六角堂
(ろっかくどう)本堂の形から六角堂とよばれる頂法寺(ちょうほうじ)は聖徳太子ゆかりの寺として知られています。本坊は華道の家元、池坊。天台宗のお寺です。また鎌倉時代初期に親鸞が百日参籠した寺としても有名です。本堂前のへそ石(要石)は京都の中心といわれるとおり、六角堂は京都市街の真ん中にあり街なかの散策も同時に楽しめます。
六角堂
山号・寺号 | 紫雲山(しうんざん)頂法寺(天台宗) |
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住所 | 京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町 |
電話 | 075-221-2686 |
アクセス |
地下鉄「烏丸御池」下車徒歩3分 阪急京都線「烏丸」下車徒歩5分 |
拝観時間 | 6:00-17:00 納経:8:30-17:00 |
拝観料 | 無料 境内自由 |
公式サイト | http://www.ikenobo.jp/rokkakudo/ |
聖徳太子の創建伝説と如意輪観音
六角堂は、オフィスビルの立ち並ぶ烏丸通と、東西に延びる六角通りの交差点から東へすぐのところにあります。京都市街の中心に位置し、京の台所と呼ばれる錦市場や百貨店、ホテルや飲食店、京町屋や京都文化博物館なども近くにあり、拝観の折には街歩きも楽しめます。
俗に「六角堂」で通っているので頂法寺といわれてもピンと来ません。本堂が六角宝形造りなのでそう呼ばれています。六角堂は西国三十三所観音霊場の十八番札所となっています。
さてその六角堂ですが、創建について『六角堂縁起』によれば以下のように伝えられています。
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聖徳太子は淡路の岩屋に流れ着いた小箱のなかに如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)を見つけて護持仏とし、「物部守屋(もののべもりや)との戦に勝利をおさめることができたなら、四天王寺を建立しよう」と観音像に誓った。
用明天皇2年(587)、守屋との合戦に勝利した聖徳太子が四天王寺建立のための建材を求めてこの地を訪れたとき、池で沐浴中に脇の木の枝にかけた護持仏が離れなくなった。太子が祈るとその夜、夢に如意輪観音が出て「この地にとどまり衆生を救済したい」と告げたため、太子は観音様のために堂を立てる決心をした。すると老婆が現れて「近くに毎朝紫雲がおりてくる杉の樹があるので用材に使うとよい」と言う。翌朝、太子は老婆が言ったとおりの杉の大樹を見つけ、切り倒して六角堂一宇を建てた。
その後、平安京造営のとき、建設予定の街路の真ん中に六角堂が建っていて邪魔だった。勅使がやってきて危うく取り壊されそうになったところ、暗雲が立ち込め、すぐさまお堂自ら5丈(15m)ほど北に移動した。こうして当初の計画通りに条坊建設が進められたという。
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聖徳太子、すなわち厩戸皇子(うまやどおうじ)は、敏達天皇3年(574)に用明天皇の皇子として生まれ、推古天皇の摂政として活躍した飛鳥時代の政治家といわれています。仏教擁護の立場から、崇仏派の蘇我馬子について廃仏派の物部守屋の軍と戦い守屋を滅ぼしたとも。また、聖徳太子は自分の死後200年以内に平安京に都が遷り、その千年後に東京に遷都されると予言したとも伝えられています。聖徳太子は何かとナゾの多いひとでした。
『六角堂縁起』は、聖徳太子の創建といい、お堂のテレポーテーションといい、何かを示唆しているように思われます。聖徳太子が山城国に来たことがあったかはどうかは不明ですが、訪れたという伝承は広隆寺にも伝えられています。なお六角堂の前には六角通が東西に延びていますが、藤原道長の『御堂関白記』には「六角小路」と記されていて、通りの名は六角堂から採用されたそうです。また境内には「へそ石」と呼ばれる要石(かなめいし)があり、その場所は京都の中心とされてきました。
実際に六角堂の名が記録に現れ出すのは平安中期以降で、榊原史子氏の研究によれば、藤原実資(ふじわらのさねすけ)の『小右記』には自ら六角堂に参詣した記録が67箇所もあり、藤原頼長の『台記』には参詣記録が33箇所もあるそうです。藤原氏の九条兼実もたびたび六角堂に参詣していました。そのほか、崇徳天皇や鳥羽法皇、三条実房(さんじょうさねふさ)、平徳子(建礼門院)をはじめとする高貴な人々が参詣し、平安末期になると貴賤を問わず民衆が篤く信仰するようになっていました。
後白河法皇が編んだ『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には「観音験を見する寺、清水石山長谷の御山、粉河近江なる彦根山、間近く見ゆるは六角堂」とあり、都に暮らす人々にとって六角堂の身近さが分かります。また、『今昔物語集』巻16・第32話「隠形男依六角堂観音助顕身語」には名もない庶民の六角堂信仰を表す次のような説話が収録されています(大意)。
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六角堂にいつも参拝していた年若い男がある年の大晦日の夜、一条戻り橋のあたりで鬼たちの往来を見て隠れたが、最後の鬼に見つけられて唾を吐きかけられた。男は殺されずにすんだので喜んで家に帰ると、妻も子も自分の姿が見えていないことに気付いて落胆した。男は六角堂に参って観音様に元の身体に戻してくれるよう祈願すると「明朝ここから出て最初に出会う人に従え」という夢のお告げがあった。
翌朝六角堂を出たところで牛飼いの童に出会い、ついていくと大きな家に姫君が病に臥せっていた。そこへ修験者が現れて加持祈祷をしたところ、男の着物に火がついて燃えたので男は叫び声をあげたが、それで男の姿は人から見えるようになった。その途端、姫君の病もすっかり癒えた。修験者は「六角堂のご利益だ」といい、姫君も姫君の家族も、男も男の家族もよろこんだ、と語られます。
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一方、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、聖徳太子信仰も高まりました。平安時代末期、悪左府(あくさふ)と呼ばれた藤原頼長は、先に述べた通り、六角堂に足しげく通っていましたが、聖徳太子を崇敬していたため四天王寺にも何度も参詣し、執政の座につくことを祈願していました。そして念願叶うと、太子の十七条憲法を政治刷新の信条としたほどでした。頼長は藤原忠道の養子ですが、忠道の実子である慈円(じえん)も、四天王寺や河内の「上宮太子之古墳(聖徳太子廟)」を参拝しています(『拾玉集』)。また、一遍上人や時宗の民も太子廟に参拝する様子が『一遍上人絵伝』に伝えられています。
そんななか、親鸞(しんらん)上人も聖徳太子を崇敬していました。親鸞は誰もが救われる教えを求めて比叡山を下り、聖徳太子の導きを受けようと六角堂に100日参籠することを心に決めました。そして95日目の夜、夢の中に太子の化身である観音菩薩が現れて、女犯の苦悩を解き、法然に師事するよう告げたといわれています。境内には親鸞を祀る親鸞堂があります。
室町時代中期には、六角堂は下京の中心的な町堂となり、集会や貧窮民への施食などが行われました。また祇園祭の山鉾巡行順を決めるくじ改めが行われたり、天文5年(1536)の延暦寺と日蓮宗の騒乱である「天文法華の乱」の際には、京の町衆が六角堂に集結しています。豊臣秀吉が市中の寺を寺町に集めたときにも六角堂は拒否しつづけたといわれています。このように、中世以降の六角堂は下京(現在は中京)の町衆にとって精神的支柱でもあったのです。