京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。
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寂光院

(じゃっこういん)

寂光院は、平清盛の娘、建礼門院徳子が晩年隠棲したことで知られる尼寺で、『平家物語』大原御幸の舞台でもあります。平成12年の放火事件により焼失した本堂は5年をかけて元通りに復旧されました。その際、焼けた六万体地蔵菩薩立像の胎内から三千体を超える小さな地蔵菩薩が出て、その一部が宝物館に展示されています。

建礼門院ゆかりの寂光院(晩秋)晩秋の寂光院

INFORMATION
山号・寺号 清香山 寂光院(天台宗)
住所 京都市左京区大原草生町676
電話 075-744-3341
アクセス 京都バス
京都駅から17,18系統で「大原」下車徒歩15分
四条河原町から16系統で「大原」下車徒歩15分
地下鉄「国際会館」から19系統で「大原」下車徒歩15分
京阪電車「出町柳」から京都バス10,16,17系統「大原」下車
叡山電車「八瀬比叡山口」から19系統で「大原」下車
拝観時間 3月~11月:9:00-17:00 12月-2月:9:00-16:30
1月1~3日:10:00-16:00
拝観料 大人・高校生600円 中学生350円 小学生100円
中高生30名以上で団体割引あり
公式サイト http://www.jakkoin.jp/
※↑2023年2月更新。

『平家物語』潅頂巻で知られる建礼門院徳子ゆかりの尼寺

国道367号線の大原バス停から西へ、農村風景の広がる大原の里から草生川に沿って遡っていくと山裾に寂光院が建っています。寂光院はこじんまりとした尼寺です。寺伝によれば、推古天皇2年(594)に聖徳太子が父の用明天皇の菩提を弔うために自作の地蔵菩薩像を安置して創建したと伝えられています。また別に、空海を開祖とする説や、承徳年間(1097-99)に良忍が建てたという説もあるようです。

いずれにしてもこの尼寺が広く世間に知られるようになったのは、平安時代末期に建礼門院徳子がこの寺に閑居してからのようで、そのようすは『平家物語』によって後の世に語り継がれました。

平清盛の娘、建礼門院徳子は高倉天皇の中宮となり、言仁(ときひと)親王が生まれました。高倉天皇の父は後白河法皇、母は平慈子(たいらのしげこ・建春門院)で、慈子は徳子の母時子(二位尼・にいのあま)の異母妹にあたります。言仁親王は3歳で即位して安徳天皇となり、徳子は国母となりました。そのころ平氏は全盛を誇り、徳子の人生で最も栄華を極めた時期でした。

しかしやがて清盛と後白河法皇は激しく敵対します。その後、源平の争乱が起き、高倉上皇が21歳で崩御、続いて清盛も没したのち、平氏一門は幼い安徳天皇を擁して西へ落ち延びました。寿永4年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平氏が源氏に滅ぼされ、二位尼と当時6歳の安徳天皇が入水しています。徳子も入水しますが、源氏の兵に海中から引き揚げられました。徳子は都に送られてまもなく長楽寺で出家、滅亡した平氏一門と安徳天皇の菩提を弔うために隠棲したのが寂光院でした。このとき徳子は31歳だったといわれています。

『平家物語』潅頂巻(かんじょうのまき)は物語を締めくくる最終巻で、そこでは徳子の哀れな晩年が描かれています。なかでも「大原御幸」は、寂光院に籠る徳子を後白河法皇が訪ねて対面する有名な場面です。

そのあらすじは、落飾した徳子が大原に移った翌年(文治2年・1186)の春のころ、後白河法皇はお伴をつけてお忍びで大原を訪れるところから始まります。一行が人里離れた奥山の麓の古びたお堂にたどり着くと、法皇は夏草の茂る庭に分け入り、池の中島の松にかかる藤や、遅咲きの桜や、山吹が咲き乱れるさまを見て、「池水に 汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛りなりけれ」と詠みました。

法皇は「どなたかおられるか」と訊ねるが返事はありません。しばらくすると老尼が現れたので、「建礼門院はどこへ」と聞くと老尼は「この上の山へ花摘みに」と答えます。粗末な衣をまとった老尼は阿波内侍(あわのないし)でした。阿波内侍は『平家物語』語り本系では信西(藤原通憲)の娘、読み本系では信西の子の貞憲の娘として登場し、寂光院で徳子が亡くなるまで仕えたとされています。

法皇が徳子の庵室を見ると、そこには来迎の三尊である阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が祀られていて、普賢菩薩の絵像や、善導和尚、安徳天皇の肖像画がかけられていました。また法華経8巻や御書九帖も置かれています。障子には諸経の大事な教えなどが書かれた色紙が貼られ、徳子が詠んだと思われる次の一首も書かれていました。「おもひきや 深山の奥にすまひして 雲井の月を よそに見んとは」。

そうこうするうちに、墨染めの衣を着た2人の尼僧が花籠や薪をもって山から下りてきました。徳子と、もう1人の尼は安徳天皇の乳母の大納言典侍(だいなごんのすけ)でした。法皇の突然の御幸に、徳子は戸惑いつつも涙をこらえて対面を果たし、国母として栄耀栄華を極めた時代から、都落ち、戦乱の修羅場、わが子安徳天皇を喪った哀しみなどを語りました。

後白河法皇の大原御幸が本当にあったのかはわかりません。そもそもお忍びということなので。ただ、『平家物語』に先行して成立したとみられる鎌倉初期の説話集『閑居友(かんきょのとも)』にも同じような内容が記されていて、徳子の庵室のようすなどは『平家物語』の作者がこれを見て書いたのかと思えるほど酷似しています。『閑居友』の作者とみられる慶政上人(けいせいしょうにん)は九条良経の子で、『平家物語』の作者と有力視される信濃行長は、九条兼実の邸に家司として仕えた中山行隆の子といわれているので、もしかすると両者に何らかの接点があったのかもしれません。

大原御幸で後白河法皇との対面があったとすれば、徳子にとってそれは苦しく残酷な出来事です。けれども仏道に入った徳子には受け容れるべき因果のひとつと思えたかもしれません。

「大原御幸」の後、徳子が余生をどう過ごし、いつ亡くなったかについては不詳で、没年は建久2年(1191)2月とも、建保元年(1213)12月ともいわれ、かなりの開きがあります。寂光院を出てすぐ東の坂を上ったところに五輪塔の建つ大原西陵があり、徳子の陵墓とされています。

その後、寂光院は荒廃と再興を繰り返し、慶長4年(1599)に豊臣秀頼の母、淀殿の寄進により本堂などが再建されました。江戸時代になると、旅行や行楽が一般的となり、当時のガイドブックである『都名所図会』やさまざまな地誌にも建礼門院ゆかりの寺として紹介され、大原草生の里にも旅人が訪れるようになります。

平成12年(2000)5月9日、寂光院は放火により桃山時代の風情ある本堂をはじめ、本尊の地蔵菩薩立像、建礼門院像、阿波内侍像などが焼けてしまいました。鎌倉時代に造られたという本尊の木造六万体地蔵菩薩立像は損傷が激しく、修理された後は収蔵庫に安置されているそうです。一方、その本尊の胎内に収められていた願文や経文と、3,000体を超える小さな地蔵菩薩はなんとか無事でした。旧本尊は特別公開のときに拝観の機会があるようです。また本尊の胎内から出た地蔵菩薩などは境内の宝物館で常時拝観できます。

現在の本堂は、放火事件から5年をかけて再建、平成17年(2005)に完成したものです。像高255.5cmの地蔵菩薩立像と、建礼門院坐像、阿波内侍坐像も新たに造像され、本堂に安置されています。本堂前には後白河法皇が一首詠んだという「汀の池」と「汀の桜」があり、本堂東側には「四方正面の池」が配され、どこから見ても正面となるように池の周囲が作庭されています。本堂西側を奥に行くと建礼門院の庵室跡があります。

京都 寂光院の山門
山門
京都 寂光院の真新しい本堂
真新しい本堂
京都 寂光院の茶室・孤雲
茶室・孤雲
京都 寂光院の書院
書院
京都 寂光院の書院から本堂への歩廊
書院から本堂への歩廊
京都 寂光院境内の雪見灯篭
雪見灯篭
豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝わる。
京都 寂光院の汀の池
汀の池
京都 寂光院の千年姫小松
千年姫小松
樹齢千年を超える松。火事で被災したが、神木として祀られている。
京都 寂光院境内に建つ諸行無常の鐘楼
諸行無常の鐘楼
京都 寂光院の四方正面の池
四方正面の池
池は背後の山から3段の滝をつくり水を引いている。
京都 寂光院、四方正面の池の奥に佇む観音様
池の奥に佇む観音様
京都 寂光院の宝物殿・鳳智松殿
宝物殿「鳳智松殿(ほうちしょうでん)」
京都 寂光院境内の建礼門院の庵室跡
建礼門院の庵室跡
京都 寂光院境内の収蔵庫 寂智殿
収蔵庫 寂智殿
関連メモ&周辺

朧(おぼろ)の清水の泉

朧の清水の泉
寂光院にほど近い小路の脇に、建礼門院ゆかりの泉が湧き出ている。徳子がおぼろ月夜に水面に映る自身のやつれた姿を見て、悲運な身の上を嘆いたといわれる。

大原西陵
建礼門院の墓所

京都 寂光院に隣接する大原西陵・建礼門院の墓所
寂光院の入り口手前(東側)の石段を上ると宮内庁管轄の大原西陵がある。建礼門院の墓所と伝えられ、ささやかな五輪塔が祀られている。三千院の北(勝林院の南)にある後鳥羽・順徳天皇の大原陵に対して大原西陵とよばれる。

阿波内侍の墓

京都 寂光院の近くの阿波内侍の墓へ通じる橋 阿波内侍の墓へ苔むした石段を登る 阿波内侍の墓
寂光院からさらに少し西へ、草生川を隔てたところの石段を上がると、4基の五輪塔と1基の宝篋印塔がひっそりと祀られている。阿波内侍をはじめ、建礼門院に仕えた大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね)、治部卿局(じぶきょうのつぼね)、右京大夫(うきょうのだいぶ)、小侍従局(こじじゅうのつぼね)の墓と伝えられている。

主な参考資料(著者敬称略):

『新版古寺巡礼 京都 寂光院』淡交社 /『新編日本古典文学全集46 平家物語2』市古貞次 小学館 /『閑居友』永井義憲・筑土曙生/編 古典文庫 /『日本歴史シリーズ5 源平の盛衰』世界文化社 /『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』森浩一 学生社 /

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