京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
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本能寺

(ほんのうじ)

本能寺は、明智光秀が織田信長を滅ぼした「本能寺の変」の舞台として知られています。その寺地はのちに秀吉の命により現在の「寺町通」に移されました。境内には信長の廟所があり、大寶殿宝物館には、信長が所蔵した茶器や、信長寄進の香炉、髭のない信長の肖像画などが展示されています。

信長が倒れた「本能寺の変」の舞台、本能寺 本能寺表門

INFORMATION
寺号 本能寺(法華宗本門流)
住所 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
電話 075-231-5335
アクセス 地下鉄「市役所前」下車すぐ
阪急電車「河原町」下車、北へ徒歩10分
京阪電車「三条」下車、西へ徒歩5分
市バス 5,11,15,37,51,59,104系統「河原町三条」下車すぐ
拝観時間 境内自由 6:00-17:00
大寶殿宝物館:9:00-17:00
(入館16:30まで)
拝観料 境内:無料
大寶殿宝物館:
一般500円 中高生300円 小学生250円 30名以上で団体割引
特別拝観時は別料金
公式サイト http://www.kyoto-honnouji.jp/
※↑2023年2月更新。

織田信長の終焉の地、本能寺

天正10年(1582)6月2日の早朝、本能寺にいた織田信長は明智光秀の軍勢に襲撃され自害しました。現在の本能寺は、秀吉の命により移された寺町御池のすぐ南にありますが、「本能寺の変」の当時、信長がいた本能寺はそこから南西に約2kmほどのところ(油小路蛸薬師付近)に建っていました。

本能寺は日隆(にちりゅう)によって創建された法華宗の寺院で、その宗祖は日蓮です。東国で法華経の教えを説いた日蓮は、自らの臨終に際して6人の本弟子を定め、教団は6つの門流に別れ、そこからさらに多くの門流が出ました。また、日蓮は入滅の2日前に孫弟子の日像を枕元に呼び、京都における法華宗の布教を託したといわれています。上洛した日像は、比叡山の弾圧を受けながらも京都で最初の法華宗の寺・妙本寺(のちの妙顕寺)を開きました。

日隆は18歳で妙本寺4世の日霽(にっせい)に師事しましたが、門流内の対立により妙本寺を去り、応永22年(1415)に五条坊門(現在の仏光寺通)油小路に「本応寺」を開きます。しかし応永25年(1418)に妙本寺の月明により寺を破却されたため、河内に逃れたあと尼崎へ移り本興寺を建立しました。その後の永享元年(1429)、日隆は京都に戻り、友禅問屋の小袖屋宗句の支援を受けて内野に本応寺を再建。さらに永享5年(1433)には、如意王丸という人物から四条坊門の土地を寄進されて寺を再建、寺号も本能寺と改めました。

室町時代になると法華宗は足利幕府の保護により寺地を認められ、富裕な檀家の寄進に支えられて勢力を拡大していきます。さらに応仁・文明の乱後には町衆に信仰が浸透し、近衛家や二条家など摂関家からも帰依を受け、都は「題目の巷」と呼ばれるほどになりました。そのころに本能寺も洛中法華21ヵ寺のひとつとなり隆盛しました。

しかし室町末期になると、足利政権の弱体化とともに国の秩序は乱れ、各地に戦国大名が台頭し、民衆も一揆などで徳政を訴えるようになります。宗教勢力も武装して権力を争い、大名たちもその力を利用していました。

応仁文明の乱以後、京都で幕府の実権を握ったのは細川氏でしたが、細川氏の嫡流である細川京兆家では、家督をめぐり長らく内紛がつづいていました。この争いに決着をつけたのは細川晴元でしたが、その後、当初味方であった三好元長と主導権を争います。晴元は元長を倒すため、山科本願寺の証如に援軍を頼み、享禄5年(1532)6月、本願寺門徒の一向一揆によって元長を攻め、自刃に追い込みました。

しかし一向一揆はその後も南都を襲うなどして暴走したため、晴元と本願寺の関係は悪化し、同年8月、晴元は一転して法華宗と組み、山科本願寺を攻撃します。1万ともいわれた法華衆徒は本願寺衆徒を討ち、山科本願寺を焼き討ちしました。結果、法華衆徒は京都市中の警察権を与えられ、自治権を得るなどしてさらに勢力を拡大しますが、まもなく延暦寺と激しく対立することになるのです。

天文5年(1536)、宗教問答で法華宗の信徒に論破されたことがきっかけで面目を潰された延暦寺は、衆議を開いて法華宗弾圧に動き、決議文書を園城寺や興福寺、東寺や醍醐寺など他宗の寺院にも送って協力を呼びかけました。合戦が始まると、またたく間に法華宗寺院は焼き討ちされ、洛中の1/3ほどが焦土となったといわれています(天文法華の乱)。本能寺も堂宇を焼かれ、僧侶たちは堺の顕本寺に逃れました。顕本寺は日隆の流れをくむ寺で、三好元長が自害した地でした。

その後、本能寺が京都に戻ったのは天文14年(1545)頃のことです。このとき伏見宮邦高親王(ふしみのみやくにたかしんのう)の皇子である日承上人が12世となりました。東西は西洞院から油小路、南北は蛸薬師から六角までの広大な敷地に大伽藍が造営され、30以上の子院を擁して繁栄を極めたといわれています。畿内、北陸、瀬戸内海沿岸や堺、さらに種子島まで布教が進み、本能寺は法華宗本門流の大本山となりました。

なお、本能寺は鉄砲が伝来したとき種子島で布教を行っていたことから、鉄砲入手の仲介者として一役買っていたようです。『本能寺文書』天文18年(1549)の細川晴元による本願寺宛ての書状には、種子島から鉄砲が届いて大変喜んでいる、との旨が記されています。また本能寺の変のあと、本能寺から秀吉に煙硝5斤が贈られたこともありました。

永禄11年(1568)織田信長は、朝倉義景のもとで上洛の機会を窺っていた足利義昭を奉じて上洛を果たします。義昭の兄・義輝を滅ぼした三好三人衆を討伐するという名目での上洛でした。信長は義昭の住まいとして、まず法華宗本圀寺を用意し、その後本能寺に移らせ、再び本圀寺に戻らせています。しかし安全面で不安を感じたのか、翌永禄12年2月2日から急ピッチで「二条殿(二条御新造・旧二条城)」を造営し、4月14日に義昭を二条殿に移らせています。二条殿は当時の記録に「武家御城」と書かれる石垣を備えた住居でした。

一方、このとき信長は二条殿の南にあった妙覚寺に入っています。信長が入洛のたびに主に宿泊していたのは妙覚寺でした。妙覚寺の貫主が斎藤道三の子、日鐃(にちぎょう)上人であったことも関係しているでしょう。信長の妻、帰蝶は道三の娘です。こののち信長は関係が悪化した義昭を都から追放すると、二条殿を取り壊して新しく造り直しています。そして天正5年(1577)からは信長自身が新造の二条殿に入ることが多くなります。

信長が本能寺に滞在したと記録に残っているのは元亀元年(1570)8月と9月、天正9年(1581)2月と天正10年(1582)5月の4度だけです。なぜ信長が本能寺を寄宿先としたかは諸説あり、当時境内の東を流れる川が自然の堀として機能していたことや、本能寺が武器調達に貢献していたことなどがその理由に挙げられています。ただし実は攻められやすい地勢だったとも。元亀元年(1570)12月、信長は本能寺を「定宿」として、他の者が寄宿することなどを禁止する「禁制」を本能寺宛てに出しましたが、その後、天正9年(1581)までの11年間、本能寺を使った形跡はみられません。

一方、吉田神社の神主であった吉田兼見の日記『兼見卿記』によれば、天正8年(1580)3月に「信長の御屋敷普請 本能寺」とあり、この時期に本能寺境内に御殿や厩(うまや)などの造営が始められていました。また『イエズス会日本年報』にも「信長が都において宿泊する例であり、僧侶をことごとく出し、相当に手を入れた天王寺(本能寺のことらしい)と称する僧院」という記述があります。本能寺の僧侶は追い出されていたというのですから、これは寄宿というより接収だったかもしれません。そしてこれらによれば、天正8年ごろから信長は本能寺を上洛時の拠点として、本格的に造営し直したように思われるのです。

なお、中世以降、迷惑な者の寄宿を免除するための「寄宿免許」というものが存在していました。これは、誰であっても宿泊させなくてよいという特別免許で、軍勢などに寄宿されそうな社寺や町村などがあらかじめ軍勢側と交渉し、お金を払って寄宿免除の特権を得るというものでした。つまり兵火や兵士の狼藉を避けるための合意です。本圀寺や本能寺は何度か「寄宿免許」を取得しています。しかしこの特権には絶対的な効力はなく、何らかの理由をつけて反故にされ得るものでもあったようです。

ところで、本能寺と信長の接点として茶の湯も気になります。法華宗の富裕な檀那や僧侶には茶の湯の数寄者が少なくなく、本能寺の塔頭でもたびたび茶会が開かれていました。のちに還俗して利休の娘を娶った円乗坊宗円は、本能寺出身の一流茶人で、信長の茶頭である津田宗及や、利休の高弟である山上宗二、信長の被官である島又左衛門とも茶の湯を通じて交わっていたようです。本能寺の変の前日、信長は本能寺の御殿で多くの客を招いて茶会を開き、安土から運ばせた数々の名物茶器を披露していました。それらは各地の大名や豪商などから召し上げた、値のつけられないような宝物でしたが、翌日にはほとんどが炎のなかで砕け散ってしまいました。

天正10年(1582)5月29日、信長は、中国の毛利氏と対陣していた秀吉からの援軍要請に応じて安土の軍兵に出陣準備を命じたうえで、小姓衆20~30人だけを連れて上洛し本能寺に入りました。嫡男の信忠はこれに先駆けて上洛し、妙覚寺に滞在中でした。

このとき、三男の信孝、柴田勝家、滝川一益ら信長の重臣たちは、それぞれ担当地域に出払っていて、家康も信長の勧めで穴山梅雪らと堺を見物中でした。中国出陣に向けて丹波亀山城で軍を整えていた明智光秀は、この状況を把握して行く先を本能寺と変更します。そして6月2日の早朝、光秀の謀反により、信長は天下統一を目前にあっけなく生涯の幕を閉じるのでした。本能寺は信長が自ら放った火によって全焼しています。またこのとき妙覚寺にいた信忠は二条殿に移って自害しています。

たくさんの謎が残された「本能寺の変」。信長の遺骸は見つかっておらず、光秀の動機もよくわかっていません。 その後ひと月経った7月3日、三男の信孝は本能寺宛てに書状を送り、本能寺の寺地の返還とともに、僧侶の還住を指示し、信長の本能寺屋敷を墓所として、信長の菩提を弔う法事を勤めることを命じました。

本能寺の能の文字
能の文字
本能寺は何度も火災に遭ったことから「ヒ」が「去る」ようにという意を込めてこの字を使ったといわれる。
本能寺境内
境内
本能寺の本堂
本堂
本能寺は天正17年(1589)に秀吉の都市計画により現在の地に移ったが、元治元年(1864)の蛤御門の変で全焼し、現在の本堂は昭和3年(1928)に建立されたもの。
本能寺の本堂
本堂
本能寺の信長の御廟
信長の御廟
本能寺の変の戦死者を祀る供養塔
本能寺の変の戦死者を祀る供養塔
本能寺の変の供養塔
供養塔
上段:島津義久夫人の石塔。中段:管中納言局庸子(かんちゅうなごんのつぼねようこ)の石塔。下段:徳川家重室(伏見宮邦永親王の娘)の供養塔。
本能寺境内の日蓮、日隆ほか歴代諸聖人廟
日蓮、日隆ほか歴代諸聖人廟
本能寺境内の日承上人の墓
日承上人の墓
皇族なので宮内庁が管理。
本能寺境内にある江戸時代の文人画家、浦上玉堂・春琴(父子)の廟所
江戸時代の文人画家、
浦上玉堂・春琴(父子)の廟所
塔頭
奥から、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7子院が並ぶ。
本能寺の大寶殿宝物館
大寶殿宝物館
本能寺境内の大寶殿2階が展示室になっている。
大寶殿2階が展示室になっている。
本能寺境内の火伏のいちょう
火伏のいちょう
天明の大火(1788年)で市中が猛火に襲われたとき、イチョウから水が噴き出し、木の下に身を寄せていた人を救ったという伝承からこう呼ばれる。
本能寺境内にある加藤清正寄進の臥牛石
加藤清正寄進の臥牛石
本能寺境内の大蓮の水鉢
大蓮の水鉢
河原町通に面する東門
河原町通に面する東門
関連メモ&周辺

本能寺趾

本能寺の旧地油小路通蛸薬師下ルに建つ本能寺跡碑 油小路通蛸薬師下ル 本能寺の旧地小川通蛸薬師西南角に建つ本能寺跡碑 小川通蛸薬師西南角
「本能寺の変」当時の本能寺の敷地に碑が立つ。

矢田寺(矢田地蔵)

寺町三条の北に建つ矢田寺 寺町三条の北に建つ矢田寺は「送り鐘」で知られる
寺町通三条を少し北のところに金剛山矢田寺という西山浄土宗のお寺がある。平安時代初期に大和矢田寺の別院として五条坊門に建てられ、寺地を転々とした後、天正7年(1579)に現在の地に移ったという。
本尊の矢田地蔵は高さ2mの立像で、開山の満慶上人が冥土に行って出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたものという。地獄で亡者を救う「代受苦地蔵」と呼ばれ信仰を集める。 六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、死者の霊を迷わず冥土に送るために撞かれる「送り鐘」と呼ばれる梵鐘がある。

主な参考資料(著者敬称略):

『本能寺史料 中世篇』藤井学・上田純一・波多野郁夫・安田良一/編 思文閣出版/『本能寺』桃井観城 本能寺史編纂会 /『日蓮宗と戦国京都』河内将芳 淡交社 /●『現代語訳 信長公記』太田牛一・中川太古/訳 新人物往来社 /『本能寺と信長』藤井学 思文閣出版 /『京都・宗祖の旅 日蓮』藤井寛清 淡交社 /『日隆聖人への旅』三浦日修 東方出版 /

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