二尊院
(にそんいん)二尊院は、嵯峨天皇の勅願により円仁(慈覚大師)が建立したと伝えられる天台宗の寺院です。その名の通り双子のような釈迦如来と阿弥陀如来の二体の本尊が祀られています。総門からまっすぐに続く参道は「もみじの馬場」と呼ばれ、両脇から降り注ぐ秋の紅葉が有名です。
総門
山号・寺号 | 小倉山 二尊院(天台宗) |
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住所 | 京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27 |
電話 | 075-861-0687 |
アクセス | JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」下車 徒歩約20分 京福電車 嵐山線「嵐山」下車15分 市バス 28,91系統「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩10分 |
拝観時間 | 9:00-16:30(受付終了) |
拝観料 |
大人(中学生以上)500円 小学生以下無料 30名以上の団体:大人(中学生以上)450円 小学生以下無料 障害者手帳の提示で本人無料 |
公式サイト | http://nisonin.jp/ |
貴人・文人が愛した小倉山の麓に建つ二尊院
小倉山 峰のもみじ葉 こころあらば
今ひとたびの みゆき待たなむ
これは百人一首に入っている藤原忠平の有名な歌です。二尊院の山号にもなっている小倉山は古くからもみじの名所で、貴人や文化人たちにこよなく愛され、歌に詠まれたところです。二尊院の境内にもゆかりの歌人の歌碑が立ち並んでいます。
境内には歌人として名高い西行法師(1118-1190)の庵跡の碑が立っています。西行は、平将門を討った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の8世孫で武門の家に生まれました。俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)。北面の武士として鳥羽院に仕えた頃、すでに和歌も武芸も高く評価されていましたが、23歳で突然出家しています。理由は、友人の死、とか、失恋など諸説ありますがよく分かりません。その後、真言僧として全国各地を放浪し、行く先々で庵を結び、和歌を残し、嵯峨にも縁の深い僧でした。
西行が亡くなった後に編まれた『新古今和歌集』には彼の作品94首が選ばれており、入選した歌人のなかで最も多い作品数です。また西行が亡くなる10年ほど前に詠んだ歌では、自らこの世を去る日を言い当てていたともいわれています。
ねかわくは 花の下にて われ死なん
そのきさらきの もち月のころ
(『拾玉集』)
文治6年(1190)2月16日、西行は73歳でその生涯を閉じました。如月(きさらぎ)は2月、もち月は満月の15日頃を指します。この歌は「われ死なん」を「春死なん」と置き換えられて『新古今和歌集』に入っています。
鎌倉時代にできた『新古今和歌集』の撰者には藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)が加わっており、小倉山百人一首を選んだのも定家でした。彼が嵯峨に「小倉山山荘(時雨亭)」を営んだことはよく知られていますが、その場所ははっきりしていません。二尊院の境内にも時雨亭跡といわれる場所があります。傑出した歌人でしたが、18歳から74歳までの間、漢文で記した日記『明月記』も有名です。
二尊院は正式名を小倉山二尊教院華台寺(にそんきょういんけだいじ)といい、貞和年間(834-847)に、嵯峨天皇の勅願により円仁(慈覚大師)が建立したといわれています。本尊には、現世から極楽浄土に送り出してくれる「発遣(ほっけん)の釈迦」と、極楽浄土から迎えにくる「来迎(らいごう)の弥陀」の二尊が祀られることから二尊院と呼ばれています。
本堂にはそっくりな形をした二体の本尊が並んでいます。向かって右側の釈迦如来立像は、右手を上げて手のひらを正面に向けています。これは「施無畏(せむい)の印」とよばれる印相(いんぞう)で「畏れを無くすよう施す」という意味を表しているそうです。釈迦如来が「さあ浄土に行ってらっしゃい」と背中を押しているようなポーズです。
一方、向かって左側の阿弥陀如来立像は、左手を上げて親指と人差し指で輪をつくり「来迎の印」を結んでいます。「はいオッケー、お疲れさんでした」と迎えてくれるのかもしれません。
本堂の「二尊院」の勅額は後奈良天皇から下賜されたもの。二尊院は、南北朝のころから明治初期まで京都御所の御内仏殿の仏事をつとめていた歴史があり、また天皇名代として勅使参詣も行われていました。このように二尊院は朝廷とのつながりが深く、旧摂関家の二条家、鷹司家、三条家、四条家や三条西家の菩提寺となっています。
またそれ以前には、法然が九条兼実の帰依をうけて二尊院を再興し、法然の高弟であった湛空(たんくう)が中興して寺門を隆盛させていました。湛空は土御門天皇と後嵯峨天皇の戒師も務めています。そんな二尊院ですが浄土宗専修の寺とはならず、明治維新まで天台、真言、律、浄土宗の4宗兼学の寺院でした。現在は創建当初と同じ天台宗の寺院です。
本堂裏手の長い石段を登ると湛空の廟があります。嘉禄3年(1227)、延暦寺による浄土宗への弾圧(嘉禄の法難)で、大谷の法然の廟所が襲われたとき、弟子たちは法然の遺骸を運び出し、光明寺で荼毘に付しました。そしてその遺骨の一部を分骨して二尊院に祀ったのが湛空でした。また、法然が延暦寺の抗議に対応して弟子たちを戒めた「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」も二尊院に伝えられています。
本堂には法然上人の「足曳きの御影」とよばれる肖像画があります(実物は京都国立博物館蔵)。これは九条兼実が絵師の宅間法眼に描かせたものですが、出来上がった当初は法然が片足を出している絵だったといわれています。それを見て不作法な姿を恥じた法然が念仏を称えたところ、足が衣の中に引っ込んだので「足曳きの御影」と呼ばれるようになったそうです。
時代が下り、応仁の乱で二尊院の堂宇はすべて焼失しています。乱後、二尊院の住持は浄土宗西山派の三鈷寺の住持が兼帯することが多くなり、三鈷寺と二尊院の住持であった広明恵教(こうみょうえきょう)が二尊院の再建にあたりました。また、恵教の師である念空宗純と交流の深かった三条西実隆(さんじょうにしさねたか)と、その子、公条(きんえだ)が支援して、戦乱から30年後に本堂と勅使門が再建されたといわれています。
なお瓦葺の立派な総門は、角倉了以(すみのくらりょうい)により慶長18年(1613)に伏見城の「薬医門」を移築されたものです。了以は嵯峨生まれの豪商で、私財を投じて大堰川や高瀬川をはじめ、富士川、天竜川の開削・通船を行いました。了以の祖先は近江の佐々木源氏の流れをくむ吉田氏で、室町時代に医家として京都嵯峨に定住しました。了以の曾祖父、吉田宗臨の代からは土倉(貸金業)と酒屋も営み、角倉を屋号としていました。
了以の父、吉田宗桂(よしだそうけい)は足利義晴の侍医をつとめましたが、了以は医業を継がず、土木・地理を学び、本家筋と別れて角倉家を名乗りました。その後、了以は子の素庵とともに河川開削・通運を進める一方で、安南国(ベトナム)との貿易を行い莫大な富を成します。そして貿易で得た財で土木工事を行い、完成したのちに通行料として工事費用の元を取っていたといわれています。その行動力と功績は、後世京都の多くの人々に讃えられました。二尊院は角倉家一族の菩提寺でもあります。
また、了以の子の素庵は父の跡を継ぎましたが、儒学者でもありました。儒学の師と仰いだ藤原惺窩(ふじわらのせいか)とは、舟を出して2人で保津峡を遡ったことも伝えられています。時代が下ると、保津川の通船は物流のほか、例外的に個人客も受け入れるようになったようです。寛政6年(1794)の運賃は「保津より嵯峨まで1人1升なり」とされていました。なお、晩年にらい病を患った素案のお墓は化野念仏寺にあります。