高山寺
(こうさんじ・こうざんじ)高雄から清滝川に沿って北上すると栂尾(とがのお)の地に高山寺が建っています。高山寺は文化財の宝庫といわれ、日本最古の漫画といわれる『鳥獣人物戯画』のほか多くの国宝や重要文化財が伝えられています。また、高山寺を中興した明恵(みょうえ)上人は、徹底して自己の「あるべきようわ」に生きた僧侶です。
石水院の蟇股
山号・寺号 | 栂尾山 高山寺(真言宗単立) |
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住所 | 京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8 |
電話 | 075-861-4204 |
アクセス |
JRバス高雄・京北線
JR京都駅から「栂ノ尾」「周山」行で 「栂ノ尾」下車(京都駅から約55分) 市バス 四条烏丸から8系統「栂ノ尾」下車 |
拝観時間 | 8:30~17:00 |
拝観料 | 石水院拝観:1,000円(紅葉時入山料500円) |
公式サイト | http://www.kosanji.com/ |
まっすぐ澄んだ心で釈迦と母を敬慕した明恵
高山寺は、北山杉や松や楓の巨木が鬱蒼と茂る栂尾の山中にあります。もとの名を「都賀尾坊(とがのおぼう)」といい、奈良時代末期に大安寺の慶俊(けいしゅん)によって創建された古刹です。平安末期には文覚によって神護寺の別院に属され、鎌倉時代に明恵(みょうえ)によって再興されました。
表参道から境内に入り、茶園の手前を右に折れたところに石水院が建っています。石水院は賀茂別院にあった後鳥羽上皇の御学問所が下賜されたもの。寝殿風の住宅建築物です。もとは金堂の東にあったものが、慶長年間に現在の場所に移され、その際、大改造が加えられましたが、境内で唯一の鎌倉時代の遺構です。
この石水院には高山寺の開山、明恵を描いた「明恵上人樹上坐禅像(国宝)」があります(公式HPリンク)。
太い赤松の幹の二股に分かれたところで坐禅をする明恵。その脇の小枝に掛けられた香炉からは煙が立ちのぼり、頭上にはリスや小鳥が戯れています。これは自然の中で禅定を極める明恵の姿を、弟子の成忍(じょうにん)が描いたものです。左斜め前からの明恵の顔は、自ら切り落とした右耳部分が見えないように描かれています。
明恵は承安3年(1173)、紀州有田に生まれました。父は平重国(たいらのしげくに)、母は有田の豪族、湯浅宗重(ゆあさむねしげ)の四女で、明恵が8歳のときに母が病死、同じ年に父も源平の合戦により戦死して孤児となりました。明恵は9歳で母方の叔父の上覚(じょうかく)を頼って神護寺に入り、文覚(もんがく)についています。文覚はもと北面の武士で、19歳で出家したといわれる真言僧です。空海を崇拝していた文覚は山岳修行を重ねたあと、源頼朝や後白河院と結んで平家打倒に功を挙げ、荒廃していた神護寺や東寺の復興に努めました。明恵の叔父、上覚は文覚の弟子でした。
神護寺に来て間もない頃の明恵は亡き父母への情が厚く、犬や鳥を見ては親の生まれ変わりと敬ったといわれています。13歳で既に年老いたと自覚して、日々を無駄にせず修行に邁進することを誓ったそうです。明恵が14歳のとき、病に倒れた文覚は、明恵に頼んで神護寺で病気平癒の加持祈祷をさせています。また当時、神護寺は再建工事中で、明恵はその喧騒を逃れ、経文をもって裏山に何日も篭り修行に励んだそうです。文覚はその様子を見て「人のふるまいに非ず、権者の所為なり」といい、明恵の非凡な才能を認めていました。
そんな明恵の姿は、たびたび神護寺を訪れていた西行の眼に頼もしく映っていたようです。西行も、もと北面の武士で、23歳で出家し、諸国をめぐって多くの和歌を残した僧侶です。明恵は歌学者でもあった上覚から和歌の手ほどきを受けていましたが、西行の詠む歌に深く感銘を受けたようです。西行は、華や月など万物はすべて虚妄であり、縁に随い、興に随って読む歌はみな真言であると語ったといわれています。
あかあかや あかあかあかや あかあかや
あかあかあかや あかあかあかや月
この明恵の歌も、まるで真言のようです。明恵は「上手く詠もうとするのでなく、ただ何となく詠みちらして、そこにまことの心がこもっているのがよい」と弟子に語っていたそうです。
明恵は16歳のとき東大寺で具足戒を受け、華厳、真言、律、禅宗を学びました。とくに華厳教学の研究に励みましたが、そのころ東大寺の学僧らが党派をつくって争っているのをみて、実践を欠いていると嘆き、東大寺を去ったといわれています。その後明恵は、崇拝する釈迦の教えのまま無我の仏道に生きようと、23歳で遁世し、故郷である紀州有田の白上(しらかみ)の峯で修行に明け暮れたといいます。また人間の感情から離脱しようとして右耳を切り落としたのもその頃でした。
徹底して厳しく自己を律する明恵でしたが、白上峯から海を眺め、浮かぶ島々をこよなく愛し、島で拾ってきた石を大切にしたそうです。釈迦の生まれた天竺の海も白上の浜に続いている。だから島も石も釈迦の心とつながっているのだと感激したらしいのです。のちに高山寺に住むようになってからも、島々のことが忘れられず、島宛てに恋文のような手紙を書き、弟子に持たせたと伝えられています。
また明恵にとって、幼いころに亡くした母への思慕は生涯尽きることがなかったといわれています。石水院には「仏眼仏母像(ぶつげんぶつもぞう)」(国宝)が伝えられていますが、これは明恵が念持仏としていた仏画で、諸仏の母とされるやさしい女身仏に亡き母を投影して大切にしていたと思われます。この仏画には明恵の自筆の讃とともに「无耳法師之母御前也(みみなしほうしのははごぜんなり)…」と書かれています。
紀州の有田郡一帯は、母方の親類縁者からなる湯浅党が勢力をもっていた土地で、明恵は生涯を通して深く関わり続けました。これは幕府や朝廷と政治的につながっていた文覚の動静とも無関係ではなかったようです。明恵を手元に置いておきたい文覚は、栂尾に庵室を作って明恵に与えましたが、文覚の周囲は紛争が絶えず、その喧騒を逃れるように明恵は京都と紀州を行き来していました。紀州では叔父の湯浅宗光の招きで、筏立(いかだち)や糸野の草庵に隠棲し、弟子たちと行に励み、華厳教を研鑽したり、著作活動に励んだと伝えられています。
そんな明恵は釈迦への思慕を抱き続け、天竺渡航を綿密に計画していました。ところが建仁3年(1203)正月に、春日明神から思いとどまるよう湯浅宗光の妻に託宣があり、仕方なく断念しています。その後まもなく、師の文覚と上覚が後鳥羽院から謀反の疑いをかけられます。対馬へ流罪となった文覚は途中の鎮西で没し、上覚は赦されて神護寺に戻りました。一方、明恵は元久2年(1205)に再び天竺渡航を試みますが、病気になり、このときも断念せざるを得なかったようです。
文覚の没後、荒れた神護寺の堂宇を再建した明恵は、栂尾を別所として神護寺から切り離し、弟子5人を久住者として配置させたいと後鳥羽院に願い出ています。仲介に入ったのは明恵に帰依していた藤原長房でした。建永元年(1206)、この願いが認められ、明恵は後鳥羽院から神護寺の一院であった十無尽院の寺地を賜ります。それはかつて文覚が明恵のために開いた土地でした。後鳥羽院により「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらす こうざんのてら)」の勅額も下賜され、明恵は華厳宗興隆を託されました。「高山寺」の誕生です。やがて厳しい行学にも関わらず、志をもった僧が尋ね来て、10年間で50人以上の僧が集まったといわれています。
明恵が栂尾の地を賜ったころ、都では法然の広めた念仏への批判が高まり、建永2年(1207)には専修念仏停止の宣旨が下され、法然とその弟子らが処罰されました。法然が入滅した建暦2年(1212)に『選択本願念仏集』が開版されて世間に流布されると、明恵はその内容に驚き『摧邪輪(ざいじゃりん)』や『摧邪輪荘厳記』を著して痛烈に批判しています。
『摧邪輪』の序文によれば、明恵ははじめ法然を敬っていて、耳に入ってくる邪悪な見解はデタラメだと思っていたようです。しかし法然の説く教理は、菩提心を捨てることを勧め、聖道門を群賊に例えるものだと知って深く悲嘆したようです。菩提心とは人が悟りを求めようとする心をいうそうですが、思えば、幼くして父母を喪った明恵の出発点であり、以来仏の弟子として厳しい修行のなかで持ち続けてきた心だったのかもしれません。
明恵の法語に「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」があります。これは『栂尾明恵上人遺訓』の別題であり、明恵の高弟であった高信が生前の師のことばを書き留めたもので、52の項目が記されています。その冒頭に「僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり」というのがあります。それぞれの立場において正しい振舞いをするようにと説いたものですが、その「あるべきようは」に背くとすべてが悪くなるのだとも言っています。
明恵によれば、心にまことのある振舞いはおのずから戒律に合う、というのが「あるべきようは」の根本なのだといいます。釈迦のいない末法の世は、まことの心を失ったから乱れているのであり、末法の世だからこそ釈迦のいた時代のように基本に還れと言っています。たとえば僧侶の心が誠実でないから、名利を求めたり形だけの礼拝で布施を取るような有様が起こっているのであり、生身の仏の御前にいるような心地で心身を正しく保ち、煩悩のけがれや物事への執着を除くよう努めることが大切だとも説いています。
また、法然の教説を意識してなのか、明恵は「私は後世に助かろうなどとは思っていない。ただ現世にあるべきようにあろうと言っているのだ。…現世でどうであろうと、後世にこそ救われると説く仏典は無い(『明恵上人伝記』)」として、現世を生きる上で、戒を守り、各々にとって為すべきことを為し、為すべきでないことは為さないのが「あるべきようわ」の実践だと力説しています。
そんな明恵は、不思議な力で周囲の人々を驚かせることが多々あったそうです。ある夜更けに明恵が「湯屋の軒下の雀の巣に蛇が入ったから早く追っ払ってきなさい」と言うので、弟子が火を灯して見に行くと雀の雛が大蛇に食べられそうだった、とか、琵琶の名手が名器で旋律を奏でたら、明恵が感極まって空中浮遊で簾(すだれ)の上の竿に腰かけて聴いていた、とか、承久の乱を予言していた、というような伝承がたくさんあります。明恵はそれを特別なこととは思っていませんでしたが、弟子たちは何事も見透かされていると感じていたようです。
また明恵は19歳から58歳までの約40年間にわたり、見た夢を記録しています。明恵の夢のほとんどは日々の仏道修行に即したもので、明恵は仏の世界からのメッセージと受け取っていたようです。何かの隠喩なのか、馬や鹿や麒麟や亀や鳥など、動物が現れる夢も多く、なかでも犬は何度も登場します。明恵は命あるものも、無いように見えるものも慈しんだ人でした。高山寺に伝わる快慶作の木彫りの「仔犬像」は、明恵がいつも傍らに置いて可愛がっていたものと伝えられています。
ところで、高山寺には日本最古の漫画とよばれる『鳥獣人物戯画』が伝えられています。鳥羽僧都覚猷(とばそうずかくゆう)の作品ともいわれますが、はっきりしません。甲乙丙丁4巻からなり、有名なのは甲巻です。甲乙巻は平安時代後期、丙丁巻は鎌倉時代の作品と推定されています。うさぎやカエルが登場するユーモラスな甲巻は、何となく明恵が気に入りそうな絵だと感じます。