏に鴨の女系の祭祀を継承した建角身の系統ですが、やがて「鴨氏人は秦氏の愛婿なので鴨祭を譲り与える」ということの経緯がおぼろげに見えてきます。 どこまで史実なのか不明ですが、『諸系譜』第1冊「物部大連・十市部首」によれば、大伊乃伎命の娘と秦造酒との子・秦造意美には志勝という子があり、その志勝は秦大津父・宇庭・女の3人の子をもうけ、志勝の娘(大津父の妹)と物部麁鹿火(もののべのあらかび)の甥である奈世が結婚し、その子の宇那古が鴨祝となり、子孫が葛野県主となったとされているのです。つまり、物部氏男系も鴨の祭祀と葛野県主を担うのです。
宇那古の時代にはまだ上賀茂社も建てられていないので、これは葛野のどこかの話であって、愛宕郡賀茂郷の鴨県主の話ではありませんが、鴨県主と物部氏は同祖・同族なので、同じ祖先を祀るのは自然です。 また、宇那古の兄弟である形名が母方の秦公を名乗り、そのひ孫が秦忌寸都理とされているのです。つまり秦忌寸姓を賜った都理も物部氏出身です。前述の宝賀寿男氏の著書によれば、『新撰姓氏録』山城国神別の「秦忌寸」がそれにあたり「神饒速日命之後也」とされています。少数ながら神別の秦氏が存在するのです。松尾大社は男系から物部氏が出て、都理の子孫が禰宜・祝を世襲し、松尾神主秦宿祢となったと説明されています。
なお、『鴨県主家伝』や「稲荷社社家西大西家系図」によれば、秦都理と稲荷大社を創祀した秦伊侶具(はたのいろぐ)は兄弟で、鴨県主久治良(くじら)の子とされています。養子ともいわれ、何が史実なのか不明ですが、このうち都理は、物部大連の系図によれば、鴨県主酒屋の娘と結婚したことになっているので、そのことをもって鴨県主の系譜に入ったのかも知れません。賀茂の神の祭祀集団は、賀茂社・日吉社・乙訓社も含めて、氏やカバネを超えた広い意味での同族で構成され、互いに連携があったように思われるのです。それは、氏姓制度によってもとの同族集団が分割されたことを意味するのか、それとも中央政府の働きかけによるのでしょうか。
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一方、秦氏と同盟したあと建角身の直系子孫らはどうしたかといえば、一部は乙訓や葛野の広い範囲に残り、一部は鴨県主より先に鴨川を超えてさらに東や北へ移動したと思われるのです。 また乙訓の東の紀伊郡にも一族の足跡が伝えられています。もともと玉依彦の後裔は、玉依姫の嫁ぎ先とは姻族であって、子孫ではないため、活動はかなり独立していたようです。 なお、細かいことですが、『鴨県主家伝』では葛野主殿県主(部)と葛野県主は書き分けられています。葛野主殿県主部は八咫烏の苗裔とされる一方、都理の本姓は葛野県主、大止知命の後裔も葛野県主と記されているのです。大止知命の後裔は久我国司といわれたことから、鴨県主・物部氏と同系統の久我氏の流れと思われます。久我氏の祖は天背男命(天津彦根命)で、八咫烏は天背男命の娘(天津羽羽命)を娶っていたので、親族が葛野で居住していたということでしょう。
「秦氏本系帳」の「秦氏の女子」の伝承が、仮に大伊乃伎命の娘を秦氏が娶った頃、つまり秦氏が山代国に来て間もない頃のことを指しているとすると、それから200年ほど経って松尾大社が建てられたことになります。この時に阿礼木を立て、市杵島姫を奉祭した秦忌寸知麻留女(ちまるめ)は、先の物部大連の系図によれば、物部氏の葛野県主の系統から出た羽衛と田口朝臣との間に生まれたことになっています。「秦氏本系帳」に書かれる田口腹女・知麻留女のことでしょう。田口朝臣といえば蘇我氏です。なのになぜ秦忌寸を名乗ったかというと、伊侶具の妻となったからのようです。情報がかなり錯綜していますが、羽衛までの母系が渡来系の秦氏だった可能性もあるでしょう。
松尾大社創建の発起人は藤原不比等
松尾大社の縁起について『松尾皇太神宮記』によれば、「文武天皇の御宇に、藤原不比等が大杉谷の御生所に赴いたところ、大神は松尾山の別雷山の麓に遷って、百王の宝祚を守護せんと告げられた。そこで不比等はこの由を奏上したところ、秦都理が勅命を受けて現在地に遷宮した」という内容が記されています。大宝元年(701)、律令制の施行とともに、藤原氏の意向が反映されたかたちで松尾大社は創建されています。ちなみに勅命を出した文武天皇の夫人の宮子は、不比等と賀茂朝臣蝦夷の娘とされる賀茂比売との間に生まれています。また、不比等には天智天皇の落胤説もあります。
天皇を中心とする中央集権が進むと、土地も人民も国家のものとされ、租税システムも強化されていきます。当時、国の財源であり衣食を支える稲や桑は神聖なものとされ、神の意思がその生育を左右すると信じられていました。そのため祭祀においても国家が監督し、国家が主体となって神への感謝を表し、または神の怒りを鎮め、豊穣を祈願するために盛んに社殿が造営され、「奉幣」が行われるようになります。その屋台骨に掲げられたのが、官民の共通理念となる天神地祇によって国造りが行われたという国史としての神話であり、そのために国により個々の氏族の神話が整理し直されたとも考えられています。たぶん税や諸々の利権をめぐっては特定の氏族への忖度もあったでしょう。
大宝令に先駆けて、紀伊国でも神社の配置替えなどがあり、各地で都市計画が進められていました。陰陽などはよく解りませんが、大和岩雄氏の説によれば、松尾大社の社殿は夏至の朝日を遥拝できるよう比叡山(牛尾山山頂)を向いているともいわれています。実際に測定したことはありませんが、比叡山から昇る朝日は鳴鏑であり、市杵島姫がその矢を受けることで神婚が成立します。
しかしそれは、松尾大社の創建時に初めて行われた祭祀ではないはずです。おそらく大杉谷の磐座では日読みが行われ、葛野川や霊亀の滝で禊が行われていたでしょう。 秦氏が来る以前から神祭りを行っていたのは建角身の子孫かと思われます。それが松尾の鴨祭の原型で、秦氏を介して、愛婿である饒速日の子孫に鴨祭を譲ったのです。 ただ、譲った鴨祭は「山城国風土記」の玉依姫伝承と同質で、女神を主体としています。瀬見の小川があり、河合神社の影響を大きく受けた下鴨神社の祭祀はよく似ていますが、別雷神を祀る上賀茂神社の祭祀は、賀茂の神の男系が大切にしてきた信仰が内包されているようです。
松尾大社の創建後、秦氏は恭仁京遷都や長岡京遷都の際に土木建築技術を活かして活躍します。また、藤原氏との姻戚関係も顕著になり、平安京遷都も蔭で助けています。松尾大社は初めて神階を賜った延暦3年(784)以降、貞観8年(866)までのわずか82年の間に従五位下から正一位まで破格の神階昇叙を受け、平安末期には、厳神の賀茂、猛霊の松尾と並び称されます。猛霊という呼称にふさわしく、松尾の大山咋神は軍神としても崇められていました。
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松尾の神はお酒の神、亀と霊泉の神社
松尾大社の楼門をくぐり拝殿の左手にいきなり眼に飛び込んでくるのが、ぎっしりと酒樽の積み上げられた神輿庫です。「松尾さん」と親しまれる松尾大社はお酒の神さまとして全国の酒造・酒販関係者から崇敬を集めています。正しくは醸造の祖神で、お酒だけでなく、味噌や醤油、お酢の製造・販売業者からも篤く信仰されています。面白いのは御祈祷の項目に節酒祈誓があることでしょうか。松尾の神は大山咋神と玉依日売(市杵島姫)なので、お酒以外にも御神徳は多く、寿命、安産、開拓、治水、土木、建築、商業、文化、交通などの守護神として崇敬されてきました。
松尾大社の所蔵する『酒由来の事』によれば、山田(嵐山)の米を蒸し、山裾から湧き出る清らかな水を汲み、一夜にして酒を造り、大杉谷の杉の木でこしらえた器で諸神たちに振る舞ったところ、神々はよろこび歌ったと記されます。お酒自体が福の神でもあったようです。秦氏はもともと優れた醸造技術をもっていたともいわれますが、お酒の神として崇められた少彦名(大山咋神)の神格や、別雷神のために酒宴を開いた海神の建角身命の神格を踏襲しているようにも思えます。
境内の「亀の井」の水は醸造に使うと酒が腐らないといわれ、延命長寿やよみがえりの水としても有名です。また『釈日本紀』に「松尾と日吉は同体なり」と書かれた日吉大社の東本宮本殿すぐそばにも「亀井霊水」があり、最澄が参拝したときに霊亀(れいき)が現れて閼伽井としたと説明されています。
亀の井だけでなく、松尾大社にはたくさんの亀が祀られていて、亀づくしの神社です。撫でてご利益が得られる「撫で亀さん」や「霊亀の滝」などあちらこちらで亀の霊験にあずかれます。松尾大社では亀は神の使いといわれ、「亀使令」という文書には、松尾大神が太古の時代に丹波の国を開拓するため保津川を遡る際、急流には鯉の背に、緩流には亀の背に乗ったと伝えられています。嵐山付近には亀の形をした亀山があり、保津川を遡ると亀岡市があります。亀岡もかつては亀山でした。
また『松尾皇太神宮記』によれば、元正天皇の和銅7年(714)8月、松尾社境内の御手洗谷から「首に三つの星、背に七星を負い、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり、尾に緑毛・金色毛の混ざった長さ八寸の亀」が現れたので、左京の役人と社司が奏上したところ、翌年、元正天皇の即位に合わせて元号が霊亀に改められたと伝えられています。三つの星とはおそらくオリオン座、七星は北斗七星で、妙見信仰を表したもののようです。
次いで聖武天皇の天平元年(729)には、背中に「天王貴平知百年」の文字を顕わした亀が出現し、天皇は大変感謝して奉幣したと記されています。聖武天皇の在世中の元号は神亀でした。古代中国では亀が神とみなされ、霊亀、神亀と呼ばれたようです。元正・聖武天皇はそれに倣ったのでしょう。
松尾大社の現在の本殿は天文11年(1542)に大修理が施されたもので、正面が桁行三間なのに対して、側面の梁間が四間の両流造り両流造(りょうながれづくり)と呼ばれる特殊な構造で「松尾造り」と呼ばれています。また、釣殿、中門、回廊、拝殿、楼門は江戸初期に造られたといわれ、当時の回廊は畳敷きだったそうです。本殿の東側にめぐらされた庭園は、昭和に重森三玲によって作庭されたもので、上古の庭、曲水の庭、蓬莱の庭があります。
一方、神像館には21体の神像が常設されていて、そのうち3体の等身大坐像は平安初期の作品で、神像彫刻の最古のものといわれています。老年像は大山咋神、女神像は市杵島姫命、壮年像はその御子神とされています。どの像もとても人間的で、広隆寺の神像ともよく似ていますが、こちらのほうが優しい表情になっています。なお、神仏習合時代には、松尾大社にも社僧が置かれていました。秦氏ゆかりの広隆寺からも交替で6名の僧が入っていたといわれています。