赤山禅院
(せきざんぜんいん)延暦寺の塔頭・赤山禅院には、円仁が唐へ留学中に本願達成を願ったという赤山明神が祀られています。京都の表鬼門にあたるこの地で赤山の神は京都を守護してきました。また、赤山禅院は比叡山の千日回峰行の巡礼地でもあります。
鳥居
寺号 | 赤山禅院(天台宗) |
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住所 | 京都市左京区修学院開根坊町18 |
電話 | 075-701-5181 |
アクセス | 修学院離宮のすぐ北。 市バス 5,31,65系統「修学院離宮道」下車 徒歩約20分 北8系統「修学院道」下車 徒歩約15分 叡山電鉄 「修学院」下車、徒歩約20分 |
拝観時間 | 9:00~16:30 |
拝観料 | 無料 境内自由 |
公式サイト | https://rakuhoku-sekizanzenin.org/ |
円仁(えんにん)の唐留学と赤山明神
慈覚大師の諡号で知られる円仁は、延暦13年(794)に下野国(しもつけのくに)の豪族壬生氏に生まれ、15歳で比叡山に上り最澄に師事しました。承和5年(838)、45歳のとき遣唐使として入唐、9年6ヵ月の滞在を経て54歳で帰国しています。のちに第3代天台座主になりました。
円仁ゆかりの寺は全国に700近くを数え、特に東国、東北に多くの寺院が開かれています。天台宗と東国の関わりは、平安初期に下野国や上野国(こうずけのくに)、武蔵国などで仏教を広めていた鑑真の高弟、道忠(どうちゅう)が最澄と親交をもち、写経事業に協力したことに始まるといわれています。
第2代天台座主になった円澄(えんちょう)は道忠の弟子であり、円澄を最澄のもとで学ばせたのは道忠でした。また、円仁や第4代天台座主の安慧(あんね)も下野国の大慈寺で道忠の弟子であった広智(こうち)に師事していた縁があり、広智が円仁や安慧らを比叡山に上らせ天台教学を学ばせたといわれています。円仁は修学中も師の最澄に随い、たびたび東国各地を布教していました。
唐から帰国後の円仁は天台密教を確立し、再び東国へも巡礼して天台宗の布教に努め、寺院を開いたりもしています。円仁はやり残した赤山禅院の建立を遺命として弟子に託し、71歳でこの世を去りました。円仁と赤山明神の縁は入唐時代に遡ります。
承和5年(838)、円仁は遣唐使で請益僧(しょうえきそう)として入唐しています。請益僧は師を尋ねて疑問を解くことを目的とする短期入唐僧をいいます。最澄亡きあと、天台密教は真言密教に遅れをとりその権威が危ぶまれていました。円密(円教・密教)一致の教理の根拠を本家である中国の天台山で学ぶ必要があったようです。
円仁たち遣唐使の一行は2度の渡航に失敗し、3度目にやっとのことで揚州江の河口にある東梁豊村に上陸しました。船はほぼ全壊だったそうです。しかし、いわゆる短期留学ビザのようなもので入唐した円仁に、目的の天台山への旅行許可は出ず、帰国を余儀なくされることになります。そこで円仁は一行と別れて不法滞在を決心しました。
円仁の強い思いが運と縁を引き寄せたのでしょうか。円仁に遊学への道を開いたのは、山東半島を拠点に東アジアにおける海上交通の覇権を握っていた張保皐(ちょうほこう・張宝高)配下の在唐新羅人たちの援助でした。
円仁は彼らの助けを借りて唐に残留し、張保皐が建てた赤山法花院(せきざんほっけいん)に入ります。そしてそこで出会った新羅僧の聖琳(しょうりん)から五台山での天台修行のようすを聞き、五台山の巡礼に切り替えて赤山法花院を出発しました。その際、円仁は、赤山の神に本願の達成を祈願し、無事帰国の折には禅院を建立し、赤山明神を祀ることを誓ったといわれています。
五台山巡礼の後、円仁は長安を目指し、念願の金剛界潅頂・胎蔵界潅頂を受け、両部曼荼羅も完成させました。そのころ唐は、皇帝武宗によって「会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)」とよばれる仏教弾圧が行われており、復路も災難つづきでしたが、このときも円仁は新羅人たちを頼り、約10年ぶりに何とか帰国しました。
円仁は入唐から帰国までの出来事を『入唐求法巡礼行記』に著しています。これはマルコポーロの『東方見聞録』、玄弉三蔵(げんじょうさんぞう)の『西遊記』とともに世界三大旅行記のひとつに数えられています。その割に知名度が低いですが、淡々と簡潔に綴られているなかに円仁の心情を見ることができて興味深い旅行記です。それによれば、唐に到着寸前の難破のようすは壮絶で、遣唐使メンバーは嵐のなか皆涙して祈っていました。命からがらたどり着いてからも、赤痢などの病にかかって次々と乗組員が亡くなっていきました。
また不吉の兆しとみたのか、彗星を見た日がたびたび記録されています。夢の記述などもたくさんあります。現地で砂金を両替したことや、途中、尼僧と巡礼をともにしたり、天台山への勅が出ずにイライラした様子、天台山への許可が出た別の留学僧、円載(えんさい)に疑問集を託したこと、五台山の自然の美しさに感動したこと。復路では、仏教弾圧により還俗させられ俗衣で長安を出たこと、またその道中に次々に困難に遭遇したことなど、当時の唐のようすが目に浮かんできます。
そこには赤山明神との関わりは記されていませんが、赤山院や張宝高の関係者らとの縁が、円仁の巡礼を大きく左右したことは円仁自身が強く感じていたのでしょう。円仁は帰国の途でも赤山明神に無事を祈ったと伝えられています。
京都の表鬼門を守護する赤山明神
赤山禅院の鳥居をくぐり、楓に覆われた参道の坂道を上っていくと境内への石段が現れます。秋はもみじの名所でもあります。
安慧(あんね)ら円仁の弟子たちは、「入唐求法の目的を果たすことができたのは赤山の神の加護によるものだから赤山明神を祀る禅院を建立せよ」、という円仁の遺命に従います。大納言南淵年名(みなみぶちとしな)の旧山荘がその地に選ばれ、仁和4年(888)に赤山禅院が創建されたといわれています。
赤山明神が勧請された境内は、鳥居も狛犬も配される明神社造りになっています。禅院といっても神社のようです。赤山明神は、唐の泰山府君(たいざんふくん)と同じ神といわれています。泰山府君は中国五岳の東岳泰山の神で、命、寿命、福徳を司り、閻魔に準じる冥界の神とされています。
寺伝によれば、円仁が唐からの帰途、嵐の中を航海中に、船のへさきに赤い衣を着て白羽の矢を負った赤山明神(泰山府君)が現れて、一行を救ったといわれています。また安倍晴明も「泰山府君の法」を用いて瀕死の者を救う話が『宇治拾遺物語』などに語られます。ひとの寿命にかかわる泰山府君は、新羅では赤山明神、日本では天台密教や陰陽道、地蔵信仰などに結びついています。
こうして赤山禅院は、日吉山王と並び、天台宗の守護神として尊崇されました。また、赤山禅院の建つ修学院の地は、御所(皇城)の北東で表鬼門に当たるため、皇城を守護する神としても篤く崇敬されてきました。陰陽道では北東や南西は鬼が出入りする方位と考えられていたのです。
赤山禅院の拝殿の屋根には鬼門除けの猿が置かれています。十二支の申(さる)は方位盤では鬼門の正反対の西南西に位置するので、鬼門の邪気を相克させて追い払うそうです。金網に閉じ込められているのは、猿が夜な夜な逃げ出して悪さをするからだといわれています。
赤山明神は泰山府君といわれる一方、福禄寿の神さまでもあり、境内の福禄寿殿では七福神の福禄寿神としても祀られています。お堂前の案内には「赤山大明神さまは、天に在っては輔星・福禄寿神様ですが、地上に降りては泰山府君様、つまり占いの大本の神様でありまして、森羅万象・万物の命運を司っておられるのでございます」と書かれています。赤山禅院の福禄寿神は都七福神のひとつに数えられ、商売繁盛・延寿・健康・除災のご利益があるといわれて庶民に篤く信仰されてきました。
商売繁盛といえば、赤山禅院は五十払い(ごとばらい)が始まったところといわれています。関西の商家では五十日(ごとび)に決済をするのが今でも割と一般的で、5日、10日、15日、20日、25日、月末はいわゆる決済・集金の日と認識されています。赤山禅院では一年のうちに巡ってくる「申の日」の五日に五日講が行われており、この日にお詣りをすると集金が滞らないと評判になり、江戸時代から「五十払い」の風習ができたと伝えられています。
そんな赤山禅院は、比叡山の千日回峰行の巡礼地でもあります。千日回峰行は7年かけて行われる荒行で、6年めと7年めは赤山禅院への巡礼を含む1日60キロをめぐる苦行となっています。昭和35年(1960)に千日回峰行を満行されたのが「赤山の御前さま」とよばれた叡南覚照(えなみかくしょう)大行満大阿闍梨で、平成30年4月9日に91歳で遷化されました。合掌。
境内を順路に沿って参拝すると大きな数珠を2度くぐることになります。本殿前の正念誦(しょうねんじゅ)と拝殿横の還念珠(かんねんじゅ)のことです。正念誦は最も重要とされる密教の修法で、種々の邪念を取り払い、「我とご本尊は一体なり」と観想しながら数珠を繰り、真言を念誦することで真の心眼がひらかれるといわれています。なんだか難しそうですが、具体的には、これをくぐって参拝する間、願い事を念じ続けていればいいそうです。
一方の還念珠とは、数珠を仏のように敬い、正念誦で願った本願の功徳を衆生にふり向け、自他ともに仏となることを願うもののようです。赤山禅院では毎年11月23日に数珠供養が修されます。また、毎年中秋の名月の日には、ぜんそく封じの秘法とされる「へちま加持」も行われます。