智積院
(ちしゃくいん)もと紀州根来寺にあった智積院は、豊臣秀吉に攻められて寺地を失い、のちに徳川家康により、秀吉が建てた祥雲寺を与えられて東山七条の地に復活しました。智積院は真言宗智山派の総本山です。かつて祥雲寺の客殿を飾った長谷川等伯一門の障壁画と大書院から観る名勝庭園が見どころです。
智積院・名勝庭園
山号・寺号 | 五百佛山(いおぶさん) 智積院(真言宗智山派) |
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住所 | 京都市東山区東大路通り七条下る東瓦町964 |
電話 | 075-541-5361 |
アクセス |
市バス86,88,100,106,110,206,207,208系統 「東山七条」下車スグ 京阪電車 「七条」下車徒歩10分 |
拝観時間 | 9:00-16:30 受付終了16:00 拝観休止日:12/29-12/31、1/31、4/30、7/31、10/31 |
拝観料 | 名勝庭園:一般500円・中/高校生300円・小学生200円 宝物館:一般500円・中/高校生300円・小学生200円 それぞれ20名以上で団体割引あり 障害者手帳提示により本人無料 |
公式サイト | http://www.chisan.or.jp/ |
智積院に受け継がれた秀吉の祥雲寺
智積院は大本山の成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院をはじめとして全国に約3,000の末寺をもつ真言宗智山派の総本山です。豊臣秀吉の廟所「豊国廟」がある阿弥陀ヶ峰の麓、東山七条に建っています。
この場所にはかつて祥雲寺が建っていました。祥雲寺は、わずか3歳で夭折した秀吉の嫡男、鶴松の菩提を弔うために建立された禅寺といわれています。智積院に伝わる長谷川等伯一門が描いた障壁画は、かつて祥雲寺の客殿に飾られていたものです。その客殿は約1,200坪という日本史上最大の広さをもっていたことが平成7年(1995)の発掘調査でわかりました。
智積院がこの場所に建てられたのは慶長6年(1601)のこと。関ケ原の戦いで勝利した徳川家康により、豊国神社の土地の一部と建物が玄宥(げんゆう)僧正に与えられ、智積院は「復興」しました。その後、豊臣家が滅ぶと、隣接していた祥雲寺も与えられて伽藍が整えられたといわれています。
真言宗智山派の智積院は新義真言宗の流れをくんでいます。真言宗は空海が没したあと諸流派に別れましたが、新義真言宗を興したのは平安時代後期に出た覚鑁(かくばん)上人でした。覚鑁は密教の悟りを弟子たちにどう学び伝えるかに大変苦慮した人といわれています。そもそも密教は言葉で伝える教えではなかったのですが、それでは個々の悟りは我流で主観的なものになり、同流門のなかでさえ異論が立ち並んで非難の応酬となったようです。覚鑁は、密教修行や悟りの意味を裏づける普遍的な教理を求学することこそが、当時の真言宗の立て直しに必要だと強く感じていたと考えられています。また覚鑁は、密教と浄土思想を結び付けた人としても知られています。
覚鑁は仁和寺を出て高野山に上り、鳥羽上皇の帰依を受けて大伝法院を建てました。真言密教の教理の研鑽を弟子たちに徹底するためだったといわれます。しかし高野山内では本寺である金剛峯寺や東寺との間に軋轢が生じ、やがて金剛峯寺方と大伝法院方は激しく対立します。覚鑁はやむなく紀州の根来に移って葛城山系の山岳信仰を行う豊福寺(ぶふくじ)に入り、その境内に学問寺として円明寺を建てました。覚鑁の没後、豊福寺や円明寺を含む山内一帯が根来寺とよばれ、新義真言宗の本山として発展したといわれています。
南北朝時代には、根来寺は北朝の足利尊氏を支持し、尊氏から寺領を安堵されています。また尊氏を支援していた醍醐寺三宝院の賢俊(けんしゅん)が根来寺大伝法院座主を兼任し、観応元年(1350)の光厳上皇の院宣により、それ以降は三宝院門跡が根来寺座主を兼任することが定められました。こうして根来寺は醍醐寺を通じて室町幕府の保護のもとに隆盛します。また、根来寺の山内に智積院が開創されたのもその頃だといわれています。根来寺は戦国時代の天正年間(1573-91)には寺領70万石、境内には2,000もの建物が建ち並ぶ大寺院となっていました。
根来寺の境内には周辺の豪族たちが寄進した堂宇がたくさん建ち、そこに豪族の嫡男以外の子息を住まわせるという風習ができて多くの人々が暮らしていたそうです。そうした僧侶でない人々は「行人(ぎょうにん)」と呼ばれていましたが、のちに「根来衆」と呼ばれ、戦国時代には僧侶の数より根来衆のほうが多くなっていました。
根来衆は紀ノ川から採れる砂鉄で刀や弓矢を製造し、西日本を中心に売りさばいて財を成していましたが、天文12年(1543)に種子島に鉄砲2挺が伝わると、種子島に来ていた根来衆の津田監物(つだけんもつ・算長・かずなが)が1挺を持ち帰り、堺の鍛冶師に頼んで鉄砲の製造を始めます。その後数年で根来衆は鉄砲の量産に成功し、戦国大名たちに売り渡していました。また根来衆も独自の鉄砲隊を組織し、諸大名に力を貸して莫大な富を蓄えていったといわれています。
織田信長とは良好な関係を築いた根来衆でしたが、信長没後の天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いでは家康に加担して、秀吉とは敵対しています。その翌年、秀吉は報復のため十万の兵を率いて根来攻めを行いました。このときの根来寺智積院の住職が先に触れた玄宥でした。玄宥は数百人の学侶とともに高野山に逃れましたが、根来寺は攻略され、兵火により堂宇は悉く焼失しました。
その後、玄宥は智積院の再興を願いながらも高野山から醍醐寺へ、さらに神護寺へと移り、秀吉没後の慶長3年(1598)に、家康から北野の寺地を与えられ、ようやく13年間の流寓の身に終止符を打ちます。それからまもなくの慶長6年(1601)、家康から豊国神社の土地と建物を与えられ、玄宥はそこに僧坊と講堂を建て、「五百仏山(いおぶさん)根来寺智積院」としました。秀吉によって滅せられた智積院は家康によって再生したわけで、ある種の因縁を感じます。智積院の再興を果たした玄宥は慶長10年(1605)に遷化しました。
豊国神社は亡き秀吉を神と祀った壮大な神社であったらしく、鴨川の東岸から、秀吉が葬られた阿弥陀ヶ峰の山頂までの参道にはたくさんの寺社がひしめき合い、祥雲寺もそのなかにあったようです。慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした家康は、豊国神社とその社領を没収し、すでに住職のなかった祥雲寺を智積院に与えたといわれています。ときの智積院住職は第3世の日誉(にちよ)で、家康や三女の振姫の篤い帰依を受けていました。智積院はその後、学山として隆盛を極め、最盛期には学侶1,600余人、学寮70余棟を数えました。学山智山の萌芽は、すでに平安時代の覚鑁のころにあったのかもしれません。
長谷川等伯・久蔵父子の障壁画と名勝庭園
智積院に受け継がれた祥雲寺の堂宇は天和2年(1682年)に焼失し、その後再建された建物も幾度も火災に遭いましたが、長谷川等伯一門による障壁画8作品は運よく残り、宝物館で実物を拝観できます。特に等伯の「楓図」とその子、久蔵(きゅうぞう)による「桜図」は、じっと佇んでいつまでも眺めていたい作品です。
長谷川等伯は能登の七尾に生まれ、染物屋を営む長谷川家の養子となり、若いころは信春(のぶはる・しんしゅん)と号して仏画などを描いていたといわれています。元亀2年(1571)、養父母が相次いで亡くなったのを機に、妻と子の久蔵を連れて京に上り、養家の菩提寺の本山である本法寺に身を寄せました。等伯、33歳のときでした。
秀吉の時代、狩野派は全盛期にあり、内裏や寺院の障壁画の制作は狩野派が独占していました。等伯も京都に来た当初は狩野松栄の門に入りますが、すぐに辞め、本法寺の日通や千利休と交わるうちに大徳寺に出入りして山水画を描いたり、堺と京都を行き来して、多くの宋元画に触れる機会を得たといわれています。特に利休との出会いはその後の等伯の活動を決定づけるものになったでしょう。よく知られる利休の肖像画は、等伯によって描かれたものです。
天正18年(1590)8月、仙洞御所の造営奉行であった前田玄以が対屋(たいのや)の障壁画を等伯に描かせようとしました。そのとき狩野永徳はすかさず勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)を動かして、等伯から仕事を奪ったといわれています。そしてその1ヵ月後に永徳は亡くなってしまいます。永徳は寿命を予見していたのでしょうか。狩野派一門の地位を揺るがせてはならないと思った永徳の焦りからの行動だったとも考えられています。
永徳の逝去で狩野派に動揺がひろがるなかで、今度こそ等伯にチャンスが巡ってきます。それが祥雲寺の障壁画制作の仕事でした。
「桜図」は等伯の子の久蔵が描いた障壁画で、金箔をふんだんに使って描いた雲が画面の大部分を覆い、雲の間から桜の太い幹や細い枝が伸びています。満開の桜が全体に散りばめられ、花びらは絵具が盛られて立体的に表現されていて、まるで京菓子の落雁(らくがん)のようです。久蔵の技量は父に勝るともいわれました。下方に描かれた水辺の春の草花も、桜と優しく調和しています。絢爛優美とか繊細で華やかなどと評されますが、なぜか切ない印象があります。この障壁画を描いた1年後に久蔵は亡くなっています。
久蔵の死後に描かれたといわれる等伯の「楓図」は悲しみと強さを感じる作品で、どっしりとした太い楓の幹から伸びる枝は、すべて斜め下方に向けられています。錦秋には時期尚早の色とりどりの楓の葉が背景の金雲に映えていて、泣きたくなるようなコントラストと、みずみずしさが観る者を惹きつけます。鶴松を喪った秀吉の心にはどのように映ったでしょうか。
一方、智積院の大書院からは東山随一とよばれる名勝庭園を眺めることができます。この庭は「利休好みの庭」と呼ばれ、祥雲寺の時代に原形が造られ、智積院の第7世運敞(うんしょう)僧正によって修復されたと伝えられています。中国江西省の「廬山」と「長江」を模したものといわれ、それほど奥行きのない空間に高低差が設けられ、いくつもの刈り込みと石組みが迫り、手前には池が配され、滝組や石橋が置かれています。
ツツジやサツキなどの刈り込みが、モコモコとリズミカルで、大書院からぼーっと眺めていると心地いいです。5月下旬から6月上旬がサツキの見ごろです。