泉涌寺
(せんにゅうじ)泉涌寺は、鎌倉時代に俊芿(しゅんじょう)律師によって中興され、四条天皇の大葬が行われたのち、後水尾天皇から孝明天皇まで歴代の天皇の山稜が営まれてきた皇室の菩提寺です。また、境内の一角には宋から伝えられた楊貴妃観音像が祀られ、参拝すると美人になれるといわれています。
仏殿
山号・寺号 | 東山(とうざん)、泉山(せんざん) 泉涌寺(真言宗泉涌寺派) |
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住所 | 京都市東山区泉涌寺山内町27 |
電話 | 075-561-1551 |
アクセス |
市バス 202,207,208系統「泉涌寺道」下車徒歩15分 JR奈良線「東福寺」下車徒歩20分 京阪電車「東福寺」下車徒歩20分 |
拝観時間 | 3月~11月:9:00-16:30(閉門17:00) 12月~2月末:9:00-16:00(閉門16:30) |
拝観料 |
伽藍拝観:500円 小中学生300円 特別拝観(御座所、御座所庭園、海会堂):500円 (小学生以下は同伴者要) |
公式サイト | http://www.mitera.org/ |
俊芿(しゅんじょう)の諸宗兼学の寺から皇室の菩提寺へ
東福寺から東へ歩いて10分ほどのところに泉涌寺があります。総門から参道を行き途中の別れ道を右へ行くと泉涌寺の大門の前に出ます。左の脇参道は今熊野観音寺や来迎院へも通じています。そのあたりから山麓の景色に変わり、静けさが心地いいです。大門に立つと、広くなだらかな下り参道の正面に仏殿を見下ろすことになります。
泉涌寺は、東山三十六峰を南から数えて4番目の峰の月輪山(つきのわやま)の麓に建っています。御寺(みてら)とよばれる泉涌寺は皇室の香華院(こうげいん・菩提所)で、現在も皇室との関係は深く、2010年には天皇皇后陛下(現・上皇上皇皇后陛下)も参拝されました。格調高くとびきり由緒正しき寺院です。
寺伝によれば、泉涌寺は平安時代の天長年間(824-834)に空海が建てた法輪寺に始まり、のちに左大臣・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が神修上人(じんしゅうしょうにん)を開山に迎えて再興し、仙遊寺と改称したといわれています。その後、鎌倉時代の建保6年(1218)に、俊芿(しゅんじょう)律師が、源頼朝の家臣であった宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)から仙遊寺の土地の寄進を受け、伽藍を建立しています。山内に清水が湧き出たことから寺号を泉涌寺と改めたといわれています。
俊芿は仁安元年(1166)に肥後国に生まれました。母は藤原氏、父は不詳で、生まれてまもなく村はずれの木の下に捨てられますが、3日経っても烏に食べられなかったので、姉が抱いて母のもとへ戻したと伝えられています。このことから俊芿は自らを「不可捨(ふかき)」と号しました。4歳で仏門に入り、幼い頃から明敏な頭脳を披露して周囲を驚かせたといいます。14歳で飯田山の真俊について天台と真言を学び、19歳のとき大宰府観世音寺で受戒しています。その後、京都と奈良を往復し、大乗小乗の戒律を尋ねても、満足できる師に出会えなかったとして、29歳で肥後に帰り、筒嶽(つつがだけ)に正法寺を開きました。
正治元年(1199)、俊芿は戒律の復興を目指して宋に渡り、33歳から45歳までの12年間を求法に努めます。当時の宋仏教は、禅の興隆によって、天台、華厳、律、禅、浄土の教えを融合した宗風が流行していたそうです。俊芿は天台山に登り、径山で禅を学び、四明の景福寺で如菴了宏に3年間師事して南山四分律の伝灯を継ぎました。その後、北峯宗印(ほくほうそういん)に8年間師事して趙宋天台の奥義を究め、北峯の高弟としてその名を残しています。また霊芝元照系の浄土教や朱子学も学び、宋朝風の書も体得しています。さらに、宋ですでに廃れかけていた真言密教の法を修し、その効験に宋の人々は歓喜したといわれています。
俊芿は建暦元年(1211)に帰国し、12年にわたる留学で集めた膨大な量の経典や、仏画、舎利などを請来しました。その多くは現存しませんが、教禅和合・禅浄一致の宗風をもつ宋仏教の典籍や俊芿の学風は、戒律復興の気運をあと押ししただけでなく、既存の諸宗に大きな影響を与えたと考えられています。
また俊芿自身は律学を極め、戒律厳守を重んじましたが、浄土教にも傾倒しました。当時たびたび念仏停止の処分を受けていた法然の門下たちは、その宗風を積極的に取り入れました。たとえば長西は、俊芿の著述や宋代の典籍に拠って、法然の教えとは異なる諸行本願義を起こし、また二尊院の堪空は戒律を重視し、親鸞は明恵の法然批判に対し『教行信証』に宋代元照系の浄土教典籍を引用して答えたといわれています。
帰国した俊芿は栄西に迎えられ、入洛して建仁寺に入り、翌建暦2年(1212)に稲荷の崇福寺に移りました。このとき俊芿はすでに寺院建立の構想を抱いていたようで『清衆規式』を作成して修行内容や時間割、僧侶の行動規範や作法、儀礼などを厳格に規定し、外出制限や、東司(トイレ)掃除、食事などの規則も細かく定めていました。建保5年(1217)、豊前にいた宇都宮信房は、俊芿から受戒して道賢(どうけん)と名乗り、翌年に仙遊寺の土地を俊芿に寄進しています。
その翌年の承久元年(1219)、俊芿は律を基本とし、天台、真言、禅、浄土の4宗兼学の道場として伽藍を造営するため自筆で『泉涌寺勧縁琉(せんにゅうじかんえんそ)』を書き、広く喜捨を求めました。この趣旨と名文と雄渾な筆蹟に感服して、後鳥羽院は准絹1万疋、後高倉院は准絹1万5千疋を贈ったといわれています。さらに九条道家や徳大寺公継をはじめ朝野の多くの人々から浄財を受け、嘉禄2年(1226)、主な伽藍の完成を見届けると、翌嘉禄3年俊芿は入滅します。
俊芿没後の仁治3年(1242)、12歳で崩御した四条天皇の大葬が泉涌寺で行われました。泉涌寺を皇室と結びつけたのは九条道家だと考えられています。道家は四条天皇の外祖父(四条天皇の母は道家の娘)であり、四条天皇の女御に道家の孫娘を入れていました。道家は孫の四条天皇にたいへん期待をかけていたのです。また泉涌寺のある月輪の土地は九条家(藤原氏)の根拠地であり、道家は俊芿と泉涌寺の強力な外護者でした。道家はこのあと泉涌寺の西に宋風の伽藍をもつ東福寺を建立します。
四条天皇の大葬が機縁となり、南北朝時代末期の後円融天皇から孝明天皇まで、多くの天皇・皇后・女院の葬儀が泉涌寺で営まれました。また境内東南には月輪稜(つきのわのみささぎ)と呼ばれる山稜が築かれ、多くの歴代天皇が葬られてきました。一方、霊明殿には天智天皇と、光仁天皇から昭和天皇まで歴代の天皇の尊牌が祀られており、第二次大戦後は宮内庁の管理を離れますが、現在も皇室以外の位牌は立てないしきたりがあるそうです。
仏牙舎利と楊貴妃観音を宋から伝えた湛海(たんかい)
俊芿のあと、泉涌寺をさらに隆盛させたのは俊芿の弟子で泉涌寺首座を務めた湛海(たんかい)でした。湛海は2度入宋したといわれ、1度目は寛元2年(1244)に泰山白蓮寺に入り、経論数千巻を請来しています。このとき白蓮寺に安置されていた仏牙舎利(ぶつげしゃり・お釈迦様の歯)を日本に迎えたいと請願しましたが、断られて帰国しました。湛海が再び入宋したとき、白蓮寺が荒廃していたのを目の当たりにして、日本から木材を用意して復興し、その功績が称えられて念願の仏牙舎利が与えられたといわれています。
仏牙舎利の請来は、泉涌寺が南山律の正統な寺院であることを日本仏教界に知らしめる十分な根拠になりました。仏牙舎利が泉涌寺舎利殿に安置されると、朝野からますます篤く信仰され、皇室との結びつきがさらに深まったといわれています。
大門を入ってすぐ左手に建つ楊貴妃観音堂には観音菩薩坐像が祀られています。これは楊貴妃観音と呼ばれ、湛海の2度目の留学で、建長7年(1255)に南宋から請来したものだといわれています(異説もあり)。絶世の美女といわれた楊貴妃は、唐の皇帝玄宗の寵愛を一身に受けますが、安史の乱で玄宗を惑わせたとして、玄宗自身の命によって殺されてしまいます。この等身の観音菩薩坐像は、玄宗が亡き楊貴妃を偲んで彫らせたものと伝えられています。
確かに紛れもない異国風の観音像で、口の周りのひげのようなものがちょっと気になりますが、端整な顔立ちをした観音さまです。中性的で、どこか現代風の印象があります。近年、この観音菩薩坐像の胎内に、舎利を入れた五輪塔が納められていることがエックス線で確認されました。五輪塔を納入するのは日本独自の入魂形式だそうです。また用材にヒノキの一種が使われていて、日本産の木を使ったとも考えられています。湛海は白蓮寺の修造に日本から木材を調達していることから、同じヒノキ材で観音坐像を造らせた可能性も指摘されています。
湛海によって同時期に請来されたといわれる月蓋長者(がっかいちょうじゃ)立像と韋駄天(いだてん)立像は、舎利殿の宝塔の左右に安置され、6体の羅漢像はこの観音堂に安置されています。いずれも希少な南宋彫刻の仏像です。