勝林院
(しょうりんいん)三千院の門前を北へ、律川を越えたところに建つ勝林院は、長和2年(1013)に寂源(じゃくげん)によって建立されました。来迎院と並ぶ声明の道場であったといわれています。文治2年(1186)に天台宗の顕真(けんしん)が法然を招いて行った「大原問答」が有名で、問答寺とも呼ばれています。
本堂
山号・寺号 | 魚山 勝林院(天台宗) |
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住所 | 京都市左京区大原勝林院町187 |
電話 | 075-744-2409(宝泉院) 075-744-2537(実光院) |
アクセス | 京都バス 京都駅から17,19系統で「大原」下車徒歩10分 地下鉄「国際会館」から京都バス19系統で「大原」下車徒歩10分 京阪電車「出町柳」から京都バス19,17系統「大原」下車徒歩10分 叡山電車「八瀬比叡山口」から京都バス「八瀬駅前」116,19系統で「大原」下車徒歩10分 |
拝観時間 | 9:00~16:30 |
拝観料 | 一般 300円 小中学生 200円 |
公式サイト | https://www.shourinin.com/ |
大原問答の「証拠の阿弥陀如来」が祀られる寺
勝林院のリーフレットには、魚山大原寺勝林院(ぎょざん だいげんじ しょうりんいん)と書かれています。円仁が唐で学んだ声明を比叡山に伝え、大原を天台声明の道場と定めて大原寺と総称したと伝えられています。いつだったかテレビで勝林院の方が「ここが魚山声明の発祥の地です」と言われていたのを思い出しました。
寺伝によれば、長和2年(1013)、円仁から数えて9代目の弟子にあたる寂源(じゃくげん)が声明念仏三昧道場として勝林院を建立したとされています。 寂源は、宇多源氏出身、左大臣であった源雅信(みなもとのまさざね)の子、源時叙(みなもとのときのぶ)です。兄に藤原時通(ふじわらのときみち)がいて、姉に藤原道長の正室、倫子(りんし)がいました。兄の時通に続いて、永延元年(987)、時叙が19歳で近衛少将の地位を捨て、比叡山で出家。大原に隠棲してからは大原入道少将とも呼ばれました。父雅信は「帰りたまへ、帰りたまへ」と嘆いたと伝えられています(『栄華物語』)。
寂源は比叡山で顕密を学び、永祚2年(990)に覚忍(かくにん)から両部潅頂を受け、のちに皇慶の弟子となり、寛弘9年(1012)に胎蔵界・金剛界潅頂を受けましたが、その翌年に大原に隠棲しています。なお、覚忍は円仁が相伝した声明のうち「長音九条錫杖」を浄蔵から継いでおり、寂源も覚忍から声明を学んだ可能性があるとも考えられています。
大原に籠った寂源ですが、隠棲3年後の長和5年(1016)に、母(藤原穆子・ふじわらのぼくし)の病を見舞いに京へ下って枕元で念仏を称えています。また寛仁4年(1020)には、藤原道長が大原の寂源を訪ねて講説を聞いたこともあり、万寿元年(1024)2月には藤原道長と頼道が、腫物を患った寂源のもとに見舞いに訪れたことが『小右記』に記されています。その同じ月に寂源は入滅しました。
それから80年余り経ち、良忍(りょうにん)が比叡山を下ってまず入ったのが勝林院の永縁(ようえん)の室でした。その後、良忍は上院本坊として来迎院を建て、永縁は勝林院を下院本坊として、ともに魚山声明を発展させました。そのため良忍は本願、永縁は本家とも呼ばれます。
勝林院は度重なる火災や洪水により何度も再建・修復されています。現在の本堂は安永7年(1778)に再建されたもので、大きな屋根は椹(さわら)板で葺かれ、柱や梁、床板などはすべて欅(けやき)造りの堂々とした美しいお堂です。軒下を見上げると、欄間や手挟(たばさみ)に華やかで精緻な彫刻が施されています。
本堂の内陣には本尊の阿弥陀如来坐像が安置されています。旧本尊は仏師定朝の父といわれる康尚(こうしょう)の作であったといわれています。その後、旧本尊は被災するたびに補修されましたが、享保21年(1736)に焼失し、翌年の元文2年(1737)に現在の阿弥陀如来坐像が開眼供養されました。キリッとした面持ちは、橋幸夫さんか中井貴一さんに似ていらっしゃると思いました…。
勝林院の本尊は「証拠の阿弥陀如来」と呼ばれています。そのわけは法然と諸宗の高僧が論議した「大原問答」にあります。またそれ以前にすでに本尊は「証拠の阿弥陀」とよばれていたという記録もあります。寛仁4年(1020)に寂源が法華八講を行ったときの問答で、本尊が自らの意を示したといわれているのです。一方、法然の大原問答は、法然自身を一躍有名にした一大イベントでした。法然は、阿弥陀如来の本願を信じて「南無阿弥陀仏」と称えれば誰でも浄土に往生できると説いた浄土宗の宗祖です。
大原問答の発起人である天台宗の顕真(けんしん)は、比叡山で最雲法親王に師事し、明雲に顕教を、相実に密教を学びましたが、承安3年(1173)に大原に隠棲しました。そのころ世の中は荒れ続け、平氏の専横や、山門の強訴や、続いて源平の合戦や、平氏の滅亡や、大地震や、飢饉などが起きていました。顕真の師であった天台座主の明雲は、寿永2年(1183)に木曽義仲の軍が法住寺殿を攻めたとき、その矢に当たって絶命しています。慈円の『愚管抄』には「明雲ガ頸ハ 西洞院河ニテ求メ出テ 顕真トリテケリ」とあり、顕真が師の明雲の首を取りにいったことが記されています。
大原に入っても迷いの途にあった顕真は、坂本で法然に会い、生死(悩み・迷い)を離れるにはどうしたらよいか尋ねたところ、「まず極楽浄土に往生することです。成仏は難しいが往生は易しい」などと言われ、自ら籠居して法然が拠り所とした道綽(どうしゃく)や善導の著述を研究するのですが、納得できなかったようです。そこで文治2年(1186)、顕真は法然を招いて浄土の宗義について論議を交わすことにしました。これが大原問答(大原談義)です。
顕真の主催で、天台宗の証真、智海、高野山の明遍(みょうへん)、笠置寺の貞慶(じょうけい)、東大寺の重源(ちょうげん)ら学僧たちが勝林院に集まり、法然に難問を投げかけました。このとき300人ほどの聴衆が集まったといわれています。
寺伝によれば、激しい問答が一昼夜つづき、法然はひとつひとつの問に答えて阿弥陀仏の本願を説いたとされています。そして「仏の願力を強縁として、称名念仏により、有知無知を論せず、人間ありのままの姿で迷いのままに往生できる」と凡夫往生の道をはっきり示したとき、本尊の阿弥陀仏がまばゆい光を放ってその主張が正しいことを証明したといわれています。そのとき諸宗の僧や大衆はみな信服して、三日三晩念仏を称え続けたとも…。
のちに法然は大原問答を回想して「法門は互角で優劣はなかったが、(どちらの教法が今の我々に相応しいかという)機根くらべでは私が勝ったと思う」と述べたとされています(『法然上人行状絵図』)。法然はつねづね専修念仏は易行であり、末法の世とそこに生きる人々にとって相応しい教えであることを説いていました。そしてその教えは経典の読誦も出来ず、聖道門の救いが叶わない庶民層に特に受け容れられていったようです。
大原問答に参加した高僧のその後はというと、顕真は、真言をやめて一時は念仏の一門に入りましたが、建久元年(1190)に天台座主に就任し、その2年後に入滅しています。重源は、再建途中であった東大寺の復興を継続し、完遂しています。造東大寺大勧進職にあった重源はもともと真言僧ですが、念仏に傾倒したこともよく知られています。自ら南無阿弥陀仏と号し、人々に阿弥号を付して勧進していました。また明遍は、高野山に蓮華三昧院を建てて隠遁し、専修念仏に帰依したと伝えられています。一方、明遍の甥の貞慶は、元久2年(1205)に『興福寺奏状』を起草し、専修念仏の停止を朝廷に訴えました。