平等院
(びょうどういん)平等院は平安時代に藤原頼道によって建立された寺院で、10円玉にも描かれています。平安王朝の栄華を誇った貴族たちが末法の世に夢見たのは極楽往生でした。平等院には「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまへ」(極楽が信じられないなら宇治の平等院に参ってみよ)といわれた浄土世界が表現されています。
平等院鳳凰堂
山号・寺号 | 朝日山 平等院(単立) |
---|---|
住所 | 京都府宇治市宇治蓮華116 |
電話 | 0774-21-2861 |
アクセス |
JR(リンク:JRおでかけネット)奈良線「宇治駅」下車徒歩10分 京阪電車 宇治線「宇治駅」下車徒歩10分 |
拝観時間 |
平等院庭園: 8:30-17:30(17:15受付終了) 平等院ミュージアム鳳翔館: 9:00-17:00(16:45受付終了) 鳳凰堂内部(ガイド付):9:30-16:10 |
拝観料 |
庭園+平等院ミュージアム鳳翔館: 大人700円 中高生400円 小学生 300円 障がい者手帳を提示の方、および、付添1名:半額 鳳凰堂内部:300円 |
公式サイト | http://www.byodoin.or.jp/ |
藤原頼道が夢見た極楽浄土の世界
平等院は、もとは嵯峨天皇の十二男、源融(みなもとのとおる)が建てた別業でした。その後、陽成天皇の離宮となり、宇多天皇、朱雀天皇と受け継がれたのち、藤原道長が、妻の倫子(りんし)の叔父である源重信(みなもとのしげのぶ)から譲り受けて宇治殿としています。やがて道長の子、頼道に受け継がれ、永承7年(1052)、頼道は本堂を建て、大日如来を安置して「平等院」と号しました。この年は末法思想でいうところの末法元年にあたります。
末法とは釈迦の誕生から二千年後の世で、仏法の教えだけが残り、修行の道も悟りの道も失われて人の心は荒廃し、天変地異が繰り返されて世が乱れ、暗黒世界に陥る時代といわれています。末法の世が意識され出したのか、平安時代中期ごろから現世に限界を感じた人々の間で浄土信仰が盛んになり、貴族たちは寺を建て、極楽浄土をこの世に再現して往生を祈ったといわれています。
平安王朝の時代に天皇の外戚となり、権勢を誇った藤原北家一門は、道長の時代に全盛しました。寛元元年(1017)、道長は嫡男、頼道に摂政と氏長者を譲り、翌年の寛元2年(1018)に四女の威子(いし)を後一条天皇の中宮として「一家立三后」を実現し、後継体制を固めました(妻彰子を太皇太后、次女妍子を皇太后、四女威子を皇后に立后)。道長の有名な「この世をばわが世とぞ思う…」は威子立后の祝宴で詠まれたといわれています(『小右記』)。けれども、道長はその直後に病を得て「望月」は欠けはじめました。それもあって、法成寺(ほうじょうじ)の建立が急がれたのです。
現在は荒神口のあたりに跡を留めるだけの法成寺ですが、道長は荘園や国領から強制的に資材や人夫を調達し、仏師も大勢集めて8カ月で無量寿院を造営しています。堂内は贅を尽くしてを荘厳され、九体の丈六阿弥陀仏を安置、その後大日如来を安置する金堂なども建立され、治安2年(1022)に伽藍が整いました。道長が62歳で亡くなるのはその5年後の万寿4年(1027)で、臨終の際、阿弥陀如来の手から引いた糸を握り、北枕で西向きに横になって往生したといわれています(『栄華物語』)。
天喜元年(1053)、つまり平等院創建の翌年に、関白であった頼道は平等院境内に阿弥陀堂を建て、定朝(じょうちょう)が造った阿弥陀如来坐像を安置し、堂内を荘厳して極楽浄土の世界を造り上げました。都での頼道の権力はいまだ絶大でしたが、父、道長が没した直後には、房総で平忠常が反乱を起こし、永承6年(1051)には奥州で前九年の役が起こっていました。荘園が全国に拡大するにつれて寺社の勢いは増し、地方では武士団が形成されつつありました。貴族没落の不安は頂点にいるものほど強く感じていたかもしれません。
鳳凰堂(阿弥陀堂)は、阿字池(あじいけ)と呼ばれる池の中心に中島が置かれ、そこに建っています。中堂の左右に翼廊が、背後には尾廊が伸びて、鳥が羽を広げて飛んでいるような独特のスタイルです。また屋根にも一対の鳳凰が飾られていることから「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降といわれていますが、建立当時すでに頼道は自らを浄土へ導いてくれる鳳凰を想定して設計したのではと想像が膨らんできます。
中堂の拝観は、当日に申し込み、指定された時刻に中に案内されて説明を聞くことができます。内部には本尊の阿弥陀如来坐像(国宝)一体が安置されていて、これは平安時代の最高仏師、定朝の造像と確定されるわが国唯一の仏像です。2.79メートルにもおよぶ寄木造りの大きな阿弥陀さまで、蓮台に結跏趺坐(けっかふざ)し、ふっくらとした顔に伏し目がちの眼、なで肩にかけられた衣の紋は流麗で、いかにも優しげな印象があります。
阿弥陀坐像の上方には方蓋と円蓋からなる二重の天蓋が覆っていて、その全面に宝相の唐草文様の透かし彫りが施されています。超豪華なアールヌーボーのシャンデリアみたいです。なお阿弥陀さまの巨大な光背(こうはい)は、のちに補修されたもので、当初はもう少し小ぶりだったそうです。現在のものは天蓋が隠れるほどの大きな光背です。
鳳凰堂の扉や壁には九品来迎図(くほんらいごうず)が描かれています。九品とは浄土教による往生のランクで、生前のその人の性質や行いによって決まるそうです。上の上から中の中、下の下まで9段階あり、ランクによってお迎えの質も変わってくるらしいのですが、下の下でも往生できるそうです。当時の極彩色はほとんど失われて来迎図そのものもよく見えませんでしたが、剥落にも長い時の流れを感じます。
また長押(なげし)の上部四方の壁には多くの雲中供養菩薩(国宝)が雲に乗り、さまざまな楽器を奏でたり、舞を踊ったりして、極楽浄土から迎えに来るようすが表現されています。これが頼道の憧れた来迎シーンなのでしょう。その夢は叶ったでしょうか。雲中供養菩薩は全部で52躯あり、現在は半分の26躯が鳳凰堂に安置され、残りが鳳翔館に展示されています。
阿字池をはさんで鳳凰堂の対岸から中堂の丸窓越しに阿弥陀如来さまを正面に拝むことができ、ここは写真スポットにもなっています。西方極楽浄土にあるという阿弥陀如来の宮殿になぞらえて造られた鳳凰堂は、浄土教庭園の中心に建ち、真東を向いています。頼道亡き後、娘の四条宮寛子(しじょうのみやかんし)がこの写真スポットの付近に小御所を建て、丸窓の向こうに見える阿弥陀如来と西方浄土を拝んだと考えられています。
南へ回ると近代的な建物の「平等院ミュージアム鳳翔館」があり、国宝や数多くの文化財が展示・収蔵されていて、日本三大梵鐘のひとつといわれる鐘楼や26躯の雲中供養菩薩などを間近で見ることができます。
かなり以前に平等院を訪れたとき「失われた愛の腕を探す」とかそんなテーマで南24号菩薩の復元に迫る展示がありました。南24号菩薩は明治の修理以降にいつの間にか右腕が失われたそうで、いったい何の動作をする菩薩なのかに焦点が当てられていました。
背中に「愛」の墨字があることから、南24号は「金剛愛菩薩」と想定され、弓矢を持たせた模型が造られました。愛と弓矢といえばローマ神話のキューピッドを連想しますが、じつは金剛界曼荼羅に描かれる金剛愛菩薩も弓矢を持っています。その後の調査でやはり南24号は金剛愛菩薩だったことが判明して、弓矢をもった姿で復元に至りました。お釈迦様が執着の煩悩だと説いた「愛」ですが、東西の神話や密教は早くから同じような概念で融合していたのかも知れません。
宇治川と合戦と平等院
創建以降、平等院の境内には鳳凰堂に続いて多宝塔、法華堂、護摩堂、宝蔵などが建てられましたが、それらの堂宇は早くに焼失しています。江戸時代の「平等院境内古図(最勝院本)」を見ても、境内の様子は現在とあまり変わっていません。それでも平安時代に建立されたままの鳳凰堂が残ったのは奇跡的だといわれています。このあたりでは宇治川を挟んで何度も合戦が繰り広げられました。
境内の「扇の芝」は源頼政が源平の合戦で自害した場所と伝えられ、子院の最勝院に墓が祀られています。
源頼政は平氏政権下で昇進を果たした稀有な源氏でしたが、皇位継承に不満を抱いていた後白河法皇の第三皇子、以仁王(もちひとおう)と謀り、平氏討伐を目論みます。治承4年(1180)、以仁王が諸国の源氏と大寺院に平氏打倒を呼びかけますが、この計画は事前に平家方に漏れたため失敗。以仁王は園城寺に逃げ、頼政も合流しました。
しかし園城寺にも危険が迫ったため、以仁王と頼政の軍は興福寺を目指します。その途中で疲れ切って休息したのが平等院でした。けれども平知盛(たいらのとももり)・重衡(しげひら)・忠度(ただのり)らの軍に追いつかれ、宇治川を挟んで戦います。この様子は『平家物語』の「橋合戦」や、九条兼実の『玉葉』に詳しく述べられています。『平家物語』によれば、平家方は2万8千の大軍(大袈裟かも)。頼政は以仁王を興福寺へ逃がすため、死を覚悟の上で奮戦し、最後は境内で果てるのでした。
ほどなくして、寿永3年(1184)には、木曽義仲の軍と源範頼・義経率いる鎌倉軍が宇治橋を舞台に戦い、義仲軍は惨敗しています。なお、義仲の異母兄、仲家は先の以仁王・頼政らと行動を共にして討死しています。また承久3年(1221)の承久の乱では、後鳥羽上皇率いる朝廷方と鎌倉幕府方の足利義氏と三浦泰村が宇治橋で激突しました。
ここまでの戦で平等院に対する目立った被害は伝えられていません。しかしついに戦火が襲います。それは建武3年(1336)、後醍醐天皇方の楠木正成軍と足利尊氏方の畠山高国軍の戦いでした。このとき楠木正成によって放たれた火で、平等院のほとんどの伽藍が焼失してしまいます。焼けなかったのが阿弥陀堂と北門、鐘楼でした。幸運というほかありません。
ところでもともと平等院は天台宗の寺院でした。第一代執印(住職)は頼道が帰依していた園城寺の大僧正、明尊がつとめ、第二代執印は頼道の子の覚円がつとめています。中世になり、明応年間(1492-1501)に浄土宗の僧、栄久が堂宇の修復を行ったことを契機として、塔頭、浄土院が創建されました。天和元年(1681)寺社奉行の裁定以降、最勝院と浄土院が交替で平等院の管理にあたっています。