仁和寺
(にんなじ)真言宗御室派の総本山である仁和寺は、平安時代から明治初頭まで歴代皇族が住持した門跡寺院です。初代宇多天皇が出家して遷った御所は御室(おむろ)と呼ばれ、一帯の地名にもなりました。境内には御殿があり、王朝の典雅がやさしく満ちています。4月の中~下旬にかけて咲き誇る背の低い御室桜はとくに有名です。
仁和寺 五重塔
山号・寺号 | 大内山 仁和寺(真言宗御室派) |
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住所 | 京都府京都市右京区御室大内33 |
電話 | 075-461-1155 |
アクセス |
市バス 10,26,59系統「御室仁和寺」下車すぐ 京福電車(嵐電) 北野線「御室仁和寺」下車徒歩2分 |
拝観時間 | 3月~11月 9:00-17:00(16:30受付終了) 12月~2月 9:00-16:30(16:00受付終了) |
拝観料 | 御所庭園: 大人800円 高校生以下無料(団体15名以上1割引) 霊宝館(期間限定):夏季名宝展 7月20日〜8月18日 大人500円 高校生以下無料 茶室(遼廓亭・飛濤亭):1000円(5名以上、7日前までに要予約) 御室花まつり入山料:大人500円 高校生以下無料 障害者手帳の提示で本人無料 |
公式サイト | http://www.ninnaji.jp/ |
宇多天皇の御殿だった仁和寺
龍安寺から「きぬかけの道」を西へ道なりに行くと、仁和寺の荘重な二王門が通りに面して建っているのが見えてきます。また、嵐電(京福電車)の御室仁和寺駅からは、民家を抜けて北へ行くとまもなく二王門が正面に迫ってきます。門を一歩入ると視界が開け、ゆったりと優雅な空気に包まれます。左手には代々皇室が住持した御殿があり、まっすぐに延びる参道の先に朱塗りの中門が見えます。
創建時の元号をとって命名された仁和寺は、御室(おむろ)の通称で呼ばれています。境内につくられた宇多天皇の御所が御室と呼ばれたのがその始まりで、その後皇室から門跡が入寺したため御室御所というようになり、周辺一帯も御室の地名が定着しました。ちなみに電子部品や医療機器で有名な「オムロン」の社名は御室に会社があったことに由来します。
平安時代後期には仁和寺の周辺に70以上の院家や子院が建ち並んでいたといわれています。さらにその近くには四円寺(円融寺、円教寺、円乗寺、円宗寺)とよばれる歴代天皇の御願寺が建ち、あたりは堂塔がひしめき合う寺院地帯であったそうです。
寺伝によれば、仁和2年(886)、光孝天皇の勅願により西山御願寺の建立が始められたといわれています。けれども翌年、寺の完成をみる前に天皇は崩御。皇子である宇多天皇が父の遺志を継いで、仁和4年(888)に伽藍を完成させ、これが仁和寺となりました。この年、本尊には阿弥陀三尊像が祀られ、東寺長者の真然を導師として落慶法要とともに光孝天皇の一周忌が営まれました。
真言宗密教寺院の創建時の本尊が阿弥陀如来三尊なのは少し不思議に思えますが、宇多天皇はもともと天台宗と関わりが深く、仁和寺の初代別当に天台宗の幽仙が就いていることも関係しているかもしれません。ちなみに幽仙は光孝天皇の従兄弟にあたります。寛平9年(897)、宇多天皇は醍醐天皇に譲位して上皇となり、昌泰2年(899)に31歳で出家、以後30年余りをこの仁和寺で過ごしたといわれています。
宇多天皇の父である光孝天皇は、当時朝廷で絶大な権力を握っていた藤原基経(ふじわらのもとつね)の推挙により、55歳という遅さで即位しました。当時、陽成天皇の横暴ぶりが目に余ったため、摂政であった基経は天皇を廃位して光孝天皇を立てたともいわれています。一方、光孝天皇は緊急措置としての皇位継承とわきまえたのか、即位直後に自分の子をすべて臣籍降下させています。これは基経に配慮して、自分の血筋から後継を出さないという意思表示だったとも考えられています。
光孝天皇の第7皇子(のちの宇多天皇)も皇室を出され、源定省(みなもとのさだみ)を名乗りました。源定省はこの臣籍時代に藤原胤子(ふじわらのたねこ)との間に源維城(みなもとのこれざね)をもうけています。源維城はのちの醍醐天皇です。
光孝天皇は即位からたった3年で崩御しますが、天皇が危篤に陥ったとき後継者はまだ決まっていませんでした。基経と朝廷は慌てて源定省を皇族に復帰させ、践祚(せんそ)させています。基経の本意は分かりませんが、陽成天皇の同母弟である貞保親王(さだやすしんのう)を立てなかったのは、その母であり基経の妹である高子と仲が悪かったからだとも考えれています。こうして仁和3年(887)突然にして宇多天皇の治世となりました。
即位当初、阿衡の紛議で基経と衝突した宇多天皇でしたが、基経が寛平3年(891年)に没すると、宇多天皇は摂政関白を置かずに、源氏や藤原北家から遠い人物を積極的に登用して親政を行いました(寛平の治)。また天皇は菅原道真を重用し、道真も(本当は学問がしたかったようですが)天皇をよく補佐しました。
この間、基経の子の時平も成長していました。寛平9年(897)、宇多天皇は突然13歳の醍醐天皇への譲位を決め、自らは上皇となります。宇多上皇は大納言に藤原時平を、権大納言に菅原道真を任命し、2人に朝政牽引を託しました。けれども醍醐天皇は歳の近い時平に補佐を求め、道真とは距離を置いていました。宇多天皇が道真を大事にしすぎたのかもしれません。昌泰4年(901年)、道真は時平の讒言(ざんげん)により大宰府に左遷されてしまいます。
その2年前の昌泰2年(899)、宇多上皇は東寺の益信(やくしん)を戒師として出家、法皇となり、仁和寺に住房を建てて遷っていました。この住房が御室のはじまりです。益信から伝法潅頂を受けた宇多法皇は、その法流を弟子の寛空(かんくう)に伝え、その後、法皇の孫の寛朝(かんちょう)と、ひ孫の済信(さいしん)が法流を受け継ぎました。益信から始まる真言密教を広沢流といい、それに対して醍醐寺の開祖、聖宝(しょうぼう)から始まる小野流(仁海が大成)があります。承平元年(931)、宇多法皇は崩御し、大内山に葬られました。
第2世の性信(しょうしん)以降、明治初期まで仁和寺歴代の住寺はそのほとんどが皇室出身の僧侶によって継承されました。なかでも後白河天皇の第2皇子で、第6世の守覚(しゅかく)法親王は、仁和寺中興の祖といわれ、200巻以上の著作を残し、真言密教御室流の奥義を極めたといわれています。また守覚は、治承2年(1178)に高倉天皇の中宮、建礼門院徳子の安産のため孔雀明王法を修し、そのかいあって安徳天皇が無事生まれたため、高倉天皇から守覚に御礼の宸翰(国宝)を賜っています。なお、守覚は高倉天皇の兄にあたります。
ところで余談ですが、宇多天皇といえば大の猫好きで知られています。宇多天皇は在位中に日記『寛平御記(かんぴょうぎょき)』をつけていました。原典は残りませんが、室町時代に四辻善成が撰した『河海抄(かかいしょう)』に寛平御記を引いた箇所があります。そこには、源精(みなもとのくわし)から父の光孝天皇に渡り、光孝天皇から賜った黒猫について書かれています。
それによれば、宇多天皇はヒマだから猫について書くといい、黒猫の毛並みや体躯や容姿を褒めたたえ、ネズミを捕るのもほかの猫より優れているといい、もらってから5年、毎朝乳粥をあげて可愛がっている。でもそれはこの猫が有能だからではなく、先帝から賜ったから。小さな生き物でも情があるから大事に育てているだけ、とまるで照れ隠しのような記述になっています。そして、お前には整った体と心が備わっているのだから、私のことを分かっているね、と猫に問うと、猫はため息をついて顔を見上げたので、猫は胸の内を言いたそうだったけど、口がきけないから仕方ないね。と、もう完全に猫フェチ日記のようで、その溺愛ぶりに天皇の人柄を感じます。(※大意は自分なりの解釈です)
芸術家や文化人が好んだ仁和寺門前
仁和寺は応仁の乱で西軍の陣となり、東軍の攻撃を受けてすべて焼き尽くされています。そのため現在の堂塔伽藍は近世以降に建てられたものばかりです。けれども境内全体は和様で統一され、平安王朝の気品や優美さが随所に漂っています。高さ32.7mの五重塔にしても威圧感はなく、一見ここが真言宗の寺であることさえ気がつかないくらいです。
御殿内は、白書院から宸殿、黒書院を通って霊明殿が拝観できます。これらは明治の火災後に亀岡末吉の設計で再建された新しい建物ですが、江戸時代以前の宮殿の美意識が踏襲されていて、風格がありながら優しい印象があります。また、白書院の前には勅旨門と二王門を望む白砂を敷き詰めた南庭、宸殿前には茶室・飛濤亭(ひとうてい)と五重塔を見渡す池泉回遊式の北庭があります。以前、大河ドラマを観ていてこの北庭と五重塔が映ったので「仁和寺やん」と思ったことがあります。
霊明殿の西には茶室・遼廓亭(りょうかくてい)が建っています。この茶室は江戸時代、仁和寺門前にあった尾形光琳の住居を移したものと伝えられています。同じころ陶芸家の野々村仁清(ののむらにんせい)も門前に窯を構え、御室焼を生み出しました。その仁清に陶芸を学んだのが尾形光琳の弟の乾山(けんざん)です。仁和寺の門前は芸術家の才能を開花させるような土地柄だったのかもしれません。
時代は遡りますが、鎌倉末期から南北朝時代に出た吉田兼好も、仁和寺近くの双ヶ岡に住んで『徒然草』を著しています。本名は卜部兼好(うらべかねよし)で、「吉田兼好」は江戸時代以降の通称です。卜部氏は卜占を専門とする神職の家柄で、兼好も吉田神社の神官の家に生まれていますが、神職には就かずに出家して兼好を名乗りました。
『徒然草』には仁和寺のおっちょこちょいな僧たちの話が語られています。石清水八幡宮に初めて出掛け、山麓の極楽寺と摂社の高良神社だけを参拝して、肝心の本殿を参らずに満足して戻った僧の話(第52段)や、酔っぱらって足鼎(あしがなえ)を被ったら取れなくなり、思い切り引き抜いたら耳と鼻が取れた話(第53段)です。一般に、権威ある大寺の僧を皮肉っているのだと解釈されますが、兼好は人間のありのままの愚かさを肯定し、そこに哀れを感じているようにも思えます。
御殿を出て、中門をくぐると正面の石段上に金堂が建っています。金堂は寛永年間に徳川家光により再興されたときに御所の紫宸殿が移築されたもの(国宝)。同時期に御影堂にも御所の清涼殿の建材が使われ再建されています。またこのとき五重塔、観音堂、中門、二王門、経蔵も造営されました。
なお、仁和寺には国宝の阿弥陀如来坐像をはじめ、十万点以上もの寺宝が伝えられていて、特別公開時に霊宝館でそれらの一部を観ることができます。毎回テーマに沿ったものが展示され、その目録は公式サイトで公開されます。
特筆は、やはり創建当時から伝えられてきたという阿弥陀三尊像で、三尊ともに檜の一木造です。中尊の阿弥陀如来坐像のふっくらと柔らかい表情が印象的で、座禅するときのように定印を結ぶ像としては現存する最古の彫刻といわれています。また、空海が唐で書き写した経典類の記録『三十帖冊子』や、平安時代に作成された現存最古の医書『医心方』、鎌倉時代に作られた南北逆さまの地図『日本図』等々…貴重な宝物が所蔵されています。