金戒光明寺
(こんかいこうみょうじ)「くろ谷さん」と親しまれる金戒光明寺は、法然が念仏の教えを最初に開いたところと伝えられる浄土宗の寺院です。また、幕末の京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)率いる会津藩士1,000人の駐屯所となったことでも知られています。
山門
後小松天皇宸筆の「浄土真宗最初門」の勅額。この真宗とはまことの教えの意味。
山号・寺号 | 紫雲山 金戒光明寺(浄土宗) |
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住所 | 京都市左京区黒谷町121 |
電話 | 075-771-2204 |
アクセス |
市バス 32,93,203,204系統「岡崎道」下車徒歩10分 5系統「東天王町」下車徒歩15分 |
境内拝観 | 自由 |
特別拝観 | 2024/11/15-12/8 日中拝観:10:00-16:30(最終入場16:00) 御影堂・方丈・庭園 大人1,000円 小人500円 山門 大人1,000円 小人500円 セット券 大人1,600円 小人800円 夜間拝観:17:30-20-30(最終入場20:00) 御影堂・大方丈・庭園 大人1,000円 小人500円 |
公式サイト | https://www.kurodani.jp/ |
浄土宗発祥の地、くろ谷
金戒光明寺の境内は、北側にある真如堂と地つづきになっています。地元の人々にとっては除夜の鐘が撞ける身近なお寺であり、時代劇などのロケ地としても馴染みのあるお寺です。
比叡山で出家した法然が、より深い修学を求めて隠遁したのが西塔黒谷の別所でした。以来30年を経て、ついに専修念仏に確信を得て山を下り、草庵を結んだ栗原ヶ岡を「新黒谷」と呼んだのが金戒光明寺の始まりといわれています。
長承2年(1133)、法然は美作国久米南条の稲岡庄で生まれています。幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。勢至丸が9歳のとき、押領使(当時の警察官)であった父の漆間時国(うるまときくに)は稲岡庄の預所、明石定明の夜襲に遭って命を落としてしまいます。時国は息を引き取る間際に「敵を恨むな。もし復讐を思うなら争いはいつまでも絶えない」と勢至丸に言い遺したそうです。なお法然の父の漆間氏は、多氏の流れを組む漆島氏の傍流で、母は秦氏と伝えられています。
父を喪った勢至丸は叔父の観覚(かんがく)のもとで仏道を学び、13歳で比叡山に上りました。15歳のとき皇円のもとで受戒し、俊才を発揮しますが、3年後の18歳のとき、師の皇円を離れて比叡山西塔の奥深くにある黒谷の青龍寺の門を叩き、叡空(えいくう)につきました。法然房源空(ほうねんぼうげんくう)の名を授けたのは叡空です。叡空はのちに大原で融通念仏の祖となった良忍の弟子でもありました。
13歳から30年を比叡山で過ごした法然でしたが、保元元年(1156)、24歳の時に一度下山しています。まず嵯峨の清凉寺に7日間参籠したあと南都の諸寺に遊学したといわれています。この年、保元の乱が起こり都の中心部は戦場となっていました。しかもその前年、民衆は飢饉に見舞われていました。すでに100年前から末法の世は始まっていて、13歳から山中に籠っていた法然は、このとき世間の現実を知ることとなったようです。
再び黒谷の青龍寺に戻った法然は、一切経5,048巻を何度も読破したといわれています。学徳深く「智慧第一の法然」と呼ばれた法然でしたが、求める教えにはなかなか出会えませんでした。けれども、源信の『往生要集』や永観の『往生拾因』には影響を受けていたようです。そして承安5年(1175)、法然43歳のとき、ついに唐の善導が著した『観無量寿経疏』から万人救済の道を見い出します。そこには阿弥陀の称名によって、あらゆる世界のすべての人々を浄土に導くという阿弥陀如来の本願が示されていました。いわゆる専修念仏です。
法然が叡空に別れを告げ、西塔黒谷を下りて最初に立ち寄ったのが新黒谷の山上だったといわれています。金戒光明寺の塔頭である西雲院には紫雲石が祀られています。法然はその石に腰をかけ、この地が専修念仏を広めるのに相応しいかを思いながら念仏を称えると、紫雲がたなびき金色の光が立ち上ったことから、この栗原ヶ丘(新黒谷)に草庵を結んだと伝えられています。
法然は弟子の信空とともに比叡山を下りていました。法然と信空はともに叡空の弟子であり、天台円頓戒(てんだいえんどんかい)の正流を叡空から嗣いでいました。信空の祖父である中納言藤原顕時(ふじわらのあきとき)は栗原ヶ丘の地領を叡空に寄進しており、そこは比叡山黒谷の里坊として早くから「白河の禅房」と呼ばれていました。叡空は2人の下山に際して、信空の法兄である法然にその地を譲ったと伝えられています。
その後、法然は新黒谷を信空に譲って西山広谷に移り、まもなく吉水に拠点を移します。阿弥陀の誓願を信じて専ら念仏を称えることで、煩悩を断ち切れない凡夫(悪人)こそが救われるという専修念仏の教えは、在家庶民や遊女、尼などの女性、念仏聖、漁師や商人などをはじめとして、やがて貴族や武士などにも広がっていきました。しかしそれはまた弾圧という受難の始まりでもあったようです。
都では平安時代中期ごろから浄土教の教えが広まっていました。空也のような聖が称える念仏は民間に受け入れられ、恵心僧都源信の『往生要集』に説かれる観想の念仏は貴族に支持されていました。法然は永観の『往生拾因』を讃嘆しており、念仏が民衆に流行する下地はできていたのです。しかし口称念仏という易行が聖道門の諸行より優れているとする法然の思想は、当時の日本では十分にラジカルなもので、聖道門の諸宗は黙っていませんでした。
ところで九条兼実が法然に帰依したことはよく知られていますが、当初は法然の授ける戒の効験に頼ったのだといわれています。法然は善導の『観経蔬』により、口称念仏のみを正業とし、その他の阿弥陀仏を礼拝する助業も、他宗の行や民間の神仏信仰も雑行として退けましたが、兼実の病気平癒などの求めにはその都度応じて授戒し、兼実から「其の験あり、尤も貴むべし」と喜ばれていました。
法然の『選択本願念仏集』は兼実の求めにより著されたものだといわれています。また先に述べた通り、法然も、信空も、円頓戒の正統を相承し、戒師の資格をもっていました。この念仏と戒の2つの教えが金戒光明寺に伝えられてきたのです。金戒光明寺には法然が入滅2日前の建暦2年(1212)1月23日に筆をとり、弟子の源智に与えたといわれる『一枚起請文』が伝わっています。そこには、ただひたすら南無阿弥陀仏と称えれば往生できる、という意味のことが記されています。
信空は法然の一番弟子としてその教えを継承しつつ、円頓戒の伝授にも力を注ぎ、「一朝の戒師」とまで呼ばれました。金戒光明寺はわが国最初の念仏宗(浄土宗)の道場であり、同時に円頓戒授与の道場とされたようです。第5世の恵顗(えかい)は寺観を整えて寺号を「光明寺」とし、第7世の運空(うんくう)は後光厳天皇に円頓戒を授けたことにより、天皇より「金戒」の2文字を下賜されて金戒光明寺となりました。その後、第10世の等凞(とうき)が後小松天皇に円頓戒を授け、「浄土真宗最初門」の宸筆を賜っています。
江戸時代以降、金戒光明寺は徳川家との縁が深くなりました。家康が浄土宗に篤く帰依していたことは有名ですが、御影堂の法然上人坐像は、慶長18年(1613)、第26世の盛林が家康に懇請して、安芸国瀬戸田の光明三昧院にあった像を遷したものといわれています。またそれとは別に、後白河天皇の皇女、如念尼のために法然が刻んだ像とも伝えられています。
御影堂左脇壇(向かって右)に祀られる吉備観音(千手観音立像)は、奈良時代の学者で公卿の吉備真備(きびのまきび)が行基(ぎょうき)に頼んで彫ってもらったという観音像です。吉備真備が遣唐使として帰国のとき、船が難破しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、難を逃れて無事に戻ることができたと伝えられています。観音像はもとは吉田中山の吉田寺にあったもので、廃寺になり、寛文8年(1668)に徳川幕府の命により金戒光明寺に遷されています。霊験あらたかで、江戸時代以降、庶民に篤く信仰されてきました。
境内東の三重塔は、寛永10年(1633)、徳川秀忠の菩提を弔うために、家臣であった伊丹重好により建立されました。文殊菩薩が本尊として安置されたため、文殊塔ともよばれています。本尊の文殊菩薩半跏像は中山文殊ともいわれ、古くは中山宝幢寺の本尊でした。応仁の乱で中山宝幢寺が廃寺となり、近くの小堂で祀られていた文殊菩薩が金戒光明寺に遷され、その後、三重塔の建立と同時に本尊とされたと伝えられています。現在中山文殊は御影堂に安置されています。
また境内には徳川秀忠の妻、江(ごう・崇源院)と、秀忠の三男である忠長と、家光の乳母である春日局の供養塔があります。徳川忠長は幼いころ、兄の家光より資質も器量もすぐれていて、父の秀忠も母の江も寵愛していました。特に江は忠長を溺愛し、それがもとで将軍の後継問題へと発展します。危機を感じた春日局は次期将軍を家光にするよう家康に直訴してその通りになりました。一方、忠長はというと、甲斐、駿河、遠江の55万石の大名となりましたが、驕慢なふるまいが目立ったために蟄居処分を受け、とうとう幕府の命で自刃に追いやられてしまいます。春日局はその責任の一端を感じて、先に建てていた江の供養塔とともに忠長の供養塔も建立したと伝えられています。
京都守護職本陣となった金戒光明寺
激動の幕末、幕府の政治はあらゆる方面で行き詰っていました。そこへ各国の外国船が日本に来航し、勅許を得ずに日米修好通商条約の調印を断行した井伊直弼(いいなおすけ)は暗殺されました(桜田門外の変・安政7年・1860)。天皇を重んじる尊王思想はもとからあったものの、外国人を排斥する攘夷論と結びついて、一気に尊王攘夷の運動が盛んになりました。
井伊直弼のあと、老中・安藤信正は公武合体のもとに国内の混乱を鎮め、なんとか幕権を回復しようとします。孝明天皇の妹・和宮の徳川家茂への降嫁もその一環の策でした。攘夷派である孝明天皇は、幕府側の降嫁奏請を3度拒否した上で、10年以内に外国との条約破棄、または攘夷実行を条件につけて承諾しました。
そのころ京都は長州、薩摩、土佐などの尊攘過激派たちによる反幕運動が激化し、それに便乗して暴れる輩の蛮行も後を絶たず、著しく治安が乱れていました。そこで幕府は京都の警護を強化する目的で、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)を京都守護職に任じました。
当時会津藩は財政難に苦しみ、容保(かたもり)自身も病床にありました。家老の西郷頼母(さいごうたのも)と田中土佐に「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対され、幕府の命令を固辞していた容保でしたが、会津藩祖・保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」という家訓に押され、ついに拝命を決意します。文久2年(1862)12月、容保は会津藩士1,000人を率いて上洛しました。その本陣となったのが金戒光明寺です。容保はイケメンだったので、くろ谷から御所に向かうときには、京都の若い女子がひと目見ようとわれ先に飛び出していったそうです。
金戒光明寺は小高い丘にあり、御所に近く、大山崎や淀川までも見渡せる自然の要塞で、さらに広大な寺域には多くの宿坊があり、1000名の軍隊を駐屯させることができました。寺はそのまま城郭としての機能を備えていたので、金戒光明寺が駐屯所に決まったとみられています。
上洛した容保は文久3年(1863)正月、さっそく孝明天皇に拝謁しています。立場上、難しい関係でしたが、天皇は容保に信頼を置きました。同年3月、容保は、家茂上洛に向けて幕府が京都に送り込んだ浪士組の中で、京都に居残った芹沢鴨や近藤勇など13人を京都守護職預かりとし、これが新撰組の前身となります。容保は彼らを市中の警備に当たらせました。
同年8月、長州藩士を中心とする尊攘派は三条実美(さんじょうさねとみ)ら朝廷内の急進派と組んで、天皇による攘夷親征として「大和行幸」を画策しました。天皇は攘夷派ではありましたが、つねづね急進攘夷派の要求には頭を痛めていたようです。
このような動きに対して京都守護職は公武合体派の薩摩藩らの協力を得て、尊攘派の長州藩士と朝廷の急進派を京都から一掃するクーデターを起こしました(8月18日の政変)。このとき会津藩は1,500人の兵を動員し、薩摩藩らとともに御所を固めました。これにより、長州藩士約1,000人と三条実美(さんじょうさねとみ)、三条西季知(さんじょうにしすえとも)ら7人の公家が京都を追放され、長州へ落ち延びました(七卿落ち)。
その翌年の元治元年(1864)6月、三条木屋町の旅館、池田屋に潜伏していた尊攘派を新撰組が襲撃し、これをきっかけに長州藩が挙兵、元治元年7月19日に禁門の変が起こります。この長州藩VS会津・桑名藩との戦闘で、京都市中は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われて3万戸が焼失してしまったのです。
敗れた長州藩は「朝敵」とされ、のちに幕府により2回にわたって長州征討が行われました(2回目は家茂死去により停戦和約)。当初、敵対していた長州藩と薩摩藩ですが、四国艦隊下関砲撃事件で攘夷から開国へと舵を切る長州藩と、早くから攘夷に無理を認め、薩英戦争を通して開国の利を実感した薩摩藩は同盟を結んだ後、幕府の限界を悟り倒幕へと突き進みます。
そして徳川幕府が終焉を迎えると、鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍の布陣である会津藩、桑名藩、新撰組らが今度は「朝敵」とみなされます。慶応4年(1868)1月7日、敗戦が色濃くなり戦意喪失する会津の兵を置き去りに、慶喜とともに開陽丸で江戸へ下った容保の心中はいかばかりだったでしょうか。金戒光明寺の境内には会津藩の戦死者らを祀る墓所があります。故郷を遠く離れ、激震の時代に散った多くの人々が眠っています。