高台寺
(こうだいじ)清水寺から二寧(二年)坂を下ると高台寺が建っています。または八坂神社の南門からひと筋北の「ねねの道」を辿っても行けます。高台寺は豊臣秀吉の正室・北政所「ねね」が大阪城を退去したのち、晩年を過ごした禅寺です。霊屋(おたまや)では、秀吉とねねの木像が祀られ、ねね自身もこの場所に葬られています。
庫裡
山号・寺号 | 鷲峰山(じゅぶさん)高台寺(臨済宗建仁寺派) |
---|---|
住所 | 京都市東山区高台寺下河原町526番地 |
電話 | 075-561-9966 |
アクセス |
市バス 206,207系統「東山安井」下車徒歩7分 京阪電車「祇園四条」から徒歩約15分 阪急電車「京都河原町」から徒歩約17分 |
拝観時間 | 9:00-17:30(受付終了 17:30) ライトアップ期間は拝観時間延長 |
拝観料 | 大人600円・中/高校生 250円 小学生 保護者同伴で無料(5名につき1名以上) 団体30名以上で500円 高台寺・圓徳院・掌美術館の共通拝観券:900円 障害者手帳の提示で本人と同伴の方1名無料) |
公式サイト | http://www.kodaiji.com/index.html |
秀吉の正室・北政所の素顔を伝える高台寺
豊臣秀吉の正室、北政所の名前については「おね」や「ねい」や「ねね」など様々な呼び名で表されます。ある書状には北政所の自筆で「禰」と書かれ、秀吉の書状には「おね」と書かれたものがあります。それなら秀吉が声に出して呼ぶときは多分「ねい」とか「おねぃ」とかそんな感じだったかも知れませんが、ここでは高台寺にならって「ねね」で通します。
高台寺は秀吉の没後にねねが過ごした禅寺で、境内は楚々として女性らしい品格が漂い、桜や紅葉のライトアップ、お茶会などの催しも多く、たくさんの人で賑わいます。禅宗寺院なので坐禅や茶道の体験機会も提供されています。
慶長11年(1606)当時、徳川家康の援助を得て建立された高台寺は、約9万6千坪という広大な敷地をもっていました。仏殿、唐門、方丈、書院が建ち並び、伏見城からは霊屋、開山堂、化粧御殿、傘亭、時雨亭なども移築され、桃山文化の粋が集められた豪華絢爛な境内だったといわれています。ねねを慕って多くの人が訪ねたそうです。
ねねは14歳で秀吉と結婚しました。のちに猿とか禿ネズミとかよばれる容姿の冴えない百姓出身の秀吉と恋愛で結ばれたそうです。秀吉は天文5年(1536)に尾張中村の百姓の家に生まれたといわれています。一方、ねねは天文17年(1548)に織田信長に仕える足軽・杉原定利と妻朝日の間に生まれました。
この結婚に、ねねの実母である朝日が大反対して認めなかったため、ねねは浅野家の養女になったうえで秀吉の妻になりました。養父は浅野長勝、養母は朝日の妹である七曲です。祝言は浅野家の長屋の板の間に、藁のむしろを敷いてささやかに行われたと伝えられています。秀吉は後年まで「われら夫婦の舅、姑は浅野夫妻だ」と言っていたそうです。結婚当初、ねねは、夫、秀吉が天下人になるとは夢にも思っていなかったでしょう。けれども2人には器がありました。
武士になるといって信長の草履取りから始めたといわれる秀吉は出世街道をひた走りました。秀吉とねねの間には子どもができませんでしたが、元来明るく気取りのないねねは、秀吉の臣下や周囲の人の面倒をよくみて「まんかかさま」と母のように慕われたといいます。女好き、派手好きな秀吉が妾をもち、心中穏やかでないねねに対して、信長は、「あなた以上のひとはない」と励ます手紙を送っていたこともあったそうです。
戦国の世、戦にばかり出かける秀吉の留守を、ねねは城を守って支えていました。秀吉が天下を取ってからも、ねねは城を守り、人質を含む養子養女の面倒を見るほか、朝廷との交渉事を一手に担うなどして外交にも務めています。天正16年(1588)には、朝廷から破格の従一位を授けられ、ルイス・フロイスも『日本史』でねねのことを「大変な人格者」と記しました。天正18年(1590)の小田原攻めのとき、秀吉はねねに「出かけるとき顔色が悪かったが大丈夫か。戦のことよりお前の体のことが心配だ」という内容の手紙を送ったといいます。意外…。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉が63歳で亡くなると、まもなく秀吉の遺命で阿弥陀ヶ峰の中腹に遺骸が埋葬されました。ねねは当初、秀吉の側室で秀頼の母である淀殿と協力し、秀頼の後見にあたったといわれています。9月からは前田玄以の指揮で秀吉を祀る豊国神社の建設が始まり、翌慶長4年(1599)4月には正遷宮祭が行われ、秀吉は神になりました。同月16日には、後陽成天皇から「豊国大明神」の神号を贈られ、19日に正一位の神階が贈られたといわれています。
同じ年、ねねは大阪城を出て京都東洞院出水(ひがしのとういんでみず)の三本木に移ります。現在の仙洞御所にあたるこの辺りには太閤御殿(京都新城跡)があり、生母、朝日の菩提を弔う康徳寺を建てたねねは、豊国社と康徳寺に参拝する日々を送っていたようです。その翌年、関ケ原の戦いで西軍が敗れましたが、ねねは西軍についた大名の処遇をとりなす内容の書状を家康に送っており、それはねねの没後に発見されています。ねねはどんな形であれ豊臣家とその家臣たちの家の存続を強く願っていたらしいのです。
慶長8年(1603)、養母の浅野七曲が亡くなり、秀頼と千姫の結婚という出来事も見届けたあと、ねねは落飾し、後陽成天皇から高台院の院号を賜ります。秀吉の眠る豊国神社の近くに、養父母である浅野長政・七曲の菩提と、木下家の菩提を弔うため、そして自らの終の棲家とするための寺を建立する決心をしたとされています。
これに対し家康は惜しみなく援助します。創建を担当したのは秀吉子飼いの福島正則、加藤清正、浅野長政でしたが、家康は普請の御用掛に重臣である酒井忠世と土井利勝、普請奉行に板倉勝重、普請掛に堀監物を任命しました。高台寺建立は徳川幕府の公認事業であることを世に知らしめる目的があったといわれています。家康は、1万7千石の所領を自由に使える化粧料としてねねに与えており、そのころのねねと家康の関係は良好でした。また、ねねの政治力は未だ大きく、家康にとって、豊臣の復活を願う諸大名の動きを掌握し、牽制する意味もあったと考えられています。
ねねは秀吉との思い出の品をすべて大阪城から運び出していたといわれています。伏見城からも多くの建物が移築されました。秀吉の霊を弔い、秀吉との思い出に生きる穏やかな余生かと思われましたが、慶長20年(1615)の大坂の陣で豊臣家が滅びると事態は一変します。豊臣家の影を徹底的に払拭する家康は、豊国社の破却を命じました。このときねねは「修復はしないので取り壊すのはやめてほしい」と嘆願したため、社頭のみが壊され、社殿は朽ちるまで放置されることになりました。
しかし家康の死後は、神宮寺も社殿も没収され、妙法院の管理下に置かれます。ねねは豊国神社に納めていた秀吉の唐装束を返してほしいと妙法院に願い出ましたが、叶わなかったといいます。秀吉の霊は阿弥陀ヶ峰に取り残され、ねねでさえ参拝することも許されなくなりました。その後、ねねは苦悩のうちに病気で床に臥せることが多くなり、寛永元年(1624)76歳でこの世を去っています。
ねねの晩年が偲ばれる境内と伽藍
現在の高台寺の境内には、創建当時から残る建物として、表門、霊屋、開山堂、観月台、傘亭、時雨亭があります。書院から開山堂にかけて廊橋が架かり、真ん中に観月台が設けられています。また、開山堂から霊屋までは臥龍廊でつながれ、開山堂を挟むように偃月池(えんげつち)と臥龍池(がりょうち)の2つの池が配されて池泉回遊式庭園になっています。庭園は小堀遠州の作庭と伝えられています。
霊屋は高台寺のもっとも重要な建物で、慶長10年(1605)の建立。宝形造り、檜皮葺の屋根をもち、正面に唐破風のついた向拝が設けられています。内陣には高台寺蒔絵を施した須弥壇があり、中央の厨子には本尊の大隋求(だいずいぐ)菩薩坐像、右の逗子には秀吉坐像、左の逗子には高台院坐像が祀られます。さらに高台院坐像の下には高台院の棺が納められ、ねねが眠っています。
桃山時代作の本尊の大隋求菩薩坐像(秘仏)は、全長5.2cm、脇侍の毘沙門天立像と吉祥天立像は4cmと、とても小さいそうです。秀吉は戦に赴くときは必ずこのコンパクトな念持仏を持って行ったといわれています。
また、須弥壇は、黒漆地に秋草や「楽器尽くし」とよばれる笙(しょう)や篳篥(ひちりき)が描かれた高台寺蒔絵で彩られています。高台寺蒔絵は漆や金粉を平滑に仕上げる「平蒔絵」で、繊細かつ豪華な文様が施され、家具や食器、化粧道具、文具などに施されました。高台寺蒔絵は原価が安く、実用的な技術といわれています。
開山堂は、もとはねねの養父母の菩提を弔うために建てられた持仏堂で、現在は中興開祖の三江紹益(さんこうじょうえき)像と、ねねの兄である木下家定とその妻、そして高台寺建立に尽力した堀監物の木像が祀られています。外陣の格子天井には、秀吉が使用した御座船の天井が、また、中央天井にはねねの御所車の天井がはめ込まれており、狩野山楽作と伝わる龍図も描かれています。
高台寺は創建当初は曹洞宗の禅寺でしたが、あまりに目まぐるしく住職が交代したため、ねねは晩年、高台寺を託せる僧を迎えたいと願っていました。そこで兄、木下定家の親友であり、建仁寺塔頭の住職であった三江紹益に任せようとしましたが、それには寺の臨済宗へ転宗が必要でした。幕府は南禅寺派の寺院への転宗を指示しますが、2年間の交渉の末、建仁寺派の三江紹益が住職に決まります。三江和尚が高台寺に晋山して3日後にねねは亡くなったといわれています。
山手に上がると傘亭と時雨亭の2つの茶室が高土間廊下でつながって向かい合うように建っています。傘亭は天井に竹の垂木が放射状に広がるように組まれていることからそう呼ばれています。時雨亭は入母屋造2階建てで、茶室は2階にあるので、ねねや客人は京都の町を眺めながらの茶会を楽しんだことでしょう。茶の湯は秀吉とねねの共通の趣味でした。ねねは公家や大名たちを招いて頻繁に茶会を開いていたそうです。
ところで先にも述べましたが高台寺はもともと秀吉の菩提を弔うために建てられた寺ではありませんでした。『高台寺誌稿』には「太閤のために一寺を建立し」と書かれていますが、それが言われだしたのは明治になってからのことのようです。豊国廟の社僧、梵舜による『梵舜日記』や江戸時代の高台寺の由緒書や当時の刊行物によれば、「北政所の菩提のため也」とか「浅野氏その父母及び一族木下氏の菩提を弔わんが為」などの由緒が記されています。
高台寺創建時、すでに秀吉は神になっていました。ねねは、高台寺の寺地を決める際、秀吉の眠る豊国社に近いことが条件だったため、裁判までしてこの土地を手に入れたといわれています。ところが神社は没収され、ねねは参拝することも叶わなくなりました。しかし期せずして、ねねの没後に願いは届いたようです。霊屋には秀吉とねねの像が仲良く祀られ、供養されています。